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 夏という季節を感じるたび、僕は彼女のことを思い出す。

 海、スイカ、花火、夏祭り……。「夏」というワードから連想するものは人によってさまざまだと思うけど、僕にとってのそれが彼女で、彼女はもはや夏そのものだった。

 その彼女の名前は奈津希さん。苗字は忘れた。

 奈津希さんとは、いわゆる幼馴染というやつだったんだと思う。小学校の気づいた時から隣にいて、中学でも何度か同じクラスになっていた。

 そんな幼馴染の奈津希さんだけど、特別仲が良かったわけじゃない。同じクラスの時もそれなりの距離感があったし、性別も違うから、話をする機会も多くはなかった。

 ただ、それも夏の時期以外での話だ。

 七月も後半に入って、いよいよみんな夏休みに浮足立ち始める頃、彼女は僕の席までやってきて、決まってこう言うのだ。


 ――夏だねぇ、青木くん。


 そうして夏の間、僕は奈津希さんに振り回されるのが常だった。子供の頃の夏の記憶を掘り起こすと、必ずと言っていいほど奈津希さんが僕の隣を駆けている。

 日に焼けた健康的な肌と跳ねるショートカット、そして、少しの曇りもない満面の笑顔。今でも、鮮明に思い出せる。

 ただ、そんな記憶が続いているのは高校一年か二年の頃までだ。奈津希さんとは高校も違ったし、それなりに真面目な僕は、大学受験が近づいてくるにつれて遊ばなくなっていった。

 たぶん僕は、奈津希さんのことが好きだったんだと思う。

 どうして急に彼女の話をしているのかと言うと、窓の外から吹き込む風に、ふと夏を感じたからだ。

 数年前、僕がまだ社会人三年目かそこらの頃、奈津希さんと久しぶりの再会を果たし、一緒に夏の日々を過ごしたことがった。それは、夏休みと呼ぶには寂しいけれど、社会人にとってはオアシスのような一週間のお盆休みの出来事。

 結局、社会人になってから奈津希さんと会ったのはあの年の一度きりだ。

 まるで夏の蜃気楼のようなあの日々を、僕は思い出していた。


 ☆


 一瞬、意識が飛んでいた気がした。

 目の前のPCモニターに表示されている画面は、さっきまでとなにも変わらない。ただ、右下の角に小さく表示されている時計だけが先に進んでいる。

 居眠りでもしてたかな。

 エアコンの設定は26℃。まさか室内で熱中症になったわけじゃないだろうし。

「……暇だな」

 思わず、誰もいない部屋にこぼした。

 八月も中盤に入り、世間はいよいよお盆休みへと突入した。それは僕にとっても例外じゃなくて、今日はその連休の二日目。公休と有給を合わせた七連休だ。

 二年前にシステムエンジニアとして今の会社に入社し、いくつもの炎上案件の中を渡り歩いた僕が、初めて手にした長期休暇だった。

 弊社の名誉のために説明をしておくと、去年も一昨年も休暇自体はちゃんと存在していた。ただ、一年目は新人研修の課題に追われ、二年目は新しく配属になった現場のキャッチアップのため、仕様書とにらめっこをする毎日だった。

 だから、何かに追われていない長期休暇は今回が初めてだった。

 七日間も休みがあれば、きっとなんだってできる。そう思って迎えた初日の昨日は、溜まった睡眠の負債の返済に当てられて、二日目の今日はなんのやる気も出ない。あんなに欲しかったはずの休暇が、早くも退屈で埋め尽くされ始めていた。

 大学の入学と同時に上京をして一人暮らしだし(といっても、実家は埼玉だけど)、友達も社畜になってめっきり減った。時間ばかりあっても、やれることといえば、寝るか勉強するかの二択くらいだ。

 どこか出かけるって言ってもなぁ……。

 窓から外を眺めてみると、それだけで体感温度がぐっと上がるような気がしてくる。朝から日光を浴びたアスファルトは目玉焼きでも作れそうな雰囲気で、ゆらゆらと蜃気楼でゆらめく景色は、まるでどこか別の世界みたいだ。

 甲子園でも見るか。

 夏の醍醐味は、クーラーの効いた部屋でアイスを食べながら見る甲子園だ。冷凍庫から楽しみにしていたスイカバーを持ってきて、テレビの電源をつける。

 エースの佐藤君、延長に入っても球威は落ちない。中一日で、魂の一八〇球!

