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食べる猫

 人間謙虚が一番とは言いますが、猫にその言葉は通じません。人間にこれをお食べと言えばイヤイヤ悪いですよと返される事もありましょうが、猫においてはまずそうはならないでしょう。その餌が信じ難いほど不味いというのならいざ知らず、相手を思いやって断る猫はまずおりません。それは日本国はおろか全世界見てもその通りだと存じますが、やはりこの猫の本に於いてもそこに変わりはないので御座います。


 例えば地元で一番の食いしん坊と評判の長介という猫の話を致しましょう。近所で食いしん坊のと言われましたなら、まるで小倉百人一首の上の句と下の句のごとく長介と誰もが答えるというほどの食いしん坊なのでありました。


 ある日、長介が近所で旨い物が落ちてやしないかと散歩をしておりましたところ、とある御宅の垣根に穴が空いているのを見つけました。人間から見れば足元過ぎるので深く屈み角度をつけなければ見つけられぬのでありましょうが、長介からみれば一目にして瞭然でありました。何せ猫でありますから。

 ともすれば見た事のない馳走にありつけるやもしれぬと、長介はその垣根の隙間に体をねじ込みまする。体を多少の枝葉がこすりますが、長介の食い気の前には些事でありました。すでにお気づきと思われますが、この長介、少々頭が弱い。なんと、丘の上の社にまで侵入前科がある程であります。


 ずい、ずい、と力んでその穴に抜けますと、穴の先は当たり前ではありますが特に代わり映えのない民家でありました。長介は知らぬ場所であろうとも好きに入り込んでしまう豪胆な性格であります故、気にする事もなくその家の中へと突き進みます。およそ猫とは思えませんが、何せこの場は猫の本。なにぶん数が多いものですから、変わり種もまた多いものです。


 長介が鼻をすんすんと鳴らしますと、どうにも覚えのない香りを感じます。これはアジの開きだろうか。いやいや香ばしくはあっても魚ではない。ならば茶菓子の類だろうか。いやいや甘くはあっても餡ではない。しかし長介には非常に覚えがあるのでありました。


「おや、そこに見えるは長介かい」


 そう声をかけるのは、長介にいつも馳走を恵んでくれる吾郎爺さんでありました。吾郎爺さんのくれる豆腐は非常に旨いものですから、長介もよく覚えております。四六時中食い意地を張らせている長介は、馳走の事となるとすこぶる覚えが良くなるのでありました。


「どれ、こっちにおいで。今日は木吉と碁を打っていたんだ」


 手に持った石を置き、吾郎爺さんは長介を手招きします。しかし、馳走もなしにしっぽを振る長介ではありません。何せ猫でありますから。犬ではありませぬのですから。


「吾郎さんそりゃないぜ。分が悪くなるとすぐそれだもんな」


 木吉と呼ばれた老人が、吾郎爺さんを指差して顔をしかめさせます。しかし長介には碁が分かりませんので、そんな事よりも馳走をねだるのでありました。

 みゃあご、うみゃうみゃと鳴きますと、吾郎爺さんには長介の考えがよく伝わりました。それはいつも長介が馳走を貰う時にあげる声でありまして、腹が減ったらいつも吾郎爺さんの目の前で同じ事をするので御座います。


「おぅおぅ、腹が減ってるか。でもな、済まねぇ。今日は豆腐を持ってねぇんだ」


 吾郎爺さんの言葉に愕然とした長介は、しっぽを垂らして回れ右。真っ直ぐと入ってきた垣根の隙間に戻って行きまする。すると、それを見た木吉がこう言ったので御座います。


「おぉう、なんだ可哀想だね。おめぇ、長介って言ったかい。大したもんはねぇがちょいと待ってな」


 木吉はそう言うと、奥に引っ込んで行きます。


「どうした木吉。なんかあんのかい」


 吾郎爺さんは首を傾げ、碁盤の石をチョチョイと動かしております。


「今はこれしかねぇけどよ、こりゃ猫でも食べられたかね」


 木吉が奥から持ってきたのは、きな粉と呼ばれる大豆を粉末状にしたものでありました。

 木吉は有名な商家でありまして、吾郎の店に良質な大豆を卸しているので御座います。その余りが、家に置いてありました。今日は、その余り物をきな粉に挽いていたのであります。その味は吾郎爺さんも太鼓判済みで御座います。国一番とも言われる豆腐屋、道々屋の店主が言うのですから、まさしく折り紙つきと言えましょう。

 香ばしく、甘い香りはきな粉のものでありました。


「とりあえず風呂敷にでも巻いとくかい。お腹が減ったら食べりゃいいだろう」


 木吉があまり親切なものでしたから、普段は馳走の事以外考えていないような長介でも流石にありがたがりまして、深く頭を下げました。深く、深く、下げるため、勢い余って地面に接吻するところでありました。

