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旅をする猫 参

「赤介、お前は何をやっていますか」


 大女将の言葉はとても優しいものであります。男衆へのそれとはえらい違いではありますが、何せこの場は猫の本。女将も猫好きでありますから。


「いやあ、俄かに豆腐が食べたくなってしまいまして」

「この前もそのようでしたが、あの時は相談をしたでしょう。土産も持って、大変褒められたものでした」

「えぇえぇ、ですから俄かでしたもので」


 当然、赤介があの場にいたのは自らの欲によるものではありませんでした。しかし、なぜそのような事が言えましょうか。それは(すなわ)ち、せっかく隠れられた湖兵の事を明らかとする事に他ならぬのですから。二年の永きを共に過ごす赤坂ならばいざ知らず、知らぬ間に吾郎爺さんの連れて来ていた他猫がいたとあっては大層腹を立てるでしょう。何せ、湖兵は湯浴みも済ませておりませぬ。


 いや、いや、実の所を申されますと、赤介も時たま外に忍び出ては素知らぬ風にいつもの寝床に収まっております。ただ、大女将はその事を知らぬのでありました。


「それは誠に我慢ならぬ事でしたか」

「えぇ、えぇ、それはそれは(まま)ならぬ程でありました。このような事は産まれてこの方、初めて木天蓼(マタタビ)を口にして以来ですとも」


 当たり前の事と存じますが、全て逐一出まかせに御座います。赤介は大変木天蓼に強う御座いました。

 それを知る大女将には嘯いている事など筒抜けでありまして、当然赤介も承知の事であります。わざわざ見えております偽りを口にしまして、これ以上聞いてくれるなの合図としたのでありました。


「他ならず、赤介がそう言うのなら」

「面目次第も御座いません。御恩は一生ものであります。猫の一生は、人間のそれより短う御座いますが」


 この一人と一匹は人と猫ではありましたものの、その間には確かな信頼が御座います。なにせこの場は猫の本。そういった手合いは珍しくありません。

 ただ一つ、問題が御座いました。信頼し合っているからこそ、これは過ごしてしまう訳には参らないのであります。


「赤介、私は……」

「みなまで仰るな。どうぞ私を罰し下さい」


 嗚呼、ここは国一番の豆腐屋。面目などという些事を捨て置くには、あまりに大きな肩書きに御座います。人であろうと、猫であろうと、不手際があれば罰しざるを得ないのでありました。


「私は、かねてより野良というものに憧れておりました。この機会に、どうぞ私の背を押してはいただけませんか?」

「そう、ですか」


 優しい赤介の言葉であります。ならばと、大女将はようやく覚悟を決めました。覚悟があるので御座います。なにせ、猫好きでありますから。


「赤介、お前はこれより外の猫です。真なる悔悟が済まされぬ内には、堂々屋の敷居を跨ぐ事罷りなりません」


 赤介は返事をしませんでしたが、代わりに深く頭を下げました。そして、ニャンと一鳴きした後、足取りも軽く窓の外へと飛び出して行きました。


「……いつでも帰りなさい」


 大女将のその言葉は、赤介は元より女将本人以外誰の耳にも入らぬのでありました。

 さて、野良の生活というものは赤介の憧れではありましたものの、それは随分と静かな門出と相成りました。何せこれは罰であります。俄に決まりましたもので、そもそもからして知る者がおりませぬ。明くる日の朝には店の中で大騒ぎになりましょうが、今この時、赤介を見送る者は一人たりともいないのでありました。

 いやしかし、見送らぬ者ならば確かにおりました。


「赤介殿!」

「…………?」


 高い声、小さな体。なるほど一人もいないと思われましたが、()()確かにおりました。天井近くをネズミの如く這い蠢いた湖兵は、大女将と赤介の問答を聞いていたので御座います。


「殿、とはまた奇妙だな。こちらには改まられる覚えがトンとない」

「何を(とぼ)けておられるか。私を庇い、貴方は流れの身とされてしまった。この湖兵、この恩を返さずして生きていられる程うつけでは御座らん」

「あぁ、そう……」


 赤介としましては、そもいつか野良となりたいと思っておりましたもので、これ幸いと利用したに過ぎませぬ。それに大層感動したらしい湖兵との間には、富士の山がすっぽりと収まってしまう程の大きな溝があるのでございます。


「どうかこの湖兵をお側に置いてください。必ずや赤介殿のお役に立ちましょう」

「ええ……まあ、いいけど……」

(かたじけの)う御座る!」


 この様な調子は、一昼夜のうちに終わるものではありませんでした。いやそれどころか、赤介が生きる内のこれから殆ど、この調子の湖兵が付いてくるのであります。ただ、赤介としても邪険にはできません。慕われる事は気分が良う御座いますし、何より誰かと共にいる事は心地良いものでありましたので。

 この時、赤介が誰の事を思い出していたのか、湖兵には知る由もないのでありました。

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