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旅をする猫 壱

 大は小を兼ねるというのは、やはりいつの時代も変わりませぬ。小さな手拭いでは包みきらぬ物でも、大きな風呂敷ならば包めるやもしれませぬ。しかし、その逆は中々そうもいきますまい。それは、この猫の本に於いても同じに御座います。

 ただ、必ずしも小さき事が悪いとは限りませぬ。小さい事が、大きい事よりも優れているという場合も往々にしてありましょう。この猫の本に於ましても、やはりそのような事柄もそこかしこに転がっております。


 とある田舎に湖兵(こへい)という猫がおりました。とても小さな猫であります。もう三歳になりますが、まるで子猫のような容姿でありました。湖兵は先日、世話になっておりました老夫婦が亡くなった事をきっかけとしまして、湖兵は都に上がる決心をしたので御座います。


 その老夫婦は非常に優しい心の持ち主でありまして、湖兵はそれはそれは立派に育ちました。体躯はなくとも、老夫婦譲りの優しき心を持つ猫であります。都に上がった暁には、新しい主人の元でお仕えしたいと考えておりました。小柄の湖兵には長い道であります。野を越え山を越え、そしてもう一度山を越え野を越え。月の満ち欠けが幾度も繰り返されました。


 道中で聞くところによりますと、猫の中には熊を倒す者もいるのだとか。湖兵はそれを聞きますと、なお一層の事気を引き締めるのでありました。


 そんなとある日の事であります。湖兵が落ちている小汚い器の中で眠っておりますと、ヒュゥっという音とともに身体が器ごと浮かび上がったのであります。

 あいや、なんとも不思議。湖兵の小さな体躯は、強く吹く風に掬い上げられたのでありました。

 そうして落ちた場所はなんと川の上。ゴオウゴオウと音のする激流で御座います。湖兵は爪を伸ばしまして器にしがみつくのですが、それだけが精一杯のことでありました。何せ猫でありますから、何かを掴んで川を漕ぐ事などできますまい。


 あれよあれよと流されまして、湖兵は寒さに目をつぶってしまいました。鋭い牙を噛みしめまして、鋭い爪を突き立てまして、それはもう必死で器にしがみついていたのであります。

 はてさて川から打ち上げられましたのは、月が山向こうに隠れようというような時になってからでありました。湖兵が川に落ちてから、ゆうに一刻と四半は経っております。あまりに疲れてしまった湖兵は、ピクリとも動かずに再び目を閉じてしまいました。宵の暗がりにまどろんでしまったので御座います。


 明くる朝。いや時刻はもう六番目の猫の刻に差し掛かろうとしておりますので、明くる朝をさらに明けましてもう昼に御座います。あまりに姦しい人と猫の喧騒に目を覚ましました。

 そして、湖兵は驚きのあまり瞳を細く伸ばしたのでありました。縦に長く扁桃のような形をしていた瞳孔が、今は一本の線のようであります。何せ猫でありますから。


 湖兵の目の前に広がりますは、波飛沫と見紛うばかりの人だかりでありました。もはや彼らは歩いてはおりません。流れているのであります。その人間たちの足元を縫うようにして、それ以上の多さの猫があちらへこちらへと足早に駆けております。およそ湖兵の見た全ての光景と違えるような景色なので御座います。


 湖兵は、ようやく都にたどり着いたのであります。

 眼に映るもの全てが華々しく、湖兵の心中は跳ねて回るようでありました。家々の間隔は狭く、田舎では見る事の叶わなかったような物が多くあります。

 商人というものすらほとんど見た事のない湖兵にとって、その喧騒はあまりに眩しいものでありました。


 うわぁ、っと感嘆の声を上げまして、湖兵はその流れの中に身を投じまする。しかしなんと御し難い事か、流れようとするまでもなく湖兵は流されてしまいます。道の端に見える煌びやかな建物へと興味を向けますと、その反対にどんぶらこ、飾り立てられた端に興味を持ちますと、その橋を通り過ぎてどんぶらこ。


 とてもではありませんが、好きなところになど行けませぬ。

 あっちへよろよろ、こっちへよろよろとしまして、ようやく息がつけたのは、どうやら人間が住まうらしい場所に行き着いてからでありました。

 胡兵からしてみればその場所も随分広いものではありますが、店の立ち並ぶ大通とは比べるべくもありませぬ。もう少し大きなお屋敷に仕えたいな、などと考える湖兵ではありますが、今の疲れもありまして、およそ屋敷を探して回るほどの力は残っておりませぬ。


