あやちゃん
妻とは歳が十ほど離れていた。
けれど僕らは愛し合っていたし、世間体なんかも気にはならなかった。ふたりの間を裂くものがあったとしたら、それはお互いの死くらいなものだとお互い思っていたし、実際そうだっただろう。
僕と妻の両親は最初、酷く(それこそこの世の終わりみたいに)反対したが僕らが必死に説得し、なんとか一応の冷たい了解は得ていた。
反対するのはわかる。
僕が高校教師で妻はその生徒だったのだから。
僕は△市市営住宅団地第三号棟の三階に住んでいた。
僕らの新たな出発として薄給の身だが貯金を叩いて新居を建てようということになった。僕らは色々モデルハウスを見て回ろうと計画していた。その第一歩のき、妻は体調を崩した。妻は「熱はないから大丈夫だと思うけど、一応」一と病院へいき、僕はひとり、モデルハウスの業者と新居についての色々な説明、業務に関する諸事情や行政からの補助金などを世間話を交え話していた。
そのなかで「お子様が産まれたならば、このままだと狭いので部屋をもうひとつ、いや、ふたつほど必要なのでは?」という提案をされ、僕は温かい気持ちになった。
帰宅後に妻は帰ってなかった。朝一番で近くの病院にいったきりだ。心配だが連絡しても一向に繋がらなかった。僕は一抹の不安を払うため晩御飯の準備をし始めた。簡単な野菜炒めを作り終わった頃にようやく妻が帰ってきた。「大丈夫だった?」と心配する僕に対して妻は笑顔で頬を上気させ、僕にいってきた。
「できちゃったの。赤ちゃん! あなたとわたしの赤ちゃんが今、ここにいるの!」
妻はお腹を大事そうにふれた。
僕は思わず妻のふれたお腹に耳をあてた。
服越しになにが聴こえるというのか。まだ小さくて動いても妻すらわからないような、エコーでかろうじて影だけが映る胎児の存在を耳をあてるだけで確認なんてできるはずもないだろう。けれど僕はそうせざる得なかった。ふたりが合わさってできた新しい命の存在を確認したかった。
耳には服越しに妻の体温を感じるばかりで赤ちゃんの存在はわからない。ただ「ありがとう、ありがとう」と馬鹿みたいにいいながらお腹を抱きしめていた。嬉しさのあまり涙を流しているのを妻に悟られたくなかった。
「私、決めちゃった。名前はね、女の子だったら彩てしたいの。いい? でね、男の子だったら……あなたが決めて」
「あやって名前に思い入れがあるの?」
「この子が自分とまわりの人たちの人生を彩っていくような子になったらいいな、て。今、たった今、思ったの。だから、あやちゃん」
結局、僕が男の子の名前を決めることはなかった。
妻のお腹のなかにいた子はあやちゃんだったから。僕は妻のお腹のなかにいるあやちゃんに話かけたり、さわったりした。お腹を蹴る足に驚き、ぐるりと動く感触に感動した。
新居には子供部屋をふたつ造る計画にも変更したし、仕事をするにしても今までにないやりがいを感じていた。
なにも充実した毎日があっという間に過ぎていった。
当然、出産にも立ち会った。
ただ妻は苦しみ、助産師さんたちは的確に出産の手伝いをするなか、僕は無力にただ苦しむ妻の手を握り、その産みの苦しみが終わり、無事にあやちゃんが産まれるのを祈るばかりだった。あのときの無力感は他にないと思う。ただひたすら手を握り、さすり、撫で……愛する妻の苦悶の表情を見守るだけの僕はいったいなんなのだろうと、わずかな絶望すら感じた。
そのわずかな絶望もあやちゃんが産まれ、泣き始めると暖かな希望にかわっていった。
絶望のなかで聴こえる声は暗い夜闇を振り払う、新しい一日のはじまりのような光だった。
僕は馬鹿みたいに泣いた。
泣くのは妻がふさわしいはずなのに、なにもしていない僕が泣いた。
産まれたてのくしゃくしゃの猿のような顔のあやちゃんは可愛いというより美しくすらあった。
家に連れて帰るときの嬉しさ、これから三人で暮らすのだ、という未来への希望だった。
赤ちゃんを両親と義理の両親にみせにいくと、結婚を反対されたときの剣幕すら忘れたのか、顔をほころばせ、妻の親友の橘立花という女性も家に訪ねてきて、あやちゃんをみると感激し、けれど慣れない赤ちゃんに怖々と抱く姿が微笑ましかった。
今思えばあのときが僕らの幸せの絶頂だった。
上まで登れば、あとは転落するのかこの世の定めなのかもしれない。
