旅をする猫 弐
さてさて果たして、湖兵が食べる豆腐はどうなる事やら。酷く気になり、湖兵はいてもたってもいられなくなってしまいました。
赤助が申しましたのは夜中という事でしたが、どうにも待てそうにありませぬ。なにせ、湖兵が寝転んでいるのは豆腐屋の真上でありいます。それはそれは美味しそうな豆腐の匂いが、四六時中何をしている時にも香ってくるので御座います。
どこかに良い主人はいないかと外を眺めていましても、ああ良い匂い。
ちょいと身体を動かそうと鞠を突いておりましても、ああ良い匂い。
うつらうつらとお昼寝の直前であっても、ああ良い匂い。
夜までなど、とても待てそうにはありませぬ。一度我慢ならぬと思いますと、湖兵の行動は早う御座います。その行動の早さで都に飛び出したものですから、豆腐を食べようと思うのはさらにより早いのであります。
お腹が鳴るまま匂いに釣られるままに部屋を抜け出しますと、ソロリトトトと廊下を歩きまする。これが人ならばギシギシと廊下が軋んでいた事でしょうが、なにせ猫でありますから。その愛らしい小柄は、こっそりとするのにとても都合が良いので御座います。
人のドタドタという足音を聞けば、どこにどれくらいの人がいるのかは瞭然であります。湖兵はとても賢い猫でしたので、その足音を避けるように屋敷を探りまする。
湖兵は豆腐の場所など知りませんでしたが、匂いを辿ればおおよそを知る事くらいわけがありませぬ。なにせ猫でありますから。人とは違うのでありますから。場所はすなわち、一回の奥。決してお客の目にはつかぬ、この店で最も秘密の場所でありました。
いやはやしかし、どうにも生中にはいきませぬ。この場が人間の店でありますれば、豆腐を作るのは当然人間なのであります。そこまで人に見つからずにきた湖兵も、いつも豆腐の前にいる人の目までは避けられませぬ。仕方なしに壁の凹凸を足場にして天井に登ると、梁の上から覗き込んでその小さな頭をウンウンと唸らせます。まさか直上に目がある人間などありませんので、見つかる事はないのでしょうが、どうにもこのままでは豆腐を取る事ができそうもありませぬ。
しばらくそうして様子を見るも、ほんのひと時たりとも人の目は離れる様子がありませぬ。これはともして常に見張られているのかと、湖兵は人間の規則正しさに感服いたしました。なにせこの場は猫本。ひと時でも目を離せば何処からか入り込みました野良に盗られてしまうので御座います。
「こら、何をしているんだ」
湖兵がもたもたとしておりますと、そのような声が響きます。赤介でありました。小腹を空かせてお昼寝から起き上がってきた際に、湖兵がいない事に気がついたのであります。この屋敷はなにぶん広う御座いますので、何処か迷ってはいやしないかと心配したのでありました。
しかし、ようやくその場に訪れてみれば、湖兵は梁の上から豆腐を眺めております。当然、誰かが見上げればすぐに見つかる事でしょう。
「ここは猫が入っちゃならない。見つかったら、すぐにでも追い出されてしまう。猫好きの五郎爺さんでもここだけは譲らないんだ」
「いやしかし、ならどうやって豆腐をくすねる。豆腐はここにあるってのに」
「馬鹿だなあ、だから夜なんだよ。夜になると、人間はどっか行ってしまうからな」
得意げな赤介。湖兵は、人間は夜になると家に帰ってしまうのだと知っていましたが、わざわざそんな事を指摘したりは致しません。赤介は、この屋敷とその周辺にしかいないので知らなかったのであります。
いやしかし、ここで困り事が一つ御座います。大は小を兼ねるという言葉は多くの場合その通りでありましょうが、今此の時に於れましてはその逆なので御座います。すなわち、小は大よりも優る。梁の上に乗る二匹の猫は、梁の下からでは随分と様子が違うようでありました。
「おい、そこにいるのは赤介かい」
二匹の足元から、そのような声が届いたのであります。
「これはまずいぞ、見つかったぞ」
赤介は大慌てで梁の上を駆けます。大きな身体を軽やかに、足跡もなく梁の上を駆け抜けます。何せ猫でありますから。
いや、しかし、赤介はすぐさまおかしな事に気が付きました。それは、放ってなどおけぬ一大事なのであります。
「おいお前、一体どうした」
赤介は、湖兵の方へと振り向いて訊ねます。しかし、とうの湖兵はと言うと知らんぷりでありました。いやそれどころか、赤介の方をチラリとも見ないのであります。
「赤介、赤介、待て赤介」
赤介が騒ぐ間も、男衆は立ち止まりなど致しません。何故自分ばかりが追われるのかと不思議に思いながらも、赤介は仕方なしに湖兵を置いて駆け出しました。
いやはや、これは小さき事の妙。湖兵の体は、男衆には見えていなかったのであります。天井の梁を下から見上げますと、湖兵はその影となる位置にいるので御座います。鳴かず、動かず、慄かず。湖兵がそうしております限り、男衆はそこに小さな猫がいる事など気が付きますまい。
身体の大きな家猫の赤介には真似できぬ事であります。赤介は悔しく思いつつも、その大きな体に似合わぬ身のこなしで男衆の足元をスイスイと駆け抜けていくのでありました。何せ猫でありますから。
いやしかし、ピシャリという音が響きますと、さしもの赤介も肝を冷やします。それは扉が閉められた音でありまして、つまりは外に出られません。その豊かに伸びた髭をだらりと下げて、赤介は軽々と持ち上げられてしまいました。
「お前達、何をしていますか」
凛とした、年齢に似合わぬ張りを持ったその声は、この道々屋の大女将のもので御座います。真っ白な髪をピシリと整え、ほんの一本も緩んでおりません。朝から夜まで崩れないこの髪型を見れば、女将の性格もわかろうというもので御座いましょう。吾郎爺さんですら逆らえぬ豪傑であります。
「豆腐を作ろうというこの部屋の中で、よくも童のような真似ができましたね。まして、豆腐職人であるお前達が」
大女将の口調はとても静かでしとやかではありますが、きりりと釣り上がった目尻がその心中を表しております。
「すみません大女将。猫がおりましたもので」
「見れば分かります。埃を立てる事の言い訳が、まさか猫のせいだなどと言うのではありませんね」
男衆はたちまち萎縮してしまいます。その様はさながら借りてきた猫。こればかりは、この場が猫の本である事とは関係御座いませぬ。
「赤介は私が連れて行きますので、お前達は続きをなさい。次に同じくしてみなさい、一週間は赤介の足の裏を触らせませんよ」
「無体な……」
これは大変な効果をみせます。なにせ職人達は皆猫好きでありました。なにせこの場は猫の本。こちらは関係御座います。
赤介は抵抗もままならず、大女将の両腕からだらりと後ろ足を垂らしております。もしも子猫の時分であれば意識せずとも後ろ足を持ち上げた事でしょうが、赤介はもう二歳にもなる大猫であります故。
はてさて、この場に取り残されました男衆と一匹。男衆は決まりの悪い気分で作業に戻るだけでありますが、湖兵はといえぼそうもいきませぬ。
「マズい、マズい、私のせいで……」と固まったまま焦り、「彼はどうなってしまうのか」と赤介が連れて行かれた方を見やります。
どうにかしなければと思いつつも、しかし今すぐなとはいかなようでありました。なにせこの場は道々屋。一度下に降りてしまえば、クシャミの合間よりも素早く捕まってしまうでしょう。
そうして震え、目だけを部屋中に走らせている間にも、時は刻一刻と進んでしまうのでありました。