 チャンネルをNHKにした瞬間、聞こえてきたのは実況のそんな声だ。解説のおじさんは、『ここまで来たら気持ちですよ、気持ち』なんて興奮気味に語っている。

 こういうのも、昔は素直に感動できたんだけどなぁ……。

 両校の点数だけ確認をしてから、テレビのリモコンの電源ボタンを押す。途端、部屋には再び静寂が訪れる。聞こえるのは、咀嚼のたびに口の中でシャリシャリと鳴るスイカバーの音くらいだ。

 シャリシャリ、シャリシャリ。最後に、スイカの「皮」の部分も食べ終わる。久しぶりのスイカバーは、期待していたよりも美味しくなかった。

「……夏って、こんなつまんなかったっけ」

 夏がただの季節になってしまったのはいつからだろう。ただ暑くて蝉の声がうるさいだけの日々の繰り返し。

 昔は、もっと特別だったはずなのに。

 ――夏だねぇ、青木くん。

 不意に声がよみがえった。いつも僕を夏へと連れて行ってくれた幼馴染の声。

「奈津希さん……」

 その名前をつぶやいた瞬間、懐かしい気持ちに襲われた。

 あの人は今、何をしているんだろう。大学の頃までは少し連絡を取り合ったこともあった気がするけど。

 トークアプリを開いて、その名前を探してさかのぼる。奈津希さんと最後に連絡を取ったのは、大学四年の七月だった。


 奈津希:夏だねぇ、青木くん。


 それに対する僕の返事はなかった。

 あれ、返事してなかった? そもそも、こんなメッセージを受信した記憶もなかった。未読にはなっていなかったけど、忙しい時に開いて、それきり忘れてしまったとか。

 奈津希さんのトーク画面を開いたまま、僕は固まってしまった。

 このメッセージの下に続けるのか? そもそも、何年連絡も取ってないと思ってるんだ。この歳になっていきなり連絡するなんて、間違いなく警戒されるだろ。

 自分の性格くらい、自分でよく分かってる。遠慮しいで、意気地なし。だから、こんな寂しい夏を過ごすことになってるわけで。普通に考えれば、自分から女子に連絡なんてできるわけがない。

 けど、どうしてかあの人のことを思い出すと、胸が強く締め付けられる。

 この感情がただの懐かしさか、それとももっと別の何かなのかは分からないけど、僕にとって奈津希さんが特別だということは間違いなかった。


 青木:久しぶり

 今も東京いるの?


