戌角と日高
ドアを開けると昭和の喫茶店のような店内だった。ソニー・ロリンズのNewks Fadeawayの心地よいサックスが流れているが、ジャズより小室哲哉のGet Wildのほうが似合いそうな店内だ。店内には三人の若い男が気持ちよく酔っ払い話しながら笑っている。その奥のカウンター席に日高健が座っていた。
マスターに差し出されたカクテルに口もつけずに僕を待っている姿は別れ話を覚悟した女のように女々しくみえる。
なぁんだ、よほど僕と話がしたいのか。
つまり<組織>から運送品を盗んだのは<組織>に対してなにかしら話がしたいから。構成員ではないらしいから直接連絡はできない。だから日高健はこうやって接触の機会をつくった……ならば交渉はしやすいだろう。
「マスター。XYZ、ひとつください」
僕は日高健の隣に座り注文した。
日高健はお花を愛でる女のようにまだジンフィズをみつめている。
「飲まないん?」
「瓶を取り戻しに来たのか?」
僕の気を使った質問に対していきなり本題をぶつけてきた。
その眼光はゆっくりカクテルから外れ僕を静かにみつめる。
おいおい、シリアス過ぎだ。
普通、笑顔には笑顔を返すものだろう?
交渉するにしても相手の懐に飛び込んでいかなきゃ、印象が悪くなるし、いたずらに相手の神経を逆撫でては不利になることを知らないのかね、このチビは。
「うーん、まぁ、それもあるけどさ。まず、なんで盗んだかって、それが訊きたいんだ。悪いことはいわないから、全部ぶっちゃけて、早くアレを返した方がいい。……あとが怖いよ」
僕の脅しに日高健は黙ったまま僕を睨む。
あれ? 交渉だと思っていたが、違うのかもしれない。まずい。僕は右ポケットに手を入れ、サムライエッジの感触を確かめた。
そのとき、後ろで「すみません。お会計!」と三人の男が会計を済ませ店を出ていった。
このサムライエッジで脅す手もあるが、日高健が今、運送品を持ってる可能性は低い。しかも脅すにしたってこんなチープなモデルガンでは脅せない。
僕自身の楽観的で単純な推理に腹が立ってきた。日高健の目的が掴めない。いや、日高健は元暴走族だ。まだ交渉を有利に進めるためにこうやって凄んでいる可能性もある。
「おまえは<組織>のなんなんだ? 運び屋か? 作業員か? 情報屋か? 交渉役か? それとも指示を出す幹部か?」
ほら、交渉や幹部という言葉が出てきた。まだ可能性はないわけではない。暴力沙汰はまっぴらごめんだし、僕はなにごともスマートに決着したいのだ。
「話す気も返す気もないの? 家も職場ももうバレているのに」
しかし、なんだか始終、人を威圧してくるこいつに腹が立つ。
お互い苛立つ視線が交差した。
日高健ほその視線を外し、ジンフィズに口をつけた。
そのとき、ちょうど僕の注文した品が差し出された。
「おまたせ致しました。XYZになります」
「ありがとう」
苛立つばかりでは解決方法も見いだせない。冷静にならなければ解決の糸口を見失ってしまう。このままの流れでは暴力沙汰だ。サムライエッジで人間を撃つなんて気が引ける。僕はXYZに口をつける。ホワイトキュラソーの甘みとレモンの爽やかな酸味が気持ちを落ち着けた。まずは僕の身分を明かそう。<組織>の人は僕に『私も君に会ってみたい』といっている。つまり僕は雑事に追われる末端の構成員ではない。
「僕が何者か……そうだな。一応、<組織>の幹部候補ってことになるのかな」
これでわかっただろう。
交渉もできるし、日高健、君が万が一僕に手を出しても復讐されるんだ。
しかし、日高は僕と会ってからはじめて笑った。
笑顔という表情は人間特有の表情で友愛と信頼の証だ。しかし人間以外の動物は笑顔をつくらない。人間の笑顔の由来はわかっておらず、一説には獣が威嚇のために牙を剥く行動が由来するらしい。なぜ敵対的行動が友愛と信頼の意味を持つようになったのかわからない。無理のある説だと思う。けれど僕は今、この説を支持せざる得なかった。
左のこめかみを拳でぶち抜かれた、と思う。
視界は歪み、気分は悪く、心臓は跳ね上がっている。僕はテーブルにぶつかって床に転がり、左のこめかみが痛いから、そう推測しただけだ。正直、わけがわからなかった。
「悪ぃ、鈴木! あとで弁償するから……」
「はぁ……なにがなんだかわからんけど。やっぱり、あんた狂犬だわ」
しかもふたりは知り合いか。罠にハマったか? 仕組まれていた? いつから? 運送品を奪った理由は? ……もうどうでもいい。身体に穴あけて、痛みにのたうてよ! 今度は君が床に這いつくばる番だ!
