黒咲と旧拝屋邸
春風がそよぐ廃村の光景を真下に眺めながらかつて大家族であったであろう屋敷の庭石に座り、お弁当を食べていた。遠くには△市も一望できた。はるか降方に望む市はまるで河川のように縦長に建物が建っている。昔、市の中央に河川があり、それを利用して他の街との交易、物流が盛んだったと聞いているが、ここに住んでいた人達はこの風景をどんな気持ちで暮らしていたのだろう。日常の一風景としてだろうか。自分たちとは違う生活を見下ろしていたのだろうか。それともいつか山を下り一旗立てようとしていたのだろうか。しかし、今はここには人影すらなく、ただその名残りが心地よい春日に照らされているばかりだった。
雫は早々にコンビニで買ったサンドイッチを食べ、私が朝早く起きて作ったお弁当を物欲しそうにみている。お情けで卵焼きをくれてやった。
「凄い! とろとろでほどよい甘さが卵の味を引き立ててる……」
なかなかグルメなやつめ。目を細めて美味しそうに食べている雫にちょっと嬉しくなる。自分でもなかなかの会心のできだったのだ。おだててられたような気もするが、もう一個、もう一個と動物園の餌付けコーナーの小動物のように食べる雫に卵焼きをすべて食べさせてしまった。
褒められるとすぐ調子に乗ってしまう私はちょろいのかもしれない。
雫は満足そうに食べ終わると「さて、美味しい卵焼きと、この侘しい山村の風景も堪能したことだし、拝屋家、現当主のご帰還といきますかね」と言葉はふざけていたが、いつになく真剣な表情で立ち上がった。
伸びをし、準備体操のように指を器用に曲げ(雫によると霊的な指の印らしい)、なにか確認しているようだった。その姿は霊能者というよりここ一番の試合に望むアスリートのようにみえる。
雫は「着いてきて」というと道を歩き出す。いつものように上手いのか下手なのかよくわからない歌は口ずさまず、いつになく真剣な背中で上へ上へと歩いてゆく。その道の終わりには、大きなお寺のような屋敷が建っていた。
なにも知らない人でもそこがこの村にとって特別な建物だということがわかるくらい威容を誇る建物だった。近づくと細部が見えてきたが、それはおかしな様式だった。基本的な部分は神社か仏閣様式なのだろうが、壁には一面、幾何学模様の彫刻が施され、獣や鳥、植物や花などの造形は一切なかった。その代わり尖った三角形、あるいは四角形が針のように、あるいは波のように張り出し、あるいは卵形の楕円が花弁か貝類の肉襞のように重なりあっている。それはスペインのサクラダファミリアのようにもみえるし、イスラム寺院の壁に描かれた幾何学模様ようだとも思う。もしくは北欧の孤独な老人が造ったアウトサイダーアートのようにもみえた。むしろそれよりは共産主義国の公共事業で建てられた前衛アートの方が近いかもしれない。いや、何かに喩えれば喩えるほど、いまみているものから遠ざかるような気がする。これを言い表すには何ものにも属さない、ここにしか存在しない建物といったほうがよさそうだった。ただその異様な形を維持するには無理のあるデザインなのだろう。村にあるどの建物より荒廃が激しく、少し傾いているようだった。
「ずいぶん瀟洒な御殿だな、拝屋宅は」
私の皮肉は雫には届かず「まぁね」と雫は額に滲んた汗を手の甲で拭った。そんなに疲れたのだろうか。拭ったそばから汗がまた額から滲み出ていた。
「やっぱ、インチキじゃなかった……私にはこれ以上は無理だわ」と旧拝屋邸のまえの庭の真ん中で膝をついた。
なんだかちょっとわかってきた。
「なるほど……強力な力ね」
「……霊感ゼロの夜子にもわかるくらいの力、か」
春の昼下がり、廃村の大きな庭で高三女子が中二病ごっことは吹き出しそうになる。私はなにも感じない。ただ雫に合わせただけだ。なんというか、雫が学校でいっていたことを思い出していた。たしか、「夜子の学生時代の想い出づくりも必要だと思う」とか、なんとかいっていたような気がする。つまりなにかの仕込みがあるのではないか、と思った。
まず、雫はここに来るまで地図やスマホを一切みてはいない。つまり、何度かここに来ているということになる。着ているものだって、ジャージの上にウィンドブレーカーという気軽なものだ。出発してどれくらいで着くのか、どういう場所なのか熟知しているのだろう。
「悪いけど、私はここまでが限界……お願いがあるの」
うわっ、予想通り過ぎる。やっぱりきた。ミッション開始だ。おおかた屋敷に入って奥にあるなんか変な像でも持ってくるか、破壊してきてとか、そういう流れだろう。
「曾お祖父さんが教祖をやっていたときの御神体がまだ奥にあると思うんだ」
当たりすぎていて怖いくらいだ。
「わかった。もし、大丈夫なら持って帰ってくる。でもダメなら……破壊するしか」
雫は私の言葉に黙って頷いた。
ちょっと! 雫、めちゃくちゃ演技うまいんですけど!