 送った、送ってしまった。

 我ながらあまりいい文章とは思えないけど、それでも送ったからには後に引けない。

 それからの僕はずっとそわそわして、なにをしても手につかない。奈津希さんからの返事が届いたのは、メッセージを送ってから一時間ほど経ってのことだった。


 ◇


「あの、奈津希さん。本当に泳ぐの……?」

 小学校のプールは、夏休みの間開放されて自由に使えるようになっている。だけどそんなことは、泳ぐのが苦手な僕にとって無縁の話だと思っていたのに。

 八月のある日、奈津希さんが突然家にやって来て、僕は無理やり学校のプールへと連れ出されていた。

 プールには、同じ小学校の生徒たちと数人の大人たちがいる。クラスメイトの姿がないことには安心したけど、やっぱり泳ぐことは気が進まない。

「今さらなに怖気付いてんの。夏はプールの季節なんだよ」

 奈津希さんはプールの前に仁王立ちになって、力強く言い切った。

「去年は『夏は山の季節なんだよ』って言ってたよね? 結局どっちなのさ」

「どっちも! 夏は全部やらなきゃ」

 言いながら、奈津希さんはプールのふちに足をかける。僕は一歩引いた場所から、その背中と奥のプールをじっと見つめた。

 真上から降り注ぐ太陽の光は、奈津希さんの真っ黒のショートヘアーとプールの水面をキラキラと輝かせている。水着に隠されていない箇所の肌は、健康的な小麦色をしていた。

 泳げないのを見られるのは恥ずかしいし、消毒のシャワーは冷たいし、裸足でプールサイドを歩くと火傷しそうだし。だいたい、水中で目を開けることだって苦手なのに……。

 プールを目の前にしても、そんな気持ちばっかり浮かんでくる。

 だけど、奈津希さんはそんな僕の手を不意に引いて、

「落ちろー!」

 と、道連れにするみたいにプールに飛び込んだ。

 とっさに目をつぶる。全身を衝撃が襲った後、水の感触が包み込む。慌てて水面から顔を出して、大きく息を吸った。目元の水を腕で拭うと、目の前に奈津希さんの顔があった。

 あははは、と、大きな口を開けて笑っていた。

「ちょっと、鼻から水入ったんだけど……」

 僕は口の中に広がる気持ち悪い感覚に耐えながら文句を言う。けど、奈津希さんは「えー」と気にしていなさそうだ。

「いつまでも入ろうとしない青木くんがいけないんだよ」

「そんなこと言ったって……」

「ほら、ここまで来たんだから泳がなきゃ!」

 そう言って、奈津希さんはすいすいと泳ぎ始める。

「ちょっと待ってよ!」

 結局、僕はまた後を追いかけてしまう。文句を言いたくなることも多いけど、それでも僕はこの季節が好きなんだと思う。

 やっぱり夏は特別だ。

 夏休みはあるし、カブトムシは成虫になるし、たくさんアイスは食べられるし、太陽は眩しいし。そしてなにより、奈津希さんがいる。

 夏の間の奈津希さんはちょっと不思議だ。普段は同じ教室にいても特に意識することもないのに、水の中ではしゃいでいる今の奈津希さんはとても眩しかった。

 プールの真ん中までたどり着くと、奈津希さんは泳ぐのをやめてこっちへ振り向いた。泳げない僕は、ぱしゃぱしゃと手で水を掻きながら歩いて、やっとそこまで追いついた。

「あんまりはしゃいだら、監視の人に怒られちゃうよ」

 奈津希さんは、濡れた髪の毛をかき分けた。隠れていた顔があらわになって、すぐ至近距離で視線が合わさる。奈津希さんは、にいっ、と口角を上げた。僕はドキッとして、たまらずに目を逸らしてしまう。

 一歩、奈津希さんはさらに距離を詰めてきた。そして、僕の耳の近くで囁くようにこう言った。

「ねえ、青木くんだけ特別に、私の秘密を教えてあげる」

 水を被って冷えたはずの僕の頭は、一瞬にしてのぼせ上がった。

「秘密……?」

「うん。実は私ね――」


 ◇


 奈津希さんに会うのは高校二年生の八月以来、実に八年ぶりのことらしい。

 最後に会ったのはちょっとした中学の同窓会の時のことで、奈津希さんとどんな話をしたのか、そもそもまともに会話をしたのかも覚えていない。いくら幼少の頃からの付き合いとはいえ、さすがに少し緊張をしていた。

 そもそも、仕事以外で同年代の女子と会うこと自体、何年ぶりだって話なのに。

 奈津希さんと待ち合わせたのは吉祥寺駅。この場所を選んだのは、毎日職場と自宅の往復しかしていない僕にとって、精いっぱいの背伸びだった。

 北口を出てすぐの広場を待ち合わせ場所にしたけど、外を選んだのは間違いだったかもしれない。集合時間は十五時で、容赦のない日差しが真上から降り注いでいる。ずっとクーラーの効いたオフィスでパソコンをいじっているだけの人間には、少しきつい環境だ。

