作業服の男
まだ寒さの残る風ははるか上空で灰雲をたなびかせ、空の青を映えさせている。その柔らかな日差しは木々の枝にささやかに春のめざめを感じさせていた。そんな市営集合住宅前の公園では子供たちが無邪気に遊んでいた。
ブランコに低いジャングルジム、動物を模した設置型の乗物など危険の少ないよう設計されている遊具がいくつかあるが、子供たちには少し刺激が足りないのかもしれない。遊具で遊ぶよりは遊具のまわりを利用して鬼ごっこをしていた。少し遠くでは子供たちの母親たちが談笑している。
そんな休日の午後のひとときに水色の作業服を着た男はベンチに腰を下ろし鉄筋でできた市営住宅をぼんやりみていた。その目はぼんやりとながらなにかしらの専門的な視線を感じさせる目でもあった。するとスマホの着信音が鳴る。作業服の男はゆっくりとポケットの中のスマホをとった。
「はい。わかりました」
短い要件だったのだろう。二三回頷くと簡単な返事でその電話が終わった。そのとき、子供たちの鬼ごっこが激しさを増してきたのか、作業服の男のまわりで遊び始めた。
どうやら作業服の男を利用してふたりの男の子が逃げたり捕まえようとしたりしているらしい。
「おいおい」と作業服の男は顔をほころばせ、鬼の子を捕まえ軽く持ち上げた。
人懐こい子なのだろう。急に持ち上げられたにも関わらず、きゃっきゃっと笑う。逃げてる子はそれを絶好の機会とばかり一目散に逃げていった。
「ほら、捕まえにいきな」
そういって作業服の男は男の子を下ろし、背中を軽く叩いた。
しかし男の子は「もう一回、もう一回」とせがんでくる。
作業服の男は困った顔で「おじちゃん仕事だから」と断った。そしてなにか思い出したように「そうそう、この辺で怖い話はないかい?」と男の子に訊いてきた。
男の子は突然の問に「怖い話って?」と問い返す。
「例えば神隠しにあったとか幽霊やおばけをみたとか」
作業服の男の話に男の子は目を輝かせ「ああ! 三号棟の階段とか」と話し始めた。「夜遅くに一階の階段の床にね。地下に続く階段があらわれて」作業服の男はその言葉に身を乗り出して聞く。その様子に子供たちが集まり、見知らぬ大人の男が子供の話に真剣な表情で訊いてくれるのが嬉しいのか、口々に怖い話をし始めた。それがしばらくするとどういうわけか面白い話に脱線し、皆で笑い始める。作業服の男は困った顔で話を訊いていたが、母親のひとりが「なにかようでしょうか?」と子供たちに囲まれる男に対して訝しげに話しかけてきた。
作業服の男は「こういう者でして」と胸ポケットから名刺を取り出し「凹凸建設のもので市の方から建物の基礎点検を頼まれました。三号棟とはどちらでしょうか?」と話した。
母親は名刺と作業服の男をみて「あちらです」と三号棟を指さす。その三号棟は先程、作業服の男がぼんやりみていた市営住宅だった。
「ありがとうございます。それにしても元気なお子さんたちで」と笑顔で話す作業服の男に母親も安心したのか「ほんといつも膝小僧に絆創膏張っちゃって、もう少し気をつけて遊べばいいのに」と笑顔で応えた。
作業服の男は帽子をとって、その母親に会釈すると三号棟に向かう。再び帽子を被った男の目は真剣なものだった。
鬼役だった男の子がその作業服の男の目を不思議そうにみていた。
作業服の男は三号棟に入るとまずは階段を登り、最上階までいくとまた下ってゆく。時折、踊り場や手摺を気にしているらしかった。そして気になる場所があると写真を撮ったり、手持ちのタブレット型の機材に記入したりしていた。それは点検に見えなくもないが、作業服の男がみているものは建物ではなく他のなにかのようだった。時折、踊り場の隅や天井を凝視すると下の階に降りる。最後に一階の階段の下まできた。先程、子供たちの怪談話があった場所だ。
作業服の男はその階段の終わり、次の階段があるはずもない床をみたり、狭くなっている奥に腹這いになって床を入念に探った。しかし、なにもなかったらしい。写真を撮り、タブレットへの記入がすむと安堵らしきため息をついた。そして自販機で缶コーヒーを買うと階段に腰を下ろした。
「ねぇ、なにやってたの?」
鬼ごっこをしていたとき抱き上げた男の子がいきなり作業服の男の目の前に立ち訊いてきた。
作業服の男は驚きながらも笑いながら「いつからみてたの?」と缶コーヒーを飲みながら訊き返した。