なんのことはない霊感少女提供の肝試しかなにかなのだろう。霊感ゼロの私を怖がらせたいとかではないだろうか。夜に来ると自分が怖いから真昼間に来たとかそういうところだろう。一昨日だったかに学校の屋上でもそんなことがあったな。なんだか記憶が曖昧だが、雫の好演技をみせられたような気がするが、今回もそのようなものだろう。まずはこの呪われた拝屋邸をスマホで写真に撮った。
「余裕ね、夜子」
「まずは落ち着かないと」
なにかしら仕込みがあるなら私もそれ相応のリアクションでもしなければならないだろうか。
「本当は夢で見た黒咲夜子さんに夜子のことを頼まれたから、無理はして欲しくないんだけどね。夜子ならできそうだったからさ。ここは心霊スポットではあるんだけど一般的には知られていないんだ。おそらくは<組織>が情報統制をしていると思う。だからこんな景観の良い廃村でも来訪者は少ないんだ。落書きもないし、破損箇所もほとんどないでしょ? たぶん家にあの瓶を預けに来たもしゃもしゃ頭のライターさんもここのことは知らないんじゃないかな。でね。私がなんでこの場所を知ってるかっていうと。拝屋家を調べているうちにここに辿り着いたんだ。実はね。家のお爺さんが自殺してるんだ。なぜかはわかっていない。自殺なのかも疑わしいってお父さんはいっていた。お父さんはたぶん<組織>絡みだと思っているんじゃないかな。言葉には出してないけど、なんとなく。そしてお爺さんはもしかしたら、曾お祖父さんについて調べていたんじゃないかって思っているんだ。お父さんはなぜか八ヶ谷峠のこととなると思考を停止して、あそこに行くのはダメだの一点張りになる。そこで気づいたんだ。怪異に曝された者はどうにかして科学的思考をフル回転させて怪異をなかったことにしたがる。お父さんは知らず知らずに八ヶ谷峠の怪異にあったんじゃないかって。そしてお爺さんは八ヶ谷峠の怪異に立ち向かって自殺に追い込まれた……学校の屋上で私がそうなったようにね。曾お祖父さんはここで拝屋家の力を別のことに使った。本来、人を救い、祓い、あるべき状態に戻す力ではなく。逆の方向に使ったんじゃないかって思っている。この廃村の住人はどこへいったのか。なぜこれだけの廃村が心霊スポットとしてネットや噂にならないのか。まだ力は発し続けているんじゃないかと思っているんだ。そして、夜子、あなたならこの村の怪異を終わらせることができる」
雫は旧拝屋邸の入口付近までいき、ウィンドブレーカーのポケットから梵字の書かれた和紙を出し、それを地面に置き、四隅を風で飛ばされないようにその辺に落ちている小石で固定し、旧拝屋邸に向かって印を切りながら話ていた。
それにしてもなかなか凄い設定だ。開いた口が塞がらない。
「なぜならあなたは本来あるべき姿ではないからだ。魂が分割されている状態だから。人の魂は古来から分割出来るものだとされている。古代日本では荒御魂、和御魂。古代中国では魂、魄。さらに紀元前四千年のエジプトではさらに肉体、個性、真名、命源、影、心臓、不死、精神、生命力と見えないはずの魂を九つのセグメントとして考えていた。もしかしたらさらに上古の人類は現在の解剖学のように魂の部位を鮮明に認識できていたのかも……話がそれたけど、あなたは今、分割されたけどひとつ存在として現世を生きてる稀有な存在なの。怪異はあなたを捕まえることはできない。なぜなら怪異が掴み、侵食するであろう魂の部位が存在しないから。そして、拝屋家をはじめとする霊能者の秘密を教えてあげる……霊能や呪術とは祓い、浄め、本来の姿に戻す弱い力だといったけど、本当は現世を真言や呪禁などの言語によってまったく新しく構成する力なんだ。霊力は言語によって世界の相貌を一変させる。場合によっては、現世の規則を完全に破壊することすらできるかもしれない。けれどもそれを制御することは現世ではできない。大抵、すぐに霊力の効果は消え去ってしまう。だが怪異に対してはそれが思い通りに通用する。なぜかわからないが現世は私たちを拒んでる。怪異に曝された人間の思考のように。もしかしたら私たち霊能者は言語を介する怪異そのものなのかもしれない」
これからちょっと汚いとこに入るから爪をもう少し切ってくるんだったなぁと眺めていた。そうそう、リュックのなかにライトが入っていることを思い出した。「姉ちゃん、ライトもいるかもよ」と半分ふざけながら如月がいったのを「確かに!」とふざけながら入れたのが、よもや役に立つとは思ってもみなかった。そして悪ふざけ半分に軍手も入れたことを思い出してリュックのなかから出した。昨日の夜、はしゃいで色々用意した私、凄いな。
「ねぇ、夜子、私の話聞いてる?」
「もちろん」
私は軍手をはめ、ライト持ち、雫の問いにサムズアップで応えた。
正直、雫の設定なんて全然聞いてなかったけどな。




