憧れる猫
生まれなどというもので相手の全てを決めてしまうのは、なんとも勿体無い話で御座います。知性溢れる無法者や、名家の大うつけなど猫の本でもそう珍しいものではありませぬ。相手を見た目や匂いで判断するなとは、猫の間にも知られた教育の一つであります。いくら小汚い匂いをしていても善猫である場合もあり、美味しそうな餌の匂いをさせた悪猫の事もありましょう。
しかし、この猫の本に於きましても、やはり野良猫と飼い猫の違いというものはあるものでして、野良は屋敷の高みから見下ろす猫を恨めしく思い、飼い猫は外を気ままに生きる野良に憧れるので御座います。ない餌ねだり、隣の餌は旨いとはよく言ったものでして、そこにもまた、物欲しそうな顔で窓の外を見下ろす猫が一匹おりました。
猫の名は赤助と言いまして、都一番の豆腐屋と名高い「道々屋」の二匹いる看板猫のうちの一匹なのでした。赤助はいつも二階の窓辺に腰掛けていて、下の道を駆け回る野良猫たちを眺めておりました。あんまりいつもそこに居るものですから、飼い主ももう一匹の看板猫も心配してしまうのであります。
そしてとうとう、ある日赤助はその事で話しかけられました。
「赤助、どうしたねぃ。外がそんなに面白いかい。餌も、昼寝も、好きにゃできねんだぜ」
そう言うのは道々屋のもう一匹の看板猫、名を鬼青というのでした。
「私はそれでも外を見たい。彼らを見ろよ、お腹を空かせているのにとっても自由で、眠たいだろうにとっても気ままだ」
猫だというのに溜息を吐いて、赤助はやっぱり外を眺めるのでありました。赤助の見る景色には、まるで大波のような猫が入っております。
「あんな枝みたいな奴らを見ても、俺ぁそんな風に思えないね。子供時分からたらふく食ってる俺らと比べて、あいつらは全然違う生き物みてえだ。まるで子猫みてえじゃねえか」
鬼青が言うように、時たま見かける太っちょ以外は皆一様に貧相な体をしておりました。その太っちょも、卑しく人間から餌をねだってそうなっているのですから、空腹というものとは縁遠い生活をしている二匹とは訳が違います。
「鬼青はちょっと気にした方がいい。最近太いようだ」
赤助がちょうど通りかかった太っちょを鬼青と見比べて言いました。
「ほっとけぃ!」
そんな会話をしております間も、赤助は外から目を離そうともいたしません。足元のはるかに下を走る痩せっぽっちのドラ猫たちに、目はおろか心まで奪われているのでありました。
「だがよ、お前さんは別に縄に繋がれてるわけでもねえぜ。ちょいとここから飛び降りりゃ、あいつらのとこまでひとっ飛びじゃねえかよ。帰ってくるときゃ玄関カリカリしたら誰かが開けてくれるだろうしよ」
赤助と同じ方を見ながら、鬼青がそんな事を申しました。しかしどうにも、何が面白いのかは理解できなかったようであります。
「いやいや彼らにとって、私はおっかない大猫だろうさ。ここから飛び降りたって、きっと輪の中には降りられないね。」
「だったらなんで諦めねぇ。俺たちゃもういい歳だ。なんにもしなくても、大旦那が別嬪な雌猫見繕って、そのうち可愛らしいチビたちに囲まれるんだぜ。そうじゃなくても俺にはお前がいてお前には俺がいて、何がそこまで不満だって言いやがんだい」
二匹は今年で二歳であります。子供がいてもおかしくはありません。何せ猫でありますから。
「不満じゃあないが、ちょいと欲しがってみたりもするさ。安心してくれ、出てったりしないよ。眺めているだけ」
赤助はそう言ってもう一度ため息をつきます。
そんな赤助の悩みなど知らず、道々屋は随分と儲かっておりました。連日品切れ、長蛇の列、満員御礼……おっと、これは芝居の場合でありました。ともかくとしまして、いつも窓辺に座る猫という事で、赤助は看板猫を看板猫足らしめるお役目を全うしていたので御座います。外を遊びまわる猫は見慣れた猫の本の住民としましても、上品な赤助の姿には心を奪われます。
