南魚と瓶
電話の向こうの日高くんの声は珍しく戸惑っていた。いや、初めて聴く声色だったかもしれない。
「とにかく来てくれ」
説明もしどろもどろでおそらくは自分でも状況が理解できてないようだった。あの日高くんがそんな状況になっているのが信じられない。僕は△市歴史産業資料館をから自転車のペダルを力一杯こぎながら日高くんがなぜ僕に連絡してきたのか考えていた。暴力的な事柄ならば僕なんて呼ばないだろう。むしろ嬉々として挑むタイプの人間だ。そして金銭的なことに関しても僕よりかなり安定している。草野球の助っ人の依頼にしては切羽詰まった声だから違うだろう。(大谷選手が来たのならああいう声になるかもしれないが)つまり日高くんが僕を呼ぶといったらオカルト関係に違いない。なにか事件に巻き込まれたのだろう。日高くんが巻き込まれたとなるとやはり<組織>絡みに違いない。日高くんは過去に因縁のようなものがあった。オカルト関係、そして<組織>……知らず知らずにペダルをこぐ足が早くなっていった。
呼ばれた場所はカネダ整備という修理工場だった。『カネダ整備』とペンキで書かれた看板には黒文字が風雨に晒され掠れており、年季を感じさせた。その修理工場の前に自転車を止めて、作業している作業員に訊くと店内の奥にある事務所らしきところへ案内された。
なかは書類のファイルやパンフレット、資料、説明書らしき冊子が入れられた棚に缶ジュースの自販機があり、どれも店の看板のように古びていた。ただその事務所の真ん中にあるテーブルとワインレッドのソファだけは真新しく、その新旧入り交じる部屋のコントラストはどことなくファッション雑誌の一ページを思わせた。そのソファに日高くんと見覚えのある背の高そうな細身の男がタバコを吸いながら僕の方をみながらほぼ同時にいった。
「来たか」
「さっきの電話だけど」
僕の言葉に説明するよりみせた方が早いと思ったのか日高くんが紙に巻かれたものを僕に渡した。渡しながら「この将虎は<組織>の元構成員だ。今は動いてないけどな」と衝撃的なことをさらりといった。
「は?」僕の口から間の抜けた声が漏れた。
次に慌ててポケットから取材用のメモを取り出しながらソファに座り、日高くんが紹介してくれた将虎という人に「<組織>へはいつから入会を? どういった活動を? <組織>は反社会的組織なのか、オカルト関係の組織なのか、どういった秘密結社なのか」と頭のなかから次から次に駆け巡ってくる質問をぶつけようとしたが、日高くんに「それより、その瓶だよ。南魚、おまえ、どうみる?」と渡された手のひらサイズの瓶(香水瓶だろうか)について訊かれた。
それは御札に巻かれていた。紙越しにガラス製の瓶のような感触だが、小さな御札を三枚ほどぐるぐるととぐろ状に巻いてあるようだった。
御札には針金がねじ曲がったような文字と象形文字を崩したものと楔形文字、異なる三つの文字が書かれていた。
「神代文字だ」
僕が思わず漏らした言葉に日高くんと将虎くんは聞きなれない言葉に顔を見合せた。
「日本古来、漢字伝来以前からあるといわれる文字のことだよ。昔から研究はされているけど、はっきりしたこたとはわからない。ひとつではなく何種類もあるんだ。ただ今は主に神道で使われている。針金がねじ曲がったような文字は、御朱印にも使われることもあるけど。象形文字に近いものは土器とか民間伝承の呪術師、祈祷師、山伏、忍者などが使っているのを訊いたことがある。そしてこの楔形文字。韓国のハングル文字に近いものは江戸時代の国学者、平田篤胤が比留文字として紹介している。モンゴルのパスパ文字が由来ではないか、という学説もあるけど、微妙に違う。北九州地方の石碑、道祖神などに刻まれ、和歌もこの文字で書かれたものもある」
そして三枚とも紙の材質が微妙に異なっていた。出処が違うのだ。三枚ともそれぞれ違う流派なのだろう、ということは三流派、系統の違う神道の御札なのかもしれない。
「これをどこで? いや、まさか<組織>関係?」
僕は指ざわりの違う紙質を確かめながら日高くんに訊いた。
「そうだ」
「<組織>からぶんどったとか?」
僕は冗談混じりに笑いながらいったが、正直笑えない。こんなことをすればどうなるのかわからない。相手は反社会的組織か、異常集団か、カルト団体かも……とにかく得体のしれない秘密結社だ。身の危険を考えないにもほどがある。そう考えているのは僕だけではない。目の前の将虎くんも乾いた笑いを顔に張り付けている。
「そうだ。俺もおまえも<組織>がなんなのか知りたい。これであっちから俺たちに連絡が来るのを待てばいい。将虎は俺たちにハメられたってことにしてくれ」