僕は右ポケットのサムライエッジを抜き放った。
しかし、瞬間、右手に激痛が走る。
分厚い革製のエンジニアブーツで蹴りあげられたのだ。
頼みの綱は呆気なく僕の手から離れ、床に落ち、安っぽい音をたて転がった。
「モデルガンって脅しか? マジになってすまんな」
日高健の笑顔が憎々しい。そして理解した。ブーツはもともとこうするためのものだったかもしれない。刃物や武器を持たれても硬いブーツなら瞬間的だが対応できる。そしてジーンズやライダースジャケットは普通の衣類よりは刃物を通しにくい。日高健は最初から喧嘩するつもりだったのだ。
「幹部さん。いや、幹部候補さん。話には聞いたことないか……俺は<反組織>の人間なんだよ。<組織>について色々訊きたいことがあるんだが……まずは」
僕は胸倉を掴まれ、馬乗りに床に押しつけられそうになった。
<反組織>? はじめて聞く名称だった。いや、今、俺といった。俺たちではなく、俺だ。つまりこのバーは無関係ということになる。
身体は気怠いが、頭は事態打開のためにフル回転していた。
僕は格闘家じゃない。相手はチビとはいえ、馬乗りにされたら最後だ。僕は日高健の手を掴み、左手首を両手で掴みつつ、左手首の関節を極めながら、押しつけられた重心を利用し、身体の側面に逃げ、日高健の馬乗りを避けた。本来、関節技を掛けつつ固める技だが、頭を思いっきり殴られたせいか、握力が鈍っていた。極めて固めるまではいかず手が外れてしまう。
「なっ!?」
日高健はよほど油断していたのだろう。呆気なく一連の動作が決まり、床に手がつく、僕は極めることはできなかったが、その流れのなかで立ち上がった。
護身術の先生に感謝だ。
『危険な相手から逃げるのが一番の護身術だよ』
先生はそうもいっていた。
だが、腹の虫がおさまらない。
僕はサッカーボールを蹴るように日高健の頭を蹴った。キーパーを跳ねのけてがゴールが決まりそうなほどの会心の蹴りだったが、日高健は腕で防御した。しかし、防御越しに顔が跳ね上がる。僕は手近な椅子を掴むと日高健に投げつけ、店を出た。
「きゃっ!」
出際に店に入ろうとした女の子にぶつかってしまった。
「ごめん!」
せっかく、カクテルを楽しみに来ただろうが、店内は喧嘩のあとで散らかり放題で楽しめないだろう。僕は謝りながら走った。左のこめかみへの一撃が効いているのか少しふらふらする。しかし、今はあいつから逃げないと。いや、あのまま、叩きのめせたかもしれない。だがあの店のマスターと日高健は知り合いだ。マスターは日高健に加勢し、警察沙汰になるだろう。いや最悪<反組織>とかいう秘密結社に捕まる可能性もある。
万が一にと身軽な格好をしてきて正解だった。あんなライダースにジーンズにブーツでは早く走れないだろう。
平衡感覚が変で全力で走ると少しの距離で疲れてしまう。
繁華街を抜け、シャッターの閉まった暗い夜の商店街まできた。
ここまで来れば大丈夫だろう。
僕は立ち止まり膝に手をやり、息を整える。ぽたぽたと額から流れる汗が暗い夜道のアスファルトに落ちた。息が整うと上体を起こす。吹き抜ける春の夜風が気持ちいい。
「もう、かけっこは終わりかよ?」
肩に手をかけられ、今日の昼、草野球の試合で日高健が一塁へ向かって走った速さを思い出した。
熱い汗が一気に冷たいものに変わる。