 実はこの日、この街で一番の高所に建てられまする御社にて一つ催しがあるのでありました。湖兵はそうと知らず、その祭りを一目見ようと集まった人々に遭遇したのでありました。

 すこし、いやしばらく休ませてもらおう。湖兵は、立派な垣根に開いた小さな穴から家の中へするりと入りました。人間にはできぬ芸当でありますが、なにせ猫でありますから。


「あいや、おめえどこから入った」


 湖兵がひょっこり顔を出しますと、その家の軒先で並んで座っているお爺さん二人に見つかってしまいました。ああ、これは困った。目につかないような場所で一休みと思っていた湖兵でありましたが、早速人間に見つかってしまいます。


「どうか、ほんの少しだけ休ませてくださいませ」


 湖兵のささやかな願いでありましたが、言葉が通ずる筈もありませぬ。猫の言葉を聞く人間は、この猫の本に於ましてもそう多くはないのでありました。

 追い出されるやら、怒られるやら、そんな事を思っておりますと、お爺さんは腕を組んでウンウンと唸り始めたのでありました。


「おい木吉。大豆粉はもう置いてねえのかい」

「いやいや、さっきので最後だ」


 そんな事を言っているのでありました。

 湖兵には何の事かさっぱりでありましたが、追い立てられたりしてしまう前にお暇しようと踵を返しまする。

 しかしお爺さんはそれを見とめますと、「おぉい、どこへ行くんだ。つれねえじゃねえか」と湖兵を抱き上げてしまいました。湖兵は何をされるのかと驚きましたので、体を捻って引っ掻いての大騒ぎであります。しかし悲しきかな、湖兵の並を外れました体躯では、老人のシワのよった皮にも傷をつけられぬのでありました。


「いいとこ連れてってやろう。ちょうど帰ろうと思ってたんだ」


 湖兵を抱えたお爺さんは豪快に笑います。どうやら、ここの家主ではないようでありました。


「吾郎さんひでえや、結局ちゃんと勝負しねえんじゃねえかよ」


 家主と思われる方のお爺さんは、ハゲた頭を抱えて苦く笑っておりました。湖兵からしても確かに酷い。どれだけ体を捻りましても、吾郎と呼ばれた老人は器用に湖兵を抱きかかえるのであります。

 一体どこへ行きます事やら、湖兵は恐々としておりました。人の背丈から見る景色は、どうにも恐ろしいものであります。高い場所という意味ならば更に見上げるほど高い樹木の上へ登った事もありまする。しかし、それは高所にて落ち着き下を眺めるという事にありますれば、その高い景色のまま動き回る事などあろうはずもありませぬ。特に湖兵、実は家猫で御座います。人混みなどというものも今日初めて見たものですから、体が強張って思いもせず爪を立てるのでありました。


「おいおい、痛えよ。やめてくんねい」


 吾郎爺さんが湖兵の頭を撫でますが、湖兵は只今強張っておりますので、動きを返す事もできませぬ。

 それはもう、強張っておりますので。怖がっておりますので。


「着いたぜ色男。ここは俺ん家だからよ、ご馳走してやらあ」


 着いた建物の入り口には沢山の人が並んでおりまして、その脇に掲げられる看板には大きく雄々しい文字で「道々屋」と書かれておりました。これは都一の豆腐屋なのですが、湖兵は都の事を知りませんので首を傾げるばかりで御座います。


「おぉう、帰ったぞ。豆腐を一丁回してくんねぃ」


 老人とは思えぬほどに響く声は、恐らく建物の隅まで通った事でしょう。すぐに若い衆が駆けて来まして、湖兵を見て驚きました。


「大旦那、また猫を拾って来たんですか」

「馬鹿言ってんじゃねぇよ。腹ぁ空かせてるとこ助けたんでぃ」


 吾郎爺さんは、湖兵を抱えて階上へと行きまする。そこは道々屋の最奥でありまして、店の者が最も大切にいたしまする場所に御座います。即ちそこは猫の部屋。この道々屋は、なんと上階全てが猫のものなのでありました。

