橘の糸
『すみません。日高宅から運送品を奪うつもりでしたが、家のどこを探してもありませんでした。家屋が密集している住宅地ということもあり、床や天井を剥がすこともできず、めぼしい棚や収納家具を探っただけですが、どこにも運送品はありません。もしかしたら別の場所に隠したのではないかと思います』
既読。
『わかった。その件については手をひけ。正直、そこまでされるとこちらも困る。君の残した証拠は組織で握り潰す。君は証拠を残していないと思っただろうが、あまりにも雑だ。現場には君に繋がる証拠はしっかりと残っていた。テレビやメディアに取り上げられる警察の捜査がすべてではない。彼らにも彼らしか知らない特殊かつ専門的な調べ方がある。組織としてはその調べ方についてはすべて把握はしているが、日々その精度は向上している。厄介なイタチごっこだ。幸い、捜査に加わったひとりが構成員だったのでなんとかなったが、日高宅に空巣に入られたという事実は消えない。以後、こういった荒事は無しにしてもらいたい』
既読。
『すみません。以後、気をつけます』
既読。
『正直、この件についてはもういい。終了ということで、飲み会の話といこうじゃないか』
既読。
夕日の光がもう職員室まで入ってはきません。
いつもよりなぜか日が暮れるのが早いような気がします。不吉な黒雲が春の空を覆い、まるで冬に逆戻りさせようとしているようでした。風が吹き、窓をカタカタと揺らします。
そんな職員室には私ひとりだけでした。他の先生方は部活なり教室での仕事に忙しいのでしょう。私の担当の部活は文芸部で他の部活に比べ比較的楽なものですので、部活動は生徒に任せ、早めに職員室に来れました。そして暗くなりつつある職員室に明かりをつけました。煌々と照らす電灯はどこか寒々しい光に感じます。いえ、私の気持ちが沈んでいるからそう感じるのかもしれません。だって蓮くんがなにか気落ちしているからです。でも普段はいままでのように明るく闊達な雰囲気を周りに与えていますが、それは取り繕いだと私にはわかります。だって、私たち恋人なのだから当然です。そして彼の心配事を取り除いてあげるのも恋人である私の役目なの。その心配事を私には話さず、自分で解決しようとしている蓮くんに少しイライラします。私に話せないなんてあまりにも水臭いじゃない? そんなに私は頼りないのでしょうか?
だから蓮くんのスマホを見て心配事の一端でも知ることが出来たのなら幸いと、蓮くんのスマホをみてあげました。
するとどうでしょう!
LINEで<戌角>と名乗る人物に指令され、行動していた蓮くんがまさか空巣にまで入っているのです!
私は軽い目眩すら覚えました。
きっとこの<戌角>は親戚とかではなく、別のなにかなのでしょう。ただ<戌角>を名乗ることでうっかりLINEを覗かれたときに言い逃れしやすいように名乗っているだけなのだと気づきました。だって蓮くんの親戚が犯罪行為をさせるわけないじゃない!
LINEのトーク画面には『証拠は組織で握り潰す』と書かれていました。
なにか反社会的組織なのでしょうか?
これからは<戌角>ではなく<組織>と呼びましょう。
この<組織>の人を私は蓮くんから手を引かせなければなりません。幸い、あちらからの提案でトークは止まっています。きっと蓮くんは犯罪に失敗して気落ちしているのだと思います。それで相手にどうやったら機嫌がとれるのか考えているのでしょう。好都合といえば好都合です。
私は閃きました。
『その件ですが、差し出がましいかもしれませんが、うちはどうでしょうか? アパートの一室で少し狭苦しくなりますが、人目もありません』
すぐに既読がつきます。
どれだけ暇なの? 他にすることがないのかしら。
きっとスマホに張りついているのでしょう。
『では○月✕日午後八時頃に君のアパートに行くよ』
即返信がきました。
私は私の書いた文章を長押しして消します。
選択したメッセージはこの端末のみで削除されます。相手側のメッセージは削除されません、という注意書きとともに削除されました。
つまり、蓮くんのトーク画面は……。
『正直、この件についてはもういい。終了ということで、飲み会の話といこうじゃないか』
『では○月✕日午後八時頃、君のアパートに行くよ』
こうなります。蓮くんにとってはまるで<組織>の人が痺れを切らしたように読み解けます。既読はついてしまいますが、仕方ありません。まぁ、失敗に頭がいっぱいの蓮くんは気づかないでしょう。
今から楽しみです。あの狭苦しいアパートの一室で<組織>の人を必死で饗す蓮くん。そしてそのとき私が現れるの。ちょっと修羅場の三者面談になるかな? きっぱり<組織>の人に話して……いえ、話して通じない場合を想定しなくちゃね……蓮くんから手を引かせるの。
きっと昔、蓮くんは洗脳だかマインドコントロールされているのかも。この世界は広いのに<組織>の指示のみが世界のすべてだと思い込ませられているんだわ。なにがあったのでしょう。宗教団体か秘密結社かサークルか……そういったところに軽い気持ちで参加して帰れず、周囲から遮断され、監禁され、言葉巧みに精神崩壊させられ、弄ばれアイデンティティを破壊され、<組織>の道具として使われているなんて可哀想な蓮くん。
救ってあげるね。
だって蓮くんを壊していいのは私だけなんだから!
きっと当日は大変でしょうが、なんだか楽しくなってきました。
蓮くんのスマホを机に置き、深呼吸をします。
どこからかあの香りがしました。
いえ、濃厚な香りが大気に満ちています。
窓を開け放ち、馨しいその香りを胸いっぱいに吸い込むと気持ちよく、いままで感じたことの無いような全能感に包まれます。
蓮くん、私、あなたのことが好き。




