橘立花、悩む
五年間も行方不明だった黒咲夜子さんという方がまたうちの高校へ再入学を希望している、と訊いたとき私は不謹慎ながらも十代後半の多感な子に混じって二十代の女性が高校で学ぶのは難しいだろうな、と思いました。しかし、実際、職員室に黒咲夜子さんがいらしてみると十代後半の女の子の外見とさして変わらないことに驚きました。拉致監禁されたようだ、と訊いていたので尚更です。失礼ながら、きっと心に傷を負い不健康な外見かと思っていましたが、それとは裏腹に健康そうな見た目をしていました。
それより私はひとつ不思議に思うことがありました。
だって黒咲夜子さんからあの香りがしたからです。その香りは蓮くんからしたものと同じ香りだったのです。そしてそれはどこか懐かしい記憶と結びついた香りです。その香りはなんともいえず私の心に安らぎを与えてくれます。ですが、その香りの正体はよくわかりません。きっと整髪料かシャンプー、または洗剤の香りかもしれませんが、どの製品の匂いをかいでも特定できません。蓮くんのアパートに訪問した際にもその香りに類する製品はわかりませんでした。もしかしたらある特定の人が発する身体の匂いなのかもしれません。正体はわかりませんが、ただ私はその香りが好きで花に寄り添う蝶のように惹かれてしまいます。もしかしたら、私だけが感じられる人の運命を司る香りなのかもしれません。ですからそれが蓮くんから香ったとき、私は運命を感じ、蓮くんも私に告白してくれました。それがなぜか黒咲さんからも香ったのです。運命の香りをなぜ黒咲さんのような学生から匂うのか。私にはわかりません。私は平静を装い黒咲さんに接しました。(特殊な誘拐監禁事件に巻き込まれ記憶障害をおった可哀想な方です。優しく接しなければなりません)ですが、なぜだか黒咲さんは私と蓮くんの関係に気づき慌てていました。
「いやいやいやいや、私、戌角先生の連絡先を訊いたのはそういうんじゃないんです! 誤解です、謝ります。橘先生!」
わかります。ただ蓮くんと本来、同学年だから記憶が戻るきっかけが欲しくて連絡先を訊いていたのですよね。それ以外の理由で蓮くんの連絡先を訊くなんて私、思ってもみません。蓮くんだってあなたをそういう目でみてくれるはずもないことをなにをどう勘違いして慌てているのでしょうか? まぁ学生は自己評価が高いものですが、こうも高いと憐憫の情すら湧いてきます。
「さぁ、なんのことかしら……それにしても復学なんて偉いと思います。記憶喪失だと色々不安でしょ?」
傲慢で記憶障害のある憐れな子には優しく接しなければなりません。身体は健康そうでも、きっと心の奥底には治ることのない醜い傷痕があるのでしょう。
それから黒咲さんを担任に任せ、私は一年生の担任として朝礼をすませます。隣には副担任の蓮くんが私と生徒とのやり取りをみたり、私の手伝いをしてくれます。好きな人にみられながら仕事をするのは少し緊張しますが、その緊張感がやり甲斐というものを感じさせてくれます。
それから職員室に戻ると蓮くんは一限目の授業へ行きました。
私は今日は幸い一限目は授業がありませんでしたので職員室で今日の授業分の用意や雑事におわれていました。けれど朝礼で感じたやり甲斐のせいか、いつもより早く終わり、ふと隣の蓮くんの机の片隅に置かれたスマホが目に入ってしまいました。それは蓮くんの様々な個人情報の塊です。もちろんそれを手に取ってみてはいけませんし、そもそもスマホには使用する本人にしかみれないようにロックが掛けられているものです。私と蓮くんはつき合っています。いくら惹かれ合い愛し合う恋人であろうともプライバシーというものは存在するはずです。
ですがなんということでしょう!
悪い悪いと思いながらもそっと手にとってしまった蓮くんのスマホ。そのスマホのロック画面は顔認証でも指紋認証などの生体認証ではなく、九つの点が並ぶだけのパターン認証だったのです。たったの三八九,一一二通りのパターンで配置された脆弱なロック……アパートのドアのタンブラー錠といい、このパターン認証といい、ひょっとしたら、私、試されてるのでしょうか?