 時間と場所だけ決めて約束したけど、ちゃんと顔を見て気づけるかな。

 なにせ記憶にあるのは八年前の姿だけだ。今は社会人になって、見た目も雰囲気も変わっているに決まっている。

 記憶の中の奈津希さんは、日に焼けた健康的な肌と肩に届かない程度の短い髪、そして、夏の太陽のようなカラッとした笑顔。

 夏休みが近づいてくると、僕の席までふらっと現れて必ずこう言うんだ――。

「青木くん、だよね?」

「うわっ!」

 突然の隣からの声に思わず跳ね上がる。

 振り向くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。薄いベージュのブラウスと紺のロングスカート。髪は明るい茶色で肩先まで伸びてる。

「奈津希、さん……?」

「うん、久しぶり」

 記憶の中とまるで印象が違う。肌の色だけはわずかに面影を残しているけど、表情の雰囲気までが違っている。

 長いまつ毛にぱっちりとした瞳と血色の良い唇、金色の輪っかのイヤリング。呆然としてしまったのは驚きが半分で、もう半分の理由は、ただ見惚れてしまっていた。

「本当に奈津希さん?」

 思わずもう一度確認してしまうと、奈津希さんはニヤリといたずらな笑みを浮かべた。

「夏だねぇ、青木くん」

 その瞬間、目の前の女性と記憶の中の奈津希さんがつながった。

 そうだ。暑いから夏なんじゃなくて、紫外線が肌を焼くから夏なんじゃなくて、奈津希さんがいるから夏なんだ……。

 見ているだけで暑苦しい眩しい日差しも、奈津希さんが浴びれば、キラキラと綺麗な絵になっていた。

 見た目の雰囲気が変わって不安になったけど、やっぱり奈津希さんは奈津希さんだ。

「で、急に連絡なんてしてどうしたの?」

「どうっていうか、なんとなく、最近どうしてるのかなって気になったから」

 奈津希さんはすっかり大人の女性になったと言うのに、僕は変わらずヘタレのままだ。顔を合わせれば自然と昔みたいに話せるだろうと思っていたけど、緊張してしまってうまく言葉が出てこない。

 僕たち、昔はどんなふうに話をしていたっけ。

「と、とりあえずどこかお店でも入ろうか。……暑いし」

「うん、そうだね」

 僕の提案に奈津希さんはうなずくと、カバンから白の日傘を取り出した。頭の上でぱさりと広がって、奈津希さんの顔に影が生まれる。日傘なんて女の人なら当たり前のことなのに、昔のイメージとの違いのせいか、やけに落ち着かない気持ちになった。

 お店に入ろう、なんて提案したのは僕だけど、どこか当てがあったわけでもない。駅の周辺をふらふらと歩いた後、奈津希さんが知っているという喫茶店に行くことになった。

 そこは純喫茶風の見た目で、若い女性客の多いおしゃれなお店だった。エアコンも効いているし、雰囲気の演出のためか店内は薄暗い。さっきまで歩いていた真夏の街から、まるで別の世界に迷い込んだみたいだ。

 僕たちは、店内の奥のテーブル席に向かい合って座った。

「改めて、本当に久しぶりだね。実際、急にどうしたわけ?」

「別に本当になにもないんだけど。なんとなく、今何してるのかなって」

「本当にそれだけなんだ。……けど、面白い話なんてできないよ? 私、今はただのOLだし」

「OL……」

 思わずおうむ返しにつぶやいた。

 あの奈津希さんがただのOL。

「意外? これでも私、結構バリバリやってるんだけど」

「いや、意外っていうか……」

 意外っていうか、そんなのは奈津希さんらしくない。

 さすがに、その言葉は呑み込んだ。昔だったら、それくらいのことはずけずけと言えていたのかもしれないけど。

「それより、青木くんは何の仕事してるの?」

「一応、SE的なことを……」

「えー、すごいじゃん!」

 なにがすごいのか分からないけど。僕は適当な謙遜で誤魔化した。

 それから話題は、完全にお互いの仕事のことが中心になった。奈津希さんがどんな仕事をしていて、今はちょうど夏季休暇なんだとか、僕の社畜生活をネタにして笑ったり、そんな酒の肴くらいにしかならない、つまらない話題が続いた。