 その際ポッキリと。あぁ、長介のヒゲが折れてしまったではありませんか。その体躯に見合うだけの立派なヒゲでありましたものの、こうなっては流石にかたなしであります。下げた頭の正面に落ちたヒゲを見まして、さしもの長介も愕然といたしました。

 ただしかし、人間にその感覚は分からないらしく、年寄り二人はなんとも気持ちのいい笑顔で話すのであります。


「見ろや木吉、ヒゲが落ちた。これは長介からのお礼だねえ」

「ヒゲがお礼になるのかい」

「馬鹿を言うんじゃない。猫のヒゲと言やあ、有名な吉兆の印さ。おめえさんにいい事ありますようにって、長介が願をかけてくれたのさ」


 そんなふうに勝手な事を言い始める始末。そんな訳でして、長介の立派なヒゲは木吉が持って行ってしまったのでありました。しかし、ヒゲと交換で馳走と言うのなら、そう悪くはないかと思い直しましたる長介。先ほどまでとは違い、尻尾をピンと伸ばしまして木吉のお宅を後にします。


 旨い馳走は気持ちのいい場所でこそだ、とは常々長介の口癖でありまして、この日もいい場所でのんびり食べようと少しばかり歩いておりました。長介自身は運動は体に良いなどと言うのですが、食べる量との兼ね合いが悪くその効果が現れる見込みはありませぬ。

 長介の気に入りの場所といえば、人では入れぬ狭い道の先に御座います。家々の隙間や軒下などを通りますれば、瞬く間に猫以外知らぬような場所にたどり着くので御座います。


「長介、久し振りじゃないか」


 そう話しかけてきますのは、食いしん坊仲間の金客(こんかく)でありました。熊と友達と嘯くホラ吹きではありますが、長介と話の会う気のいい猫であります。


「木吉爺さんから馳走を貰ってね。ちょいと気分良く食べようと思ってたところさ」


「ほほう、すると、やはり道々屋の屋根の上かい。ここからだと釈迦の屋敷は遠いし、(やしろ)の方はお祭り騒ぎで猫でも近づけねえ」


 金客の言葉に、長介は(かぶり)右左と振ります。


「今日の馳走はきな粉だからね、餅屋に切れ端でも貰おうかと思っている。あそこの屋根も、道々屋の二つ次くらいには眺めがいい」


 これを聞いた金客は、扁桃型の目を十五夜のお月様みたいにまん丸にしたのであります。


「きな粉を持っているのか。おいらは食った事がねえもんだから、どんな舌心地なのかてんで分からねえんだよ」

「おい、そいつぁつまり」

「そうだ長介、そのきな粉おいらにくれないかい」この言葉に長介は腹を立てます。

「馬鹿言ってんじゃねえよ、こいつは俺が貰ったんでえ。この馳走は俺に食べられたがってるに違いねえよ」


 頭のほとんどが食い意地でできているような長介が、まさかはいどうぞとなるはずもありません。しかしそんな事は金客も分かっておりますれば、当然言うべき事が御座います。


「手放しでとは言わねえ。おいらが持っている馳走と交換といこうじゃねえか」


 そう言いまして金客が取り出したりますは、世にも珍しい黄金色の葱頭たまねぎでありました。こんな綺麗な馳走を見た事のない長介は、二つ目の返事で承諾してしまったのであります。


「ありがてえや、じゃあな長介」


 そう言って離れていきます金客に一言礼を言い、長介は行く道を違えるのであります。何せきな粉はもう手元にないものですから、餅屋の用はありません。ならば、やはり道々屋の屋根の上に参ろうかと思い至ったので御座います。


 そうして猫の道を通り道々屋の前に出ますと、最近になって見かけるようになった赤助がおりました。長介が遠出をしているうちに現れた猫らしく、なんでも道々屋の看板猫なのだそうな。道々屋の看板猫は二匹居たような気もしますが、長介はよく覚えておりません。

 最近では近所にいるチビたちの相手をしているようでありますが、どれほど大人数でかかっても一向に倒れる様子がありません。太っちょ長介にも負けないくらいの巨躯でありますから、そう簡単にはやられぬのでした。


「長介くんや、珍しい物を持っているね」長介が首から下げている葱を見まして、赤助が言いました。


「おう、流石にお目が高い。こいつを持ってる猫は、都広しと言ってもそうそういないだろうね」長介は自慢げに前脚で葱を掲げます。「あげないぜ」なんて鼻を鳴らしました。それを聞いた赤助は、猫らしからぬ仕草でもって首を傾げました。それもそれはず、長介は間違いなく猫なのですから。