坂道に置いたボールのように転がってゆく。まるでそれがこの世の法則で西から太陽が昇らないように、月が空から堕ちてこないように、至って普通、当然のことように、ころころころころ……と、そんな重力に従ってすすむボールを恨む人は僕くらいなものだといわんばかりに当たり前に転がってゆく。
あやちゃんが家に来て数週間が過ぎたある日、朝起きるとあやちゃんは冷たくなり息をしていなかった。
救急車を呼び、電話の向こうで指示される救命方法を必死にやった。そのどれもが虚しかった。僕の手のなかにあるあやちゃんはもうなんの反応も示さず、その指示のひとつひとつを試すたび無駄だと理解する。それは救命活動というより絶望を知るための行為だった。あれもだめ、これもだめ。救急隊員が着く頃には僕らは最後の希望すら残っていなかった。息をせず動かないあやちゃんを抱き、救急車のなかへゆく妻の表情はなんの感情もうつしてはいなかった。ありとあらゆる感情は深く彼女の奥底に沈み、その一切が表に出ることはない。深く沈んだ彼女に僕は絶望という表情を初めて知った。
医師の診断では乳幼児突然死症候群というらしい。
そして色々訊かれた。うつ伏せで寝かせていませんでしたか? タバコは吸っていましたか? 母乳でしたか? ミルクでしたか? あやちゃんに先天的な病気がありましたか? ……そのどれもが的外れで場違いでいい加減な言葉に聞こえた。むしろ僕ら……妻に非がないかの有無を確認し、断罪しているようにも聞こえ、僕は怒りすら覚えた。
そんな僕の顔をみた医師は押し黙り、目を伏せ「お悔やみ申し上げます」といった。
そうじゃない。生き返らせてくれ、と叫びたかった。
けれど僕らは「ありがとうございました」というのが精一杯だった。
そしてすべてが終わり、決定的に損なわれたふたりの生活が戻ってきた。
妻は抜殻のように無表情で過ごしていた。
パートに復帰したはいいけれど、仕事は以前のようにできないようだった。あきらかに仕事を早く切り上げ(または早退させられたのかもしれない)帰ってきていた。僕のどんな言葉にもどこかうわの空だった。本人も立ち直ることを考えているのだろう。僕に内緒で精神科に診てもらっているようだった。深夜うなされ、僕に悟られないように息を殺して静かに泣いている日もあった。
僕もなにかできないものか彼女に優しい言葉をかけたり、立ち直る方法を調べたり、連休に遠くへ旅行したりもした。けれどそれは彼女とって一時的な鎮痛剤にこそなりはしたものの。あやちゃんを失った傷はいまだ塞がらず、止めどなく血を流し、彼女の生きる力さえ失わせているようだった。
そんなとき、スマホのGoogleの情報サービスがひとつの情報を僕に知らせてきた。
『リボーンドール』という本物と見紛うばかりの精巧でリアルな赤ちゃんの人形に関する記事だった。
二○○○年頃から不妊や育児のできない女性や人形コレクター向けに販売されたのがきっかけで欧米を中心に熱狂的なファンを獲得していた。不妊などで育児ができない代価として、癒しとしてのセラピー効果、精巧な人形としての鑑賞用。
なにより目を引いたのが、その記事に使われていた写真だった。目を瞑り、安らかな寝息を立てていそうな精巧なリボーンドールがあやちゃんにみえたのだ。
僕は思わず妻に「こんな記事があるけど」と妻にみせた。
妻は目を見開き、僕が渡したスマホに見入った。
僕はその顔に自分の軽薄さを呪った。妻はあやちゃんを失って傷ついているのに僕はなんてものをみせてしまったのだろう、と。今、僕は塞がりつつある傷口を再び開いてしまったのではないだろうか。だが、意外にも妻はスマホに見入ったまま「わたし、この子、欲しい……」口元には微笑みすら浮かべながらいった。
それからは妻は色々調べあげ、一般販売ではない受注生産のリボーンドール作家さんとメールで相談を始めた。あやちゃんの写真、出産時、家に来た時の身長、体重を事細かに書き記したメール。それに対しての丁寧な返答。料金は一般販売よりも高いながらも納得出来るものだった。ただ時間がかかるらしい。妻の熱意に作家さんもなにか感じるものがあったようだ。髪の植毛や肌や爪の質感を本物同等に仕上げたいからお時間をいただけませんか、とのことだった。
時間は確かにかかった。
新居の打ち合わせ、基礎工事が終わり、家の骨組みができた頃、ようやく完成したと連絡があった。