 結局、この歳の人間同士が集まったら、仕事の話ばっかりだ。人によっては、恋愛がどうとかも加わるんだろうけど。当たり障りのない、パターン化された話題ばっかりだ。

 たぶん、幻想を抱いていたんだ。

 奈津希さんならきっとあの頃から何も変わっていなくて、今でも顔を合わせれば、またあの頃に戻れるって。水飛沫を上げてはしゃいだ、あの夏の空気をもう一度……。

 カラン、と、奈津希さんのアイスティーの氷を混ぜる音がやけに響いた。

「ねえ、つまんないでしょ」

「え……?」

「私と話してもつまんないよね」

 失敗した。

 勝手に変な期待をして、思ったのと違うだなんて失望して。自分から呼びだしておいて、最低だ。

 謝ろうとして口を開きかけた時、奈津希さんは寂しげに目を流しながらつぶやいた。

「私も、つまんない」

「それって……」

「ちょっと期待してたんだ。青木くんと会ったら、また昔みたいな楽しい夏になるのかなって。……だけど、なにも変わらなくて、勝手に失望してた」

 奈津希さんは、お店の中をつまらなさそうに眺めている。

 アンティークな装飾は洒落ていて、メニューも凝った名前の写真映えするものばかり。普通なら、良いお店知ってるんだね、なんて話題にできるんだと思う。だけど、奈津希さんにこんな場所は似合わないと思ってしまう。

「僕だってそうだよ。奈津希さんとまた会うまで、勝手な期待をしてた。今日のことだって、夏休みが退屈だったから声をかけたんだ」

 やけに周りの女性客の声が大きく聞こえてくる。たぶん、僕たちの間に沈黙が目立つようになったせいだ。

 奈津希さんはため息と共に吐き出した。

「ねえ、変わっちゃったのは私? 青木くん? それとも、全部時代のせいなのかな」

 その問いに、僕はなにも答えられない。たぶん、その全部なんだろうけど、それを口にしたところで、どうせなにも変わらないから。

「ねえ、青木くん。もう一度、私たちの夏を取り戻してみない?」

 奈津希さんの提案は抽象的で意味はよく分らなかった。

 だけど、僕たちは今同じ気持ちだと思ったから、うなずくことに迷いはなかった。


 ◇


「お前、いくら持ってきた?」

「しらね。普通に財布ごと持ってきたし、結構あんじゃん?」

「んだよ、金持ちかよ。青木は?」

 改札を抜けて西口の方に向かって歩いていると、突然トシキが僕に話を振ってきた。どうせ、僕ならたいしてお金もないと期待しているんだ。

「本当にちょっとだよ。千円とかそれくらいで……」

「ふうん。千円じゃたこ焼き一個か二個買って終わりじゃん」

 僕の答えに満足したのか、トシキは声を上げて笑った。周りの男子たちもそれにつられて笑っている。

 こんななら、来るんじゃなかった……。

 年に一度の地元の夏祭り。小学生の間はずっと家族と参加していたけど、中学生になって初めてのこの夏は、大人の付き添いがなくなった。グループに僕を誘ってくれたのは、クラスの中で唯一仲がいいスズキくんだったけど、その彼が当日になって来れなくなった。この場のみんなはクラスメイトだけど、なんだかすごくアウェーな空気だ。

 適当にタイミングを見て帰ろう。どうせ毎年来てるお祭りなんだし。

 ポケットの中には、出かける前にお母さんからもらった千円札が二枚。せめて、これを使い切ってから帰ろう。このままこのお金を使わずに帰ったら、きっと悲しませることになる。

 駅の構内を出ると、視界一面を埋め尽くすのは、人、ひと、ヒトだ。別に栄えている街じゃないはずなのに、こんなたくさんの人たちが普段はどこにいるんだろう。

 駅の正面からは、ロータリーを起点にして大通りが伸びている。普段は車がビュンビュンと走っているその通りも、今は封鎖されて屋台が立ち並ぶ。そして、その間を大きな山車が何台も通るのがこの夏祭りだ。

