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 長いと思っていた僕の夏季休暇も、いよいよ今日が最終日だ。

 今日までの六日間はなんだったんだろう。奈津希さんと再会することはできたけど、二回とも結局微妙な空気のまま解散になってしまった。

 吉岡と会った日の帰り道、古い記憶の確認のためにメッセージを送ったのが最後のやり取りだ。


 青木:すごく変なことを訊くんだけど、奈津希さんって昔、僕のおばあちゃんちに一緒に行ったりした?

 奈津希:よくわかんないけど、それっていま気にすることなの?

 青木:ごめん、たぶん僕の記憶違いだから。気にしないで。


 僕たちのやり取りはそこで途切れている。

 このまま夏が終わってしまって、何事もなかったように、時々思い出しては懐かしくなるような関係に戻ってしまうのかな。

 奈津希さんは夏そのものだ。僕の中で夏がただの季節の一つになってしまったように、奈津希さんもただの旧友の一人になるのかな……。

 それは嫌だと思った。

 手の中でスマートフォンを遊ばせながら、なにか連絡する理由を考える。だけど、そんなものはいっこうに浮かばない。誘えそうなイベントもなければ行ってみたい場所もない。完全に手詰まりを感じていた。

 そもそも、僕はそういうキャラじゃないし。どうせまた明日から仕事に追われる毎日に戻るんだ。この夏のことなんてすっぱり忘れて、頭を切り替えた方がいいに決まってる。

 不意に、手の中のスマートフォンが震えた。慌てて落としそうになるのを堪える。

 その画面に表示された文字を見てまた驚いた。

「奈津希さん……!」


 奈津希:夏休み、たしか今日までだったよね? もし空いてたら今から会えない?


 短いその文面を三回は読み直した。自分の早とちりじゃないか、頭の中で何度も確認をする。だけど何度読み返しても、その文面が変わることはない。

 僕はすぐにそのメッセージに返事を打った。


 青木:今日なら一日空いてるよ。どこで会う?


 奈津希さんからの返事はすぐにきた。


 奈津希:どこにしようか。どこがいいのかな。

 青木:どこでもいいよ。

 奈津希:じゃあさ、上野まで来れる? それで、そのままどこか遠くに行こうよ。


 どこか遠く。

 奈津希さんの言うそれがどんな場所を指しているのかは分からなかったけど、別にどこでもよかった。

 だって、夏は遠くに行く季節だから。


 青木:分かった。すぐ支度して向かうよ。


 ◇


 新幹線の窓から見る景色は、どこか特別感がある。

 ただの住宅街も、田んぼしかない開けた場所も、山の中にあるような田舎町も、全部がやっぱり特別に見える。

 いつもなら福島への帰省はお父さんの運転で向かうけど、今年はどうしても休みが取れないと言って、新幹線を使うことになった。さらに、お母さんも直前に体調を崩してしまって、もう中学生になったんだから、と付き添いなしで帰省することで決まっていた。

 出発の時にはお母さんの具合も良さそうだったし、僕一人で行動できるようにするための、都合のいい言い訳だった気がしなくもないけど。

 そんな理由で、二人掛けの新幹線の席には、僕と奈津希さんと隣り同士座っていた。窓側が僕で通路側が奈津希さんだ。

「ね、ね。ココうちの近くだよね?」

 通路側の奈津希さんは、必死に身体を伸ばして窓の外を見ようとしている。僕の席の方まで上半身を乗り出しているものだから、頭がすぐ目の前に接近している。純粋に距離は近いし、髪の毛からは太陽のような匂いがして、ついドギマギとしてしまう。

