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△▽の怪異  作者: Mr.Y
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橘立花

 土曜日は休日だというのに朝、少し早起きしてしました。夢から醒めたばかりだというのに夢見心地とでもいいましょうか。むしろ現実が夢のように感じらるのです。夢から醒めてもその甘い現実が私を夢見心地にさせてくれるのです。その理由は高校教師として新採されたばかりの戌角蓮(イヌズミ レン)くんが私に告白してくれたから。


 戌角くんは私より三歳ほど歳下で、スポーツが好きでよく友人とサッカーをしたり、スノーボードにいったりしているらしいのです。だから肌は健康的に焼けていて、話す言葉も態度も自信に満ち溢れています。なんだか男の子だな、というのが第一印象でした。それが恋に変わるなんて世の中本当にわかりません。

 私が初めて担任を任された日のことです。いままでクラスを持ったことはありませんでした。それがようやく担任になれたのです。つまり生徒と一緒に高校という空間で生活し、学び学ばせ、体育祭、文化祭などイベントをともにするのです。これこそ高校教師としての本来の仕事といいましょうか、ようやく一人前の高校教師になれたことを実感することのできる朝でした。ただ初めての担任ということで(よほど私のことが心配なのでしょうか)、副担任がつきました。それが戌角蓮くんです。

 先生に配るプリントの束を持ちながら、これから一年の始まりに生徒にする挨拶を考え廊下を歩いていました。その横に戌角くんが並んで歩いています。心配と不安と使命感と興奮の入り交じる感情のなか隣に誰かいるというのはやはり心強いものです。そして「プリントくらい僕が持ちますよ」と気づかいまでしてくれます。新採されたばかりの戌角先生に悪いと思い、断りました。いえ、ここは先輩の教師として背中をみせるくらいでないと、と意気込みましたが、戌角くんは「いえいえ」と私の持っていたプリントに手を添えました。そのとき戌角くんから仄かに香りがしました。おそらくは香水でしょうか、それともシャンプーの香りでしょうか、その香りは昔の私の恋人の思い出と結びついていました。そう、もう会うことはない、と決めた好きだった人の香りと一緒だったのです。

 ひとつ断っておきますが、私は過去の恋を引きずったりしません。だってそれは決して戻ってこない過ぎ去ったことでしょう? それを思い返すということは遺体安置所で遺体を抱きしめて生きていたときの温かみを探すようなものです。まるっきりの無駄な行為だと思います。ですが、冷たい遺体には魂が存在したように、ときめくような思いは過去に確実に存在していました。失恋とはひとつの恋の死とときめきの墓碑を眺める行為なのではないでしょうか。そしてそのひとつの恋の残り香と戌角くんの顔が重なったとき心臓の鼓動が早まりました。ただの勘違いだと思おうとしました。そのときです。きっと私の頭と胸の内がいっぱいになっていたのでしょう。持っていたプリントの束が廊下に落ち、散乱しました。一瞬、その光景すら風に舞う桜の花びらにみえてしまいます。

「ごめんなさい」

 私は戌角くんに謝りながらプリントを拾います。

 なんということでしょう。教師の先輩としての背中をみせるどころか戌角くんの何気ない優しさと香りにときめいてしまって。戌角くんの視線が私に刺さりました。ドジな先輩としてみられてしまったのでしょうか。

「すみません。こんなときにこういうこというのも、なんですが……歓迎会のときから気になっていたんですが」

 ああ、やっぱり、私は少しぼんやりとするときがあると他の先生方にもいわれます。きっと戌角くんもそれを指摘するのでしょう。戌角くんと視線を合わせます。これから先輩としての姿をみせようと思います。第一印象は悪かったけど。そう言い聞かせながら戌角くんの言葉に身構えました。しかし、次に戌角くんから意外な言葉が出てきました。