 見るもの聞こえるものすべてがお祭りで満たされている。そんな中、僕一人がこの空間の中で浮いているような気がした。

 僕は、ポケットの中の二枚のお札をくしゃっと握った。

 やっぱりもう帰ろう。お金は、素直に話してお母さんに返せばいいや。

「ごめん、やっぱり僕――」

 トシキに向かって、そう言いかけた時だった。

「せっかくのお祭りなのに、なに暗い顔してんの?」

 そう言って、僕に話しかけてくる声があった。

 振り返ると、そこにいたのは奈津希さんだった。他のクラスメイトの女子も一緒だ。

「な、奈津希さ……」

 僕が言葉を止めてしまったのは、急に声をかけられて驚いたからじゃない。

 奈津希さんが着ているのは、深い紺色の浴衣だった。少し大人びた柄のその浴衣は奈津希さんによく似合っていて、僕は思わず見惚れてしまっていた。

 奈津希さんたち女子の存在に気づいた男子たちは、みんないっせいに浮かれ騒ぎ始める。僕はあっという間に、クラスのその輪からはじき出されてしまった。

 だけど、奈津希さんはすぐにそこから抜け出して、僕のもとまで歩いてきた。紺の浴衣が、今、目の前にあった。

「ねえ、似合ってるかな?」

「……うん」

 照れる気持ちを抑えて小さくうなずくと、奈津希さんは「やった」といたずらっぽい笑顔を浮かべた。

 その笑顔を目にした瞬間、僕の心臓は不安定な跳ね方をした。ど、ど、どくん。自分でも、どうしてしまったのかと心配になるくらいだ。

「ほら、いこ」

 奈津希さんは僕の手を引いて歩き出す。二人だけで抜け出すなんて、なんだか悪いことをしているみたいで、緊張してきてしまう。だけどそれは、嫌な緊張ではなかった。

 一つの大きな集団になったクラスメイトたちは、誰も僕たちを気にしない。

「年に一度のお祭りなんだから、ちゃんと楽しまなきゃ」

 奈津希さんの言葉に、僕は自然とうなずいていた。さっきまであんなに帰りたかったはずなのに、気づけば胸が躍り始めていた。


 ◇


 一人暮らしをしている都内の家から、実家までの距離はそう遠くない。

 駅までの徒歩の時間も含めて、およそ二時間弱。最後に帰省をしたのは今年の元旦だから、半年以上ぶりに実家に向かうこの路線に揺られていた。

 だけど、今日の目的は実家に帰ることじゃない。実家の最寄りから一つ隣の駅で開かれる、夏祭りに行くのが今回の目的だ。

 やっと、電車は目的の駅に到着する。時刻は十八時前で、ちょうどお祭りが盛り上がり始める頃合いだ。ドアが開いてホームに降りた瞬間、懐かしい音と空気が飛び込んできた。

 雑踏の声、祭囃子、出店のソースの匂い。ここにあるものは、あの頃から何も変わらない。だけど、あの頃から変わってしまった自分を思い出して、そのことが余計に不安になってしまう。