日高くんはひとり楽しそうにいった。
「日高くん、なんで<組織>なんかに……」
「ナメられっぱなしで、引っ掻き回されっぱなしだからさ。影でコソコソしてるのも気に食わない。だから引きずり出して一発殴ってやらないと気が済まないだけだよ」
これ以上訊くなといわんばかりに憎々しそうにタバコを灰皿に擦り付け消すと将虎くんに「そういうわけで……いいか?」と訊いた。
「わかりましたけど……」
「俺についての情報は出してもいいぜ。電話番号から住所なんかもな……もし事故で死んだら線香でもあげてくれや」
事故、という言葉に含みを持たせながらいった。
「いやいやいや……もしかして日高くん、殺されちゃう覚悟までしちゃってる?」
「おいおい……さすがにそこまでしちゃいねぇよ。ただ、やつらの正体が知りたいだけさ。やつらは瓶を追う。俺にたどり着いてもブツがなきゃ、殺しまでしないだろ? 俺はやつらにちょいと昔のことについて話があるだけだしな。それで南魚、その瓶、預かってくれないか? 専門家の方がそういう扱い慣れてんだろ? どうにも俺には相性がよくないというか……まぁ、それを取ったときに<組織>の構成員らしきやつと目があったから俺が持ってると思うだろうからな。おまえが預かってた方がいいだろ?」
珍しく歯になにかものが挟まったようないい方だった。むしろ、この瓶にわずかに怯えているようにも感じた。
「もしかして……中身をみた?」
日高くんは目を閉じ、ため息をしてからいった。
「正直、白い粉の方だったら理解はできる。だがそれは俺にとって理解の範囲外だ」
向かいで座っている将虎くんも意外そうな顔をしていた。喧嘩や<組織>に関して堂々としている、というか挑戦的な態度ですらある日高くんが瓶ひとつにあからさまに苦手そうな、気分の悪そうな表情をしているのが不思議なのだろう。
僕は日高くんの話を手のひらに収まった瓶をいじりながら聞いていたせいか、御札の一枚がめくれかかっていた。
御札にはテープのような粘着力を感じない。御札はなにか別の力によって瓶にぴたりと張りついているのだ。その力の出どこを想像すると僕はなにか高ぶってきていた。
「それにしても……日高さん、今更、遠山さんのことを……」と将虎くんは日高くんとなにやら話始めていたが、その話はまるで壁ひとつ隔てた向こうの部屋で話しているようだった。
瓶と御札の感触に「本物だ」と僕は思った。
幼少の頃から探し求め、あちらこちらとさ迷っていたものがはっきりとした形となって手のひらのなかに収まっている。
それはいつしか熱を帯びているようにも感じられ、僕はその御札の一枚をわずかに剥がし、中を見てみた。
そこにはなにもなく、ただ沈んだ黒色があるばかりでガラスの瓶は僕の顔を歪み写している。だがそのガラスに写った僕の顔の奥には確かに黒いなにかが存在していた。
その黒は光の届かない宇宙空間を思わせた。いや、深海だろうか。しかしそれにしては有機的な動きを思わせる。どろりとぬめるような黒。以前、テレビで観た震災による大津波に似た黒かもしれない。地殻変動という膨大な力学による力に沸き立ち陸目掛けて押し寄せる海。無感情に文明社会を飲み込み押し潰し壊滅させる。いや、無感情ではない。なにかしらの意志を感じる。敵意だろうか。遥かな高みからこちらを否定し、自らの存在のみを主張するような。あるべき存在は自らであり、非存在なものは僕らといわんばかりの黒。チェルノブイリ原発事故の炉心溶融物質集合体、象の足のなかに生成されているという宝石の光のような黒。人類が生存できない場所に存在し、存在そのものが人類を否定し、侵し、けれど自らは崇高不可侵にして美しく、光の当たらない場所で輝く絶対的な黒。
「おい! おまえ……」
僕は弾かれるように周りを見渡した。今、自分がいるところがカネダ整備店で目の前にいる人が将虎くんだということに気づき、瓶にある御札を指の感覚だけで貼り直す。
「……なんで笑ってるんだよ」
将虎くんが信じられないというようにいった。
僕はまるで咎められたように感じ、慌てて口元を手で覆う。覆った手のひらの感触は確かに口角が上がっていることが確認できた。さきほど瓶のなかのものをおぞましいと思ったはずなのに、なぜ僕は笑っていたのだろう。
「どうした?」
隣にいる日高くんが僕の方を向いた。
そのときには僕はもういつもの顔に戻っているはずだ。いや、なぜそんなことを僕は心配しているんだ。
「なんでもない。なんでもないよ、日高くん」