豆腐を買いに店の中に入りますと赤助の姿は見えませんが、そこで活躍するのが鬼青なのでした。店の中を気ままに歩き回りまして、好きなところで寝転びにゃんっと鳴く。たったそれだけではありますが、たったそれだけでも豆腐は飛ぶように売れていくので御座います。何せこの場は猫の本。住む人は皆、猫を愛して止まぬのですから。
赤助が客を呼び、鬼青がお客の前に出る。二匹の仕事により、都一番の豆腐屋は国一番の豆腐屋となりました。お客は口々に鬼青を愛でまして、しかしお触り厳禁という事で一歩離れた距離を保ちます。
なんと愛らしい。こちらを向いてはくれまいか。触れられぬのが歯痒い。その声を聞き、鬼青は随分と機嫌を良くいたします。しかし、中には赤助に会いたいと言うお客もおります。
「赤助、外がそんなに面白いかい」
ある日、鬼青は赤助にもう一度同じ事をききました。
「面白いかどうかは、出てみなきゃ分からないな」
赤助は前とは違う言葉を返します。
「それよりも、店の塩梅はどうだい」
「何を言ってんだ、いつもお前さんの真下は大賑わいじゃねぇか。その賑わいは道々屋のもんだぜ」
鬼青の言葉に少し顔を向けた赤助でありましたが、すぐにまた外を向いてしまいます。二年も過ごしたこの店への態度がその程度なのかと、鬼青は大層驚いたのでありました。
「お前がその気なら、こっちにも考えがある」
鬼青は赤助の座る横をヒョイと抜けまして、窓から軽やかに飛び降りたので御座います。赤助は何が起こったのか分からずに、鬼青の事を呆然と見つめておりました。
「おい、何をしている。やめろ」
そう言えましたのは、鬼青が近所の猫を踏みつけてからでありました。鬼青は自分よりも一回りも二回りも小さな猫を前足で殴りつけ、威嚇をして回っているのでありました。
そうなりましてようやく、赤助は窓から飛び降りました。鬼青の蛮行に、いよいよもって我慢ならなかったのであります。
「やめろ鬼青、お前がそんな奴だとは知らなかった」
しかし鬼青の方も、赤助に言い返すのであります。
「店も見ずに外を見てるような奴には、そりゃあ分からねぇだろうよ」
鬼青の剣幕に、赤助はともかく周りにいた猫はことごとく萎縮してしまいます。震え、怯え、全く動く事ができぬのでありました。
辞めよ辞めぬの応酬で、二人は決して譲りませぬ。とうとう我慢ならなくなった赤助が鬼青に飛びかかるまで、その口論は延々と続いていたのであります。
「見損なったぞ鬼青。その肥大した驕り看過ならん。丸々と太っていたのは身体だけでないようだな」
「ほっとけぃ!」
そこからはまさしく神速の早業。猫を猫たらしめる身軽さと柔靱さときたら、人の身には決してなし得ない動きを可能にするので御座います。しかし二匹にはわけもない事。何せ猫でありますから。
あぁ、前脚が出た。あぁ、後脚が出た。うみゃにゃ、うにゃみゃの大騒ぎでありました。
「これで懲りたか」
最後にそう言ったのは、赤助の方でありました。鬼青は傷付いた前脚をしこたま舐めました後、むぅっと声を漏らして離れていきます。たったの一度も振り向く事のない、言いようもなく寂しそうな背中でありました。
「君らは怪我をしてやいないかい。うちの身内が済まない事をした」
赤助は野良猫たちに問いかけました。今までずぅっと眺めているのみであった野良猫たちに、初めて話しかけたのでありました。
「怪我はねえぜ。あんた強えな」
赤助より二回りも小さい野良たちは、髭が当たってしまうほどの距離から赤助を見上げております。
「いやしかし、踏みつけられて怪我がないのなら幸運だ。あいつは身内なので、私からきつく言っておこう」
この時見せた頼もしさによって、赤助は野良たちの兄貴分のようになりました。喧嘩をすれば負けなし、遊べば疲れ知らずと大層評判であります。時折二階の窓から抜け出して野良たちと遊ぶ事は、赤助の一番の娯楽であります。ただ一つ、屋敷のどこを探しても鬼青の姿が見えぬのでした。
奴はどこだろうか。貰われていったか。赤助がそう思ってしまうのも無理からぬ事。何せ彼らは猫でありますから。