「つき合ってもらえませんか?」

「あっ、あの……今は、授業が」

 それからのことはよく覚えていません。ただ恥ずかしいやら顔が熱いやら……せっかくの担任になった初日だというのに生徒たちへの挨拶はしどろもどろになってしまいました。そこへ戌角くんが私の代わりに挨拶や自己紹介、プリントの配布、今後のクラスの抱負などを語ってくれました。全くどっちが副担任なのかわかりません。自己嫌悪してしまいましたが、戌角くんが「橘先生、ドンマイですよ。僕も変なこといってごめんなさい」と爽やかにいってくれました。ただ変なこと、といったのが気になってしまいました。戌角くんのいってくれた言葉は決して変なことではないのに。それを謝ってくれても私は嬉しくないのです。ただその言葉のお陰で冷静にはなれました。きっと戌角くんにも戌角くんの事情があって口からああいう言葉が出てしまったのでしょう。魔が差しただけかもしれません。私のことが少し気になってしまって出た言葉だとしたら嬉しいと思います。そう思おうとしました。

 放課後、夕日に照らされる教員室で戌角くんが私を待っていました。

「橘先生、待ってましたよ。もしよかったら連絡先交換しませんか? つき合うっていったのに連絡先も訊かないなんて、僕、少し間抜けでした」

 私自身の顔が熱くなってくるのがわかります。この教員室が夕日に照らされていてよかった。真っ赤になった私の顔を夕日が隠してくれます。もしかしたら戌角くんの落ち着いたようなふりをしてますが、彼も顔を赤くしてたら少し嬉しいな。


 そんな先日のことをレタスのお味噌汁を飲みながら振り返っていました。

 それにしても連絡先を交換したのに戌角くんったら連絡してくれません。連絡しないのが恋愛の駆け引きだと思っているのです。きっと私の気を引きたいから連絡しないの。そして戌角くんは私の気も知らずに今学校のサッカー部で生徒たちと共に汗を流しているのでしょう。私も学校に行けば会えるかもしれません。けれど私も恋愛の駆け引きに戌角くんに会いにいこうとは思いません。

 今日はいい天気です。お出かけ日和の日に家にこもって家事や学校の仕事をするのは勿体ない。私は洗い物をすませ、洗濯物をベランダに干すと散歩に出かけることにしました。

 朗らかな春日に照らされた乾いたアスファルトもなんだか春めいて輝いているようにみえてしまいます。散ってしまった葉桜の枝の間からみえる空の青さ、子供たちの遊ぶ声のする市営住宅団地を横目に少し古びたアパートへ来てしまいました。

 その一〇三号と書かれたドアの前に立ちます。

 ここが戌角くんの住んでる部屋か、教員名簿で先生方の住所録が目に止まって調べちゃいました。ドアノブに手をやり回します。当然、鍵は閉まっています。これが恋人同士になれば、きっと合鍵を持ちあって部屋も住居も生活空間も時間もすべてを共有しあえるのにな。仕方がないのでバッグから針金を出します。古びたアパートだからか、まだタンブラー式錠なので針金で十分です。例え第三者がいたとして、背後からみられても合鍵を使って鍵を開けたのだろうと思えるくらいの速さで空けられます。そして部屋に入るとあのときの戌角くんの香りがします。

 その部屋を見渡しました。

 目に映るありとあらゆるもの。

 新しいカーテン。

 新しい靴。

 新しいスーツ。

 新しいテーブル。

 新しいこの部屋で、新しい恋がはじまるの!

 窓を開け放つと春の風が部屋に入ってきます。私は弾むような胸の内に従い踊るように回るとベッドの上に寝転がりました。

 戌角くんの香りに満たされたベッド。そして、この天井を朝、何度も見る日が来るのかと思うだけでドキドキが止まりません。

 夢見心地でしたが、さっきまで晴れていた空が曇り始め、開け放たれた窓から冷たい空気がこの部屋に入ってきます。

 そういえば、戌角くんはベランダに洗濯物を干してから学校へ出かけたみたいです。そうだ! そっと洗濯物を部屋に入れて置いてあげましょう。そして、今日のところはまずはそこまでにしておきましょう。

挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 前半でほのぼのおっとりした上品な先生だと思ってたら変態でびっくりしました!
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