 まさか、この歳になってまたこの祭りに来ることになるなんて。

 奈津希さんと久しぶりの再会をしたのが一昨日のこと。僕たちの夏を取り戻すことを決めた後、昔一緒に回ったこのお祭りに行こうと約束をした。

 改札を抜けて、待ち合わせ場所に決めたショッピング施設の入り口に向かうと、先に着いていたのは奈津希さんだった。

「ごめん、お待たせ」

「全然、まだ時間前だし」

 真っ先に意識がいったのは、奈津希さんの服装だ。一昨日の女性らしい格好とは変わって、今日は少しラフなスタイルになっていた。

 黒のTシャツに、ベージュ色のスキニーなパンツ。確かに、夏らしい服装ではあるけど……。

 奈津希さんは僕の考えていることに気づいたのか、いけないことを思いついた子供のような笑みを浮かべた。

「もしかして、浴衣に期待してた?」

「え、そういうわけじゃ……」

「あれ着るの、結構大変なんだよ? もうそこまで頑張れなくなっちゃって」

「そ、そうなんだ……」

「あ、別に相手が青木くんだから手を抜いたわけじゃなくてね」

 別にそこを心配していたわけではないけど、自分もTシャツと短パンで来てしまった立場上、なにも文句は言えない。

「それより、早く行こう。急がないと屋台が逃げちゃうよ」

 奈津希さんに先導されて、お祭りの会場になっている街の中を歩く。人混みの中をすり抜けながら、目を引くお店を探して回った。

 たこ焼き、焼きそば、射撃にくじ引き。同じ場所をぐるぐると回っているんじゃないか思うほど、似たようなお店が繰り返す。

 ふと、目を引いたのは飲み物を扱うお店だ。巨大な水槽の中で、氷と一緒に缶やペットボトルが浮かべられている。蒸し暑いこの空気の中で、見ているだけでも涼しくなる。

 僕はそこへ吸い寄せられて、冷えているビールの缶をお店の人に指さした。奈津希さんが選んだのは、お茶のペットボトルだった。それを受け取って、また大通りを歩き出す。

「奈津希さんは飲まないの?」

「んー」

 返ってきたのは、なんとも冴えない声だった。

「あんまりお酒は好きじゃない?」

「普段は普通に飲むよ。むしろ結構好きな方だし。……けど」

「けど?」

「昔は、お酒なんてなくても楽しかったなーって」

 僕は思わず、右手に持った銀のラベルのビール缶を眺めた。自然とこれを選んでしまったけど、いつからそれが当たり前になったんだろう。

 ふと、奈津希さんは僕の方を振り向いた。

「昔の私たち、どんな話をしながら一緒にここを歩いてたんだろうね」

 そう口にするその顔が、やけに寂しそうに見えてしまった。

 僕が思い出せるのは、奈津希さんの浴衣の色と、このお祭りを二人で並んで歩いたこと。具体的な会話なんて、まるで思い出せるわけもない。十年近く前の記憶なんて、普通はそんなものだ。

「分からないけど、少なくとも、まさか大人になってまた一緒にここを歩くことになるとは、想像もしてなかったんじゃないかな」

「そうだね。それはそうだ」

 奈津希さんはそう言って苦笑した。和らいだその表情に、少し安心をした。

 不意に、近くからいっせいに声が上がった。見ると、後ろから山車が一台こちらに向かって進んできている。僕たちは脇に避けてそれが通り過ぎるのを待った。

 隣の家族の子供は、山車に向かって目いっぱい手を振っている。ここでは、昔からよく見かける光景だ。山車が通る前後は混雑をするから、少し離れるのを待ってから僕たちはまた奥に向かって歩き始める。

 久しぶりのこの夏祭りは、昔と変わらずに活気があった。規模も参加者数も特に変わっている様子はない。

 それなのに、でも、と思ってしまう。

 都内の大学に通った四年間、研究に追われることも多かったけど、それなりに遊びに出かけることもした。大きな花火大会にも行ったし、全国的にも知名度のある夏のお祭りを見て回ることもあった。

 だから、どうしても比べてしまう。

「そっか。出店って、この辺りまでだっけ」

 大通りを少し歩くと、そこで屋台は途切れてしまった。屋台が消えてしまったその先は、ただのありふれた街並みが広がっている。

「出店の数は変わってないと思う。……けど、なんか、もう少したくさんあった気がしたよね」

 僕はただ、小さくうなずいて答えることしかできなかった。

 本当は、山車ももっと大きかった気がしたんだ。

 きっと僕たちは期待をしすぎていた。奈津希さんとまたこの空気の中を歩けば、あの頃の夏が取り戻せるはずだと。

 だけど、言葉にはできないけどなにかが違う。今、僕たちの間にはそんな空気が漂ってしまっている。

 夏を取り戻すきっかけになればいいと思ってこのお祭りに来たはずなのに、余計にぎこちなさが増してしまった。

 あの夏、僕たちは二人でなにをして過ごしたんだろう。もちろん、それが分かったところで、その頃に戻れるわけじゃないけれど。思い出せないのに、楽しかった感覚だけは残っていて、それが余計にもどかしかった。

 僕たちは屋台の出ている場所を一通り回りきると、今日はここで解散になった。

 残された夏季休暇は、これであと三日になった。


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