暗い画面に並ぶ九つの点の向こう側からいたずら好きそうに微笑む蓮くんの顔が思い浮かびさえします。
ここを突破しなくては……私はまず蓮くんの誕生日を考えました。一九××年四月十日、牡羊座のA型。出生曜日は水曜日、生まれた時間帯はあの天性の明るさから午前でしょう。それに今、ざっと思い浮かぶ数々の占いから導き出る彼の運命に関する事柄から、推測される図形はおそらく数十通りだと思われます。
指で画面にふれ、まずひとつめのパターンを試します。指で点と点を結びひとつの図形をつくります。最後のひとつの点に指がふれたときに私は柄にもなく目をつぶってしまいました。その行為に愛を信じることができない自分を恥じます。だめでもまだ何通りも残っているはずです。でもそれでも開くことができなければ? 私は蓮くんを本当に愛していないのではないか、と嫌な気持ちが心に広がります。それは水彩画を描いているときに、ふいにこぼれ落ちた絵の具がいままで描いた彩色の絵を台無しにしてしまうようなものでした。一度、画用紙に染み込んだ色は拭き取ってもその痕跡を残し、絵を汚すばかりなのです。私は私の愛を試さなければよかった、と後悔すら感じます。けれど目を開けてみるとそこにはロック画面が解除され、普段、蓮くんが使っているアプリが並ぶ画面がありました。
一回でロック画面が解除されてしまうなんて私の愛の力でしょうか。それとも蓮くんはやっぱり自分のすべてを私にみせたいと思っているのでしょうか。いいえ、どちらでも構いません。おそらくそのどちらもなのだから!ここが職員室でなければ思わず歓喜の声をあげてしまいそうでした。
数あるアプリのなかから、まずはよく使っているであろうLINEを開きます。
トーク画面の一番上は私ではなく(もちろん教師のグループラインでもなく)<戌角>となっていました。
家族でしょうか。いえ、家族なら父母、もしくはご兄弟ならば名前を使うはずです。それがただの苗字とはどういうことでしょうか。親身になってくれている親戚という線も考えられます。そのとき、一限目終了のチャイムが鳴りました。
私はスマホを蓮くんの机にそっと戻します。そして二限目の私の授業の用意をします。そのとき蓮くんが職員室に入ってきました。
「橘先生、一年の……」
体育の授業の際、気になった生徒に関して質問してきます。疑問に思ったことを逐一、私に意見を求め、学校や生徒の人間関係に関して学ぼうとしている蓮くんをなんだかかわいいと思えていました。そう、過去形なのです。ついさっきまではその前向きな向上心を嬉しく思えていました。けれどチャイムが鳴った瞬間、<戌角>とのLINEでのやりとりをさっとスクロールしてみたとき、蓮くんは<戌角>に学校での人間関係……いえ、個人情報を与えているようでした。一瞬だったので詳細はみれませんでしたが、市長のご子息、神主、お寺のお子さんの名前があり、その生徒の成績と進路、人間関係。そしてなぜかあの黒咲夜子さんと仲良くなるように、という指示までされていました。そのやりとりはまるで蓮くんが<戌角>と名乗る者に従う部下のようでした。蓮くんはどうしてそんなことをしているのでしょうか。もしかしたら、蓮くんは悪い親戚に弱味を握られていて学校やそれに関わる人の情報を流さざる得ないのかもしれません。いまや個人情報はお金になるとも聞きます。それが社会的地位や責任のある立場の人のものだとしたら、その金額は凄いものなのかもしれません。それを蓮くんに探らせるなんて! いつも蓮くんは明るく振舞っています。それだって誰にも悩みを打ち明けられないストレスがあるいは彼にそうさせているのかもしれません。
「あの、橘先生?」
いつの間にか自分の考えに浸ってしまい、蓮くんの言葉は頭に入らず、ただ黙って蓮くんの顔を見つめ続けていました。顔が赤くなり、頬が熱を帯びてゆくのを感じます。
「いや、あのっ!」気恥ずかしく、しどろもどろになり、<戌角>という親戚に弱味を握られているんじゃないかとか、罪悪感を感じつつ反社会的行動をとっているんじゃないかとか、頭がぐるぐると回り「いい? 気になること、心配なことがあったら、なんでも訊いてね。絶対に力になるから!」と蓮くんの手を力いっぱい握っていました。
「いや、あの……一年の八坂さんて左利きだったんだなぁ、と」
ちょっとした世間話に私は必死になにをいってしまったのでしょうか? 恥ずかしくて蓮くんの顔をみれなくなってしまいました。
「あっ、橘先生。えっと、あの、その……そんなに気にしないてください。いつもありがとうございます」
私の恥ずかしい気づかいを優しい声で肯定してくれました。
いえ、私のいったことに蓮くんは勘づいて感謝したのかもしれません。そう、やはり私の推理は正しいのです。
私は彼を<戌角>の呪縛から自由にしてあげたい。
そのためなら全力を尽くそうと、心に誓いました。