肩に掛けられた手が思いっきり引っ張られる。その力を利用して日高健の顔に目打ちをはなった。
護身術のひとつで四指をばら手にして目を打つのだ。通常のジャブとは違い距離を稼げるし、指一本でも眼球に当たれば相手は一時的に動けなくなる。しかし、振り返ると日高健は涼しい顔をした。僕の目打ちは空を打ち、脚の痛みに膝をついた。
太腿に大きく振りかぶった木刀でも叩き込まれたかと思った。けれどそれは蹴りだ。脚を刈り取るような強烈な下段回し蹴り。立っていられず、うずくまった。骨そのものを叩かれたような痛みに息すら詰まる。
「幹部候補さん、訊きたいことがあるんだが……十年ほど前、おまえさんがたの構成員、遠山、安達……」
終わった、と思った。
ボコられ、知ってることを洗いざらい喋らされ、<組織>には見捨てられる、と。
そのとき、日高健が宙を舞いアスファルトに叩きつけられた。
いつの間にか、僕と日高健の間に女性がおり、この女性が日高健を投げ飛ばしたようだ。
暗がりでよく見えないが女性はストライプのロングシャツにカーキのスキニーに白のシューズ姿で片手にはハンドバックを下げていた。
まさか、片手であの日高健を投げ飛ばしたのか?
どうやったのか知らないが、もしかしたら彼女は……<組織>の助っ人かもしれない。
彼女は一言もいわず起きおがる日高健から目を離さず、手で早くこの場から逃げろ、と指示してきた。
僕は「ありがとう」というと脚を引きずりながら逃げる。
途中、「畜生!」と叫ぶ日高健の声を聴いた。
後ろを振り返ると手で目を拭きながら叫び散らしてる日高健の姿があった。そして、彼女の姿はもうすでにどこにもいなかった。
逃げ切りアパートに戻る頃には頭のぐらつきは治ってきていたが、脚は腫れを増していた。
とりあえず、生還できたが、このあとどうしようか。
風呂を沸かしゆっくり浸かりながら考えていた。
運送品奪還は失敗、交渉は失敗、痛めつけられ、けれどなんとか助けられた。風呂から上がって太腿をみると右脚の外側、ちょうど筋肉の薄い部分にぶちた跡があった。
完全に失敗だ。
他の構成員が引き継ぐだろうが腹の虫がおさまらない。そして、この失敗を<組織>はどう判断するのだろうか。
報告は明日にしよう。いや、もうあの構成員から<組織>へは報告がいっているかもしれない。これで幹部への道は遠のいた。
そのときLINEの着信音が鳴った。
『〇月×日、飲もう。場所はおいおい決めよう。君と会える日が楽しみだ』
僕は失敗したはずだ。しかも相手は<反組織>と名乗っていた。助っ人まで出してもらってようやく逃げきれた役立たずだぞ、今の僕は。もしかしたらこれは×日までに運送品を奪還しろ、ということなのだろうか。僕はあわてて今日の仕事の詳細と報告、相手が<反組織>を名乗ったことをLINEで送った。
日高健が交渉できない人間である以上、家探しに泥棒にはいるしかないか……頭のなかで目まぐるしく憤りと今後の計画が巡る。
しかし、じたばたしても仕方ない、と思い直し、寝る前に今、日高健がどこにいるのかアプリで確認した。
冷汗をかき、青ざめ、鳥肌がたったのは今日一日で何回だろうか。ひょっとしたら一年分の冷汗をかいたかもしれない。
日高健のバイクはこのアパートの駐輪場を指し示していた。




