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忠義に厚い猫

 先程、あるいは遥か昔に説明申し上げました通り、猫の本に於ける十二支はそのほとんどが猫によって作られております。

 それ自体は非常に愛らしく猫の本らしいと言えましょうが、何とも不便も多いものでして。例えば刻を表すのなら、皆様方は辰の刻と申されますところを猫の本では猫の刻を言うので御座います。


 それだけならば多少ややこしいくらいでありましょうが、猫の本では巳午申酉戌までもが猫でありますからもう大変な事でありまして。さらに言うならば滑り込みました丑と寅と卯までが皆様方に馴染みのあるそれとは違うところにおられます。


 そんな調子でありますから、猫の本では時間や方角の間違いが非常に多いので御座います。しかし気ままな猫の気性と合わせて考えますと、それもまたそれらしいと言えるのやもしれません。


 ただ、困る事があるというのもまた事実。

 現に今この時をもちまして、山道を迷う一行がおりました。刻も方角もあやふやなままに、山を