「おじさんが階段の下の床に這いつくばってるのを」外を指差し「あそこからみてた」と答えた。
「おじさん、点検してたんじゃないでしょう?」
「まいったな」
作業服の男は適当な嘘を考えていたらしいが、急に諦めにも似た笑みで「少しお話でもしようか」と男の子を隣りに座るよううながすと話し始めた。
「ちょっと難しい話になるね」そう前置きした。そして「飽きたらいっていいから」といい、缶コーヒーを飲み、そこに彫ってあるBOSSという文字を親指で撫でながら話し始めた。
「今の人類が現れたのは三万年くらい前らしい」
いきなり突拍子もない話に男の子は唖然としていたが、作業服の男はその顔が面白いのか、にこりと笑いそのまま話を続けた。
「そして今、歴史や科学を含めた文明を築いたのがだいたい二千年。おかしいでしょ? その二万八千年もの間、人類はなにをしていたのか。私たちと同じくらいの脳と仲間を思いやる心、歌や音楽だってつくる感受性を持っていたにも関わらず原始的な生活を二万年以上繰り返してきた。今と違って電気なんてない。夜は真っ暗さ。その夜闇を恐れ、深い山林の暗闇を恐れ、いるはずの無い者、正体不明のなにか……精霊とか悪霊? それらから逃れようとしていた。必死に。そして病気も死も自然災害すらその者たちのせいにしてきた。その対応策として霊能者たちがいた。そしてその特別な人間が指導者となり人々を導いてきた。二万年以上、科学的な発展より霊能力の発展に力を注ぎ続けたんだ、人類は。そしてそれらはやがて迷信と片付けられ、取って代わるようにこの世界を解き明かす科学を発展させたわけだけど……。二万年以上費やした秘術の発展はどういった意味があったのか。人類はかつて恐れた正体不明のなにかから逃げきれたのか。……私は思うんだ。もしかしたら人類はここに初めからいたんじゃないってね。こことは別のところからやってきた。正体不明のなにかから逃げるために長い旅の末にここにやってきた。それを振り切るために霊能力が必要だった」
男の子は不思議そうな顔をしていた。いきなり突拍子もないことを語る男に対してどう対処していいのかわからない様子でもある。その顔をみて作業服の男は少し安心していた。どうせわかりっこない、という気持ちが作業服の男に話を進ませる。
「つまりだ。ここの階段はその正体不明のなにかの世界に繋がっていた。人類が本来いた場所。長い旅路の末、逃れてきた忌まわしい場所。そしてそこは正体不明のなにかが人類を狙っている。人類がそこから来た以上、そこからこちらへ来ることができる。二万年以上かけて確立された秘術がそれらの道をほぼ塞いだけどね。時折、なにかの拍子にそういう場所が再びできるんだ。世界はまだまだ秘術を必要としてるのさ。我々人類が何万年もかけて編み出された秘術はまだ活きている。私は<組織>に依頼され調査に来た」
男の子は立ち上がった。今まで子供好きな大人だと思っていた人は自分や他の大人の一般的な考えの範疇を超える人間だと悟ったのだろう。その顔には少しの恐怖が滲んでいた。
「でももう大丈夫なんでしょ?」
恐怖よりも好奇心が勝ったらしい。
「ああ、大丈夫さ。もう通路はない。ちょっと質問するよ。君に私はどう見える?」
男の子には作業服の男はどうみてもおじさんだった。若くもなければ歳をとっているわけでもない。ただどこにでもいて忙しそうに働いている人だ。だから「おじさん」とただ短く答えた。
「よかった」
作業服の男はそういった。他のなにかに見える場合もあるのかと男の子は頭の片隅で思ったが口には出さなかった。ただ作業服の男の目を細めて優しげな笑みをむける顔は男の子の想像を肯定しているようだった。
「では気をつけて。いいかい。くれぐれも気をつけるんだよ。怪談や怖い話、いわくつきの場所には近づかないこと。たいてい奴らはそこにいる。普通の人に奴らに抵抗する術はない。奴らに関わると人間は容易く騙され、欺かれ、迷わされる。夢のような、悪夢のようなできごとでもそれが現実かのように感じるんだ。まるで現実の方が夢だといわんばかりに、不思議なできごとを不思議と感じなくなる……それがいわゆる怪異だ。鬼ごっこの鬼から逃げるようにすればいい、鬼にさわられないように。一目散に走って逃げること。じゃあね」
男の子は唖然として言葉なく作業服の男を見送った。