 何せこの道々屋、大旦那はもとより、女将も若女将も若旦那も、その他従業員に至るまでみんな猫好きなのでありました。何せこの場は猫の本。人間よりも、むしろ猫の方が馴染みのある生き物なのでありますから。


「おうおうおチビよ、腹ぁ減ってるだろう。若ぇのがすぐに食い物を持って来るからな」


 にこにこ顔の吾郎爺さんは、ようやく湖兵を離しました。湖兵を飼っていた老夫婦はあまり触るようなお人ではなかったので、湖兵は抱きかかえられる事に慣れていないのでありました。


「あいつ、ちいと遅いから見てくらあ」


 都生まれのせっかちな吾郎爺さんは、暫しもせぬうちにそう言うと、大きな足音を立てて階下へと駆けて行きました。

 なんなんだ一体と、湖兵は言わずにおれません。都とは、なんと騒がしい場所であったのだろうか。

 武士の飼い猫となりたい湖兵は、どうしたものかと前脚で頭を抱えます。耳のあたりを器用にこするのは、湖兵がほんの子猫からの頃からの癖なのでありました。


 湖兵が困った困ったと唸っておりますと、その部屋の奥に動く気配があります。この階はもともと猫のものでありますから、先住がおりましても不思議では御座いません。ただ、湖兵はその事を知らないものですから、得体の知れぬものを前に体を強張らせてしまいました。


「そこにあるは何者か」


 湖兵の高い子猫のような声が、その部屋にキンキンと響きました。


「何者かとは失礼な、お前こそなんだ。ここは私たちの、いや私の部屋だぞ」


 それは大柄な、恰幅のある大猫でありました。

 こちらも来たくて来たわけではない。声の大きい老人に連れられてしまったのだ。

 体は小さくともこの湖兵、決して肝まで縮こまってはおりませぬ。大猫をしたから見上げ、後ずさる事はおろか一歩前に踏み出すのでありました。


「こちらは迷惑をしている。私は新しい主人を探さねばならないのだ」


 湖兵が都に来て、もう半日は経ちましょうか。その間に湖兵がした事と申しませば、人の波に流れていたばかりで御座います。人のそれよりも遥かに短い一生しか持ちませぬ猫の身にあって、湖兵はどうしようもなく急いているのでありました。


「なんだ、吾郎爺さんの連れかい。なるほど爺さん、鬼青(きさお)がいなくなったのが相当寂しいと見える」

「何を言っているのか分からないが、老体が戻るよりも早くこの場は失礼させていただく」


 湖兵がその辺を見回しますと、ちょうど一飛びの場所に空が見えました。人ではそうそう出られぬような小窓の隙間も、湖兵にしてみれば充分な通り道なのであります。


「まあ待ちな。折角だから、爺さんの豆腐を食ってきなよ。ここの豆腐は絶品なんだぜ」


 クルクルと、湖兵のお腹が鳴きました。思い出してみますと、前に何かを食べたのは何日か前のようであります。


「腹が膨れないと、きっとご主人探しも捗らないと思うね」


 確かに、その通りだ。言葉に甘えるわけではないが、ちょっとくらいのんびりしてもバチは当たらないだろう。そう思った湖兵めは、小さな体をコテンとその場に下ろしたのであります。体の大きな赤助を真似ての事ではありますが、どうにも湖兵では格好がつきませぬ。


 そうこうしている内に、五郎爺さんが階段を上る足音が聞こえてまいりました。

 トトト、ダン、パァッン。軽快な音で戸を開きますと、おめぇら随分仲良くなったみてぇじゃねぇか、と豪快に笑います。それから、ほうれたんと食べろよ、と手に持った器を足元に置きました。中身は、それはそれは豪勢に食材を使った猫まんまであります。


「話が違う、豆腐じゃない」湖兵は赤助に叫びました。

「いや、いや、済まない。こればっかりは爺さんの気分なもんで」


 すっかり弱った赤助は、尻尾を垂らしてうずくまります。

 どれ、今夜辺りに下へ行き、チョチョイと一丁くすねて来ぁ。

 湖兵はむすっと頬を膨らせますと、小さな体躯をすっと屈めて、不機嫌ながら腰を下ろしました。豆腐は食べたいが、ご主人探しが遅くなってしまう。

 悩ましく思いながらも、今夜だけだと言いながら道々屋で夜を明かす事となりました。

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