「そ、そうじゃないかな……。というか、そんなに外が見たいならこっちの席にくればよかったのに」

「えー、それだと青木くんが見づらいでしょ。私の方が身長高いんだし、この方がゴウリテキでしょ?」

「そ、そうなのかな……」

 それにしても、なんで奈津希さんはこんなに堂々としていられるんだろう。僕は子供だけで電車に乗るのも落ち着かないのに、新幹線にも全然緊張した素振りを見せていない。

 不意に、奈津希さんはなにか妙案を思いついたような顔をした。

「ね、電車の乗り換えまでは少し時間あるんだよね?」

「う、うん。一応余裕を持って調べてあるはずだけど……」

 おばあちゃんの家までは、福島駅から電車に乗り換えて十分ほど。僕は、この後の乗り換えを前違えないようにすることだけをずっと考えていた。

 僕の答えに、奈津希さんは「ふぅーん」とうなずきながら、ますます悪そうな顔をした。

「だったら、福島駅でちょっとくらい寄り道しても大丈夫ってことだよね?」

「だ、だめだよそれは! 電車の時間も伝えてあるし、もし間に合わなかったら心配かけちゃうよ」

「平気へーき。ほんのちょっと駅の周りを探検するくらいにするから」

 奈津希さんの言う「ちょっと」は、絶対にちょっとにならない。経験上そんなことはもう分かりきっている。だから、こういう誘いには乗っかっちゃいけない。

 僕は毅然と首を振る。

「ね、ちょっとだから」

 僕はもう一度毅然と首を振った。


 ◇


「それで、乗りたかった電車に乗れなくて、親からこっぴどく電話で怒られたんだよね」

「よく覚えてるね、そんなこと」

「今、奈津希さんと新幹線に乗ってたら思い出したんだ。たぶん、あの時が初めての子供だけでの遠出だったから」

「そっか。青木くんにはそんな風に記憶が残ってるんだ」

 夏季休暇最終日、奈津希さんからの呼び出しを受けた僕は五分で支度を済ませて、待ち合わせの上野駅まで急いだ。

 そして、連絡を受け取ってから三十分程度で合流をした僕たちは、特にこれといった相談もしないで、そのまま東北新幹線に乗り込んでいた。

 それがちょうど十三時を過ぎた時のこと。たった半日間の弾丸旅行の始まりだった。

 夏休みの真っ最中で予約もなしにいけるのかと少し不安だったけど、お盆の終わり頃という時期が良かったのか、下りは空きが目立っていた。

 二人掛けの指定席。今日もまた、僕が窓際で奈津希さんが通路側だ。

「また一緒に寄り道でもしようか」

 僕がそう提案をすると、奈津希さんは苦笑した。

「そもそも、この旅行自体が寄り道みたいなものでしょ」

「そうだね。とりあえず福島まで切符買っちゃったけど、どこに寄るかなんて決めてないし」

 ふと、窓の外を眺めてみる。

 この小さな枠の中から見える景色は、あの頃とたいして変わっていないと思う。けど、新幹線に乗るだけで無条件に感じていた高揚感は、もうほとんどなくなってしまった。

 上野から福島までの時間は、だいたい九〇分程度だ。昔は大冒険でもしているような感覚だったけど、時間だけで考えるなら、埼玉の実家に帰るのとそれほど大きくは変わらない。

 外の景色をネタにして話題を持たせて、のんびりと揺られている間に目的の駅の案内が聞こえてきた。

 そして、福島の駅に降り立って、いよいよ観光の始まりだという時には、すでに時計は三時近くを示していた。

 駅の東口を出てすぐのところで、僕たちはふと足を止めた。目の前には、いかにも地方都市というような大きなロータリーと建物が立ち並んでいる。そして、視界いっぱいに広がるそれは、太陽の日差しを受けてギラギラと輝いていた。

「さすが盆地って感じの暑さだね」

 じーじー、と、セミの声が全方向から響いていくる。うるさいし、暑いし、まぶしいし。それだけで気が滅入りそうになる。

 日陰から日向へと移ると同時に、奈津希さんはカバンから日傘を取り出してさした。白いレースのついたそれは、相変わらず、悲しくなるくらい似合っている。

 時間もない僕たちは、駅の周りを少し散策するだけだった。回ったのは、昔奈津希さんと寄り道をしたのと同じコース。途中で避暑のために喫茶店に寄ったけど、それ以外は覚えている限り同じ道を辿った。

 最近では、帰省のついでに周辺を観光することなんて無くなっていたから、見える景色のどれもが懐かしかった。

 散策を始めてからおよそ二時間。お互いに疲れも隠せなくなってきて、自然と再び駅に向かって歩き始めていた。

 このまま真っ直ぐ帰路についたとして、家に着くのはきっと二十時近くなる。食事をして、シャワーを浴びて、身支度をして。それだけですぐに今日が終わる。それはつまり、この長いような短いような夏の休みが終わるということ。