「猫に葱頭は毒だよ。そりゃ持ってる猫はいないだろうね」


 それを聞いた長介は口から心の臓が飛び出すかとばかりに叫びあげます。食い意地ばかり張っている長介、しかし知識は平凡以下でありました。


「でもでもこんなに綺麗だぜ。もしかしたらすごい葱なのかもしれない」

「ちょいと火を通して色味をつけているだけで、それは普通の葱だねどうも。火曜日に甘塚爺さんのとこに行けば、同じ物が箱にいっぱい売られているね」


 そこまでくると、さしもの長介も気がつきまする。あの金客めに騙されたのでありました。


「落ち着け、落ち着け、長介や。葱は猫にとって毒だけれども、人間にはどうやらそうではないらしいんだ」

「それは本当かい。人間はすごいな」

「そうさ。だから、うちの大女将にくれてやれば、代わりに豆腐を一丁貰ってきてやろう。大旦那は葱が大好物なんだが、今日は手に入らないとかでがっかりしていたんだ。その葱を貰えさえすれば、きっと大旦那は大喜びだ」


 道々屋の大旦那といえば、今朝会った吾郎爺さんの事で御座います。実の所、葱が食べられない事に気を落として木吉のところに繰り出しているのでありました。


「豆腐か、本当か。道々屋の豆腐なら間違いはない。こんな危ない物を手放せる上に豆腐まで手に入るのなら、それは願ってもない事だ」


 長介は赤助に葱を差し出し、赤助は葱を受け取って店の中に入っていきました。豆腐はまだかと、今か今かと待つこの時間が、長介は好きで好きでたまらないのでした。


「大女将は喜んでいたよ。代わりにとても出来がいい豆腐をいただいた」


 赤助が木の容物に入った豆腐を差し出します。流石は国一番と名高い道々屋の豆腐だけあり、そのきめ細やかさたるやまるで天の羽衣のようでありました。長介はいつも切れ端ばかりを食べていたので、豆腐丸々一つを見たのは初めての事でありました。


「こんなに綺麗なんて知らなかった」


 善は急げと言わんばかりに、長介は道々屋の裏手に回り込みます。去り際にありがとうと大きな声を出しまして、赤助とはお別れとなりました。


 さてさて道々屋と言いますれば、やはり国一番でありますからその建物の佇まいもまた壮大なものでして。豆腐を売る店先よりも奥に職人たちの詰めます工房部があるので御座います。赤助たちがいましたのは店先をやや奥へ行ったところでして、その辺りは大旦那たちの住居となっているのでありました。

 長介がよく居座りますは、工房のさらに端の端。店先から最も離れまする店の先端なので御座います。そちらからは丘の上にある社もよく見えまして、どうやら祭事の只中らしい賑わいを遠くからよく眺める事ができます。そこで食べる馳走は格別であると、長介はいつも申しておりました。


「ちょいと、そこの猫さんや」


 そんな声が聞こえましたのは、猫の脚ですらもう十歩ほどで道々屋の端に着くという場所でありました。

 見ると、山伏のような格好をした男が立っております。真っ直ぐと長介を見定めまして、脚早くそそそと近づいて参りました。


「なんだい、なんだい、何の用だい」これから道々屋を登ろうとしておりましたので、長介は少しばかり不機嫌となっております。


「貴方の持つその豆腐、もしや道々屋の物ではありますまいか」

「そうだが、だからなんだと言うのか」


 山伏は長介の言葉にこう返しました。


「実は拙僧、現在断食をせねばならぬのです。しかし、その上で山越えをしなければならない、あまりにも過酷な行に堪え兼ねております。どうかその豆腐を恵んではもらえませぬか」


 山伏は続けまして、「店の面から堂々と求めれば見咎められるやもしれませぬ」と言いました。これには不憫に思う長介でありましたが、しかし豆腐を食べたいのは長介とて同じであります。何せ丸々の豆腐は生まれて初めてでありますから、食欲もかくやと言ったところでありましょう。


「この豆腐を渡したなら、一体そちらは何をするってんだい」


 初めは髭との交換でありましたところを思えば、これもまたそれを求めようというものであります。


「相応の、いやそれ以上のお礼をしたしましょう。ひとまずその豆腐三つ分。それでいかがか」


 山伏としましては、手間賃のつもりでありました。破格というに相応しい金額ではありますが、山伏にとってはそれほどまでに求める物なので御座います。目前に添えられまする多量の銀を見まして、長介は一言こう返しました。


「金物が食えるか。こんな物とは代えられん」


 そう、何せ猫でありますから。

 ふいっとそっぽを向いてしまった長介は、瞬く間に屋根の上へと駆けてしまいました。なんとも太っちょながら軽快な脚さばきはさすが猫と言えましょう。

 後に残るは、手の中にたんまりと銀を持った山伏のみでありました。まさか断られるなどと思ってもみなかったものですから、取り出しました銀をそのままに呆然としているので御座います。

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