妻はその頃にはもう精神科には通ってもいないようだった。パートも時間通り帰宅しており、自然な笑顔すらみせるようになっていた。
すべてはリボーンドールのお陰かもしれない。
リボーンドール作家さんは自ら家にあやちゃんを渡しに来た。作家さんはお婆さんとおばさんの間くらいの小さく母性を感じさせるふくよかな女性だった。
家に来ると大きな紙袋から赤いビニール袋を取り出した。
その赤は深く真紅でどことなく体内の動脈を流れる血液を思わせた。それを「用意しておいて下さい」と頼まれていたベビーベットの上にのせる。そして右手には大きなハサミを持っていった。
「さぁ、奥様。今、あやちゃんが産まれますからね」
にこやかに笑った。
その笑顔に僕はぞっとした。やはり赤は血の色なのだ。袋は子宮に見立てているのだろうか? そしてハサミは……。
僕は妻をみた。きっと妻も僕と同じように気分を害しているのではないか、と。けれど妻は作家さんの行為をまるで神聖な儀式をみるかのように恍惚と見つめていた。
ハサミが血に塗れたビニール製の子宮を切り裂く。いままで中で固定されていたドールは重力に従い、裂け目から力なくこぼれ落ちようとする。それをゆっくりと作家さんは抱き上げた。まるで出産時に妻にあやちゃんを渡した助産師さんのように慣れた動きで、ハサミをいつテーブルに置いたのかわからないくらいだった。
「さぁ、あなたのママよ」
そういって目に涙をためた妻に渡す。
そのあやちゃんを模したドールの顔は忘れることもない、現実のあやちゃんの顔そのものだった。うっすらと生えてきている髪の毛、皺、唇、まだふっくらとしない新生児の頬、肌はその下を通る血管すら想像させる。今にも呼吸し、泣き出さないのが不思議なくらいだった。むしろ救命活動をしていたとき、僕の手のなかにあったあやちゃんの方が偽物なんじゃないかと思うくらいの出来栄えだった。
妻はあやちゃんを抱きしめていた。
離れ離れになってようやく再会できた母子のように。
作家さんはその姿を満足そうにみると後片付けをし始めた。
「もし、よかったら、お茶でもどうですか?」
僕の誘いに、首を振って「いいえ、いいえ……こんなに喜んでいただけるなんて、わたしの方が作家として嬉しいです。こちらの方こそなにかしなきゃならない気分」と僕にメモを渡した。そのメモはメンテナンスや不具合があったらいつでも相談にのります、という業務的なものだった。きっと妻の心情を察して僕にさりげなく渡したのだろう。
「ありがとうございます」と妻は何度も作家さんに頭を下げていた。
妻とあやちゃんとの生活が始まった。
いや、妻とあやちゃんがするはずだった生活を妻と人形としているのだ。人形はあやちゃんの服を着て、寝る。そして、何時間かおきに紙おむつが替えられ、妻は何度か夜に起きて人形におっぱいをやってすらやっていた。当初、あやちゃんが亡くなった代価としての人形だと思っていたが、妻にとってはそれは紛れもなくあやちゃんなのだ。だから食事もすれば排泄もし、身体を洗ってやらなければならず、甘えたがり、ときにきかん坊になる。
そして僕らは夜の営みすらなくなっていた。
「あやちゃんがみてるから」と妻はいう。
僕はこんなはずじゃない、と焦っていた。
あれはただ妻の傷を癒すための人形なのだ。
あやちゃんはもういなくなってしまった。そしてもう帰ってこないのだ。だから僕らはあやちゃんが生きれなかった分まで生きていかなければならないと思う。しかし、あやちゃんは姿をかえて、生きていない人形となって帰ってきた。それは妻の傷口から止めどなく流れていた血を止めたのかもしれない。だが再生すべき皮膚でなく、なにか別のものに変異し、妻の身体として一体化したように僕には感じられた。
僕は妻からあやちゃんを取り上げることができるのだろうか。
いや、僕にはできない。彼女の悲しむ姿をみたくはないから。このまま新しい家に引っ越し、あやちゃんのために造った子供部屋はきっとこの人形の部屋になるのだろう。
「ねぇ。あやちゃんもひとりだと寂しいと思うの。弟か妹が欲しいとは思わない?」
「うん。いいね」
彼女の言葉に少しの希望がみえる。だがきっと妻にとってあやちゃんの弟も妹も人形なのだろう。新しい家にあるふたつの子供部屋にはきっとふたつの人形が一体づつ並ぶのだ。