 また明日から仕事が始まる。

 きっとすぐに、懐かしむ余裕もなくなるほどの忙しい毎日になる。それを思うと、なんだか今この瞬間がとても特別なものに思えてくる。

 視界いっぱいに広がるのは夕方の景色。

 遊ぶのをやめて、家に帰らなければいけない色。

 僕はなんとなく歩くペースを落としてみる。一歩後ろの距離から、奈津希さんの背中を見つめながら歩いた。

 奈津希さんの頭上には強烈な西日が降り注ぐ。真っ白の日傘だけが、その中で輝きを放っている。

 不意に、向かいのビルに日差しが反射して、僕はたまらずに目をほそめる。視界が眩しい光に埋め尽くされて、目の前がぼやけて見えた。そして、奈津希さんの後ろ姿が日差しの中に溶けていった。

 僕は思わず手を伸ばす。

 振り向いた奈津希さんは、きょとん、と不思議そうな表情を浮かべていた。

「どうしたの?」

「なんとなく、奈津希さんが消えちゃう気がして……」

「なにそれ、私は消えたりしないよ」

 普通に考えれば、そんなのは当たり前のことだ。頭では分かっている。分かっているはずなのに、どうしてこんなに儚く感じてしまうんだろう。

「そろそろ帰ろうか。お互い、明日から仕事なわけだし」

 ふと見上げれば駅はもう目の前だった。

 ここでうなずいてしまえば、僕の今年の夏は終わりだ。できるなら、もう少ししがみついていたかった。ひょっとしたら、最高に楽しい何かがこれから起きるかもしれない。けど、そんなことは万に一つも起こるはずはなくて、明日からに備えるべきだと分かっている。

 僕は深くうなずいて答えた。

「そうだね、仕事に支障が出たらいけないからね」

 僕たちはそのまま駅の構内に向かって、また当日券で切符を買った。

 行きに続いて、タイミングよく来た新幹線に乗り込む。こんな時間に東京へ戻る人も少ないのか、またしても車内には残席が目立っていた。

 二人掛けの席。行きと同じで、僕が窓際で奈津希さんが通路側。暑さに体力を奪われていた僕たちは、特に会話もないまま、お互いに寝ては覚めてを繰り返した。そんな状況が一時間ほど続いて、列車は大宮駅に停車をした。

 大勢の乗客が降りていくのを見送って、新幹線は再び動き出す。次の上野駅が僕たちの終着駅だ。あと一駅で、僕たちの夏の旅は終わる。奈津希さんと別れたら、その瞬間からまた日常が始まるんだ。

 隣を向くと、こっちを見ている奈津希さんと目が合った。

「あと、一駅だね」

 奈津希さんは、何かを噛み締めるようにそう言った。

「……うん。やっぱり新幹線は早いね」

 違う。そんなどうでもいいことが言いたいわけじゃない。もっと伝えるべきことがあるはずなのに、相応しい言葉が見つからない。

「あと何分くらいなんだろ」

 窓から見える景色は、すっかり都会の様相だ。大きなビルが林立していて、それを見ているだけで一気に現実に引き戻された気分になる。せめて、この列車を降りるまでは夏の中にいさせてほしい。

「ねえ、この一週間、青木くんは楽しかった? 別に毎日一緒にいたわけじゃないけど、それでも、私と過ごせて青木くんは楽しかったのかな」

 奈津希さんは、膝の上に置いた自分の手を見つめている。緊張しているんだと分かった。

 僕は、この一週間のことを思い出してみた。

 久しぶりに連絡を取って再会をして、すっかり大人の女性になった奈津希さんに驚いて。地元の夏祭りにも行って、もう昔のようには楽しめないんだと思い知って。そして今日、最後の一日を二人で過ごした。

 この一週間が決して楽しくなかったわけじゃない。社会人になってから初めて落ち着ける休みが取れて、いろんな場所に出かけることもできた。それに、綺麗になった奈津希さんと一緒の時間を過ごせて、嬉しくないわけがない。

 だけど、満たされない気持ちがあるのは否定できない。なにかが足りないんだと、心がそう叫んでいる。

 僕が答えられずにいると、奈津希さんは気まずそうに笑った。

「ごめん、いじわるな質問だったね。青木くんの気持ち、分かってるつもりだから」

「結局、どうしようもなかったのかな。どんなに久しぶりでも、実際に顔を合わせれば昔に戻れるって、そんなの甘い期待だったのかな……」

 僕の力ないつぶやきは、新幹線の立てる音の中に溶けていく。それから少しの静寂の後、奈津希さんは車両間のドアの方を睨みながらハッキリと口にした。

「わがままなんだよ、青木くんは」

 完全に不意打ちだった。

「自分が先に変わったくせに、私には昔のままでいて欲しいなんて」

 大きな声ではないけれど、やけに響く声だった。

 僕は不意に、この夏休みのはじめ、奈津希さんへ連絡を取ろうとトークアプリを開いた時のことを思い出した。


 奈津希:夏だねぇ、青木くん


 それに対する僕からの返事はなくて、やり取りはそこで途絶えていた。忙しさを言い訳に返事を忘れていたのか、返事を考えている間に億劫になってしまったのか、当時の僕のことなんて分からない。

 だけど一つ確かなことは、僕には最初から、昔のままを期待する資格なんてなかったということ。

「そうだね。……そうかもしれない」

 久しぶりの夏の休暇に背中を押されて変な期待をしてしまったけど、最初に夏へ背を向けたのは僕の方だった。それなのにもう一度昔を取り戻そうなんて、あまりに虫のいい話だ。

 でも……。それでも、やっぱり焦がれてしまう。

 奈津希さんと過ごした夏が、もう一度欲しかった。

「やっぱり、もうダメなのかな。本当に、もう前みたいにはなれないのかな」

 奈津希さんは寂しく笑った。

「無理だよ。だって、青木くんが普通のサラリーマンになったみたいに、私だって今はただのOLになっちゃったんだから」

「けど……」

「お互い、時々思い出しては懐かしくなるくらいでいいんじゃない?」

「それじゃ嫌なんだよ。奈津希さんは、僕にとっての特別だから……」

 ガラにもないことを言ってしまったせいかもしれない。奈津希さんは目を丸くして驚いた後、ぷっと小さく吹き出した。

 そしてそれから、屈託のない笑顔を浮かべて言った。

「ありがとう」

 その笑顔は、僕がよく知る奈津希さんのものだった。カラッとして、夏の太陽のように眩しくて、どうしようもなく僕の胸を掻き乱す。

 やっぱり、奈津希さんは奈津希のままなんだ。

「奈津希さん、僕――」

 その瞬間、電子音が鳴り響いた。その音の発信源は僕のポケットから。繰り返すメロディは、着信だった。マナーモードにしていなかった自分と、こんな時に掛けてきた相手に苛立ちながら、それを取り出して画面を見る。発信元は上司からだった。

「出ていいよ」

 それは諭すような声だった。ここでこの電話を無視できるはずもなくて、僕は「ごめん」とひとこと、通話のボタンを押して席を立った。

 車両の間のスペースまで移動をして話をする。掛けてきたのは、今の現場のマネージャーだ。電話の内容は、当然仕事についてだ。現場の常駐先の都合によって、明日の僕の仕事現場が本社に変更になったという連絡。直前の知らせになってしまったから、慌てて電話をかけてきたらしい。早く切りたい気持ちを見透かされないように必死だった。

 通話を終える直前、まもなく上野駅という案内が流れる。通話の終了ボタンを押すと同時、自分の席へと走った。もう時間が残されていない。

 やっと席まで戻れた時、僕はそこで目を疑った。

 奈津希さんがいない。

 さっきまで並んで座っていた二人掛けの座席は、もぬけの殻になっている。

 一瞬、場所を間違えたのかと思った。だけど、頭上の荷台に置かれた僕の荷物が、間違いなんかじゃないと証明をしている。奈津希さんの痕跡だけが、そこからすっかり消えていた。

「なん、で……」

 ぴろん、と短い電子音が鳴った。そういえば、マナーモードに直していなかった。

 スマートフォンを取り出して画面を見ると、一通のメッセージが届いていた。発信者は奈津希さんだった。

 僕は慌ててそれを開いた。


 奈津希:まず、急にいなくなっちゃってごめんなさい。あんまり信じてもらえないかもしれないけど、この一週間、青木くんと過ごせて私は楽しかったよ。

 だけどそれ以上に、私たちはもう一緒にいちゃいけないんだって気づいちゃったから。青木くんも、本当は分かってるんだよね?


 読んでいる途中にも、次々と文章が送られてくる。

 僕はそれを追いかけるのに必死で、返信をする余裕もない。


 奈津希:私はね、夏の蜃気楼みたいなものなんだ。だからさ、夏の熱に浮かされたとでも思って、今日までのことは忘れてよ。

 それで、青木くんさえよかったら、また来年夏が来た頃に、ちょっとでいいから私のことを思い出してくれたら嬉しいな。


 奈津希:ちゃんとお別れも言えなくてごめん。最後くらい、ちゃんと青木くんの夏でいられたかな?なんて。


 奈津希:それじゃあね


 最後の一文を読み終わると同時、列車は上野駅に停まりドアが開いた。僕は慌てて荷台から荷物を取ると、近くのドアから飛び降りる。

 奈津希さんも、きっとどこか別のドアから降りているはずだ。

 列車を降りた乗客たちは、いっせいにホームの階段を目指して歩いている。集団になっているその中に、見知った背中を見つけようとした。

 スーツ姿に、子供連れの家族。探している背中は見当たらない。ホームの階段はいくつもあって、そのどこから奈津希さんが降りようとしているかなんて見当もつかない。

 どうしよう、下に降りて探した方がいいのか?

 そんなことを考えた瞬間、視界の奥にその背中は見えた。肩先まで伸びた明るい茶色の髪と、白のブラウス。間違いない。

 その背中が階段を降りて沈んでいく。すぐに追いつける距離ではなくて、さらに、階段の手前で渋滞した雑踏が行く手を阻んでいる。

 それでも僕は追いつこうと駆け出して、だけどやっぱり距離は縮まらなくて。その背中は、人混みの中に紛れて消えていった。

 不意に、駅のホームのざわめきがやけにうるさく聞こえだす。右を見ても、左を見ても、自分の良く知る東京の駅の光景だ。世間でいうお盆休みの最終日で、まだどことなく浮かれた空気は残っているけど、それでもきっと、明日からはまた慌ただしい世界に戻るんだろう。そして僕も、その中を忙しくなく生きていくんだ。

 だから僕は、追いかけるのをやめた。


 ☆


 夏の風が吹き込む窓を、僕はピシャリと閉めた。

 外の気温が気になってなんとなく開けてはみたけど、吹き込んできたのは肌にまとわりつく生ぬるい空気だけだった。そんなたっぷりと熱を溜め込んだその空気も、すぐにエアコンの効いた部屋の中へと溶けてしまう。

 エアコンの稼働音とPCのファンの音、そして、窓を閉めていても関係なしなセミの鳴き声。閉め切られたこの部屋には、静かな時間が流れている。

 社会人になってから何度目になるかも分からない夏休み。今日は夕方から彼女と会う予定になっているけど、この酷い日差しを見ていると、家を出るのも億劫になってくる。

「やっぱ暇だな」

 長期休暇は、いつものことながら退屈だ。とりあえずテレビの電源を入れて甲子園を眺めた。画面越しでも分かるほどのジリジリとした太陽の下、真っ黒に日焼けした球児たちの姿が映される。カキーン!と、高校野球特有の金属バットの音が響いた。

 強い当たりもショート正面。バッターは懸命に一塁ベースへとヘッドスライディングをしたけれど、判定は明らかだ。それで試合終了だった。

 どうしようもないほどに、夏だった。

 夏の空気を感じるたび、今でも不意に懐かしい気持ちになる瞬間がある。


 ――夏だねぇ、青木くん。


 夏が来るたびに、彼女が決まって僕にかけてきたその言葉。僕にはもう、その声は聞こえない。

 それでも、夏が来るたびに思い出す。

 何度も、何度でも、思い出す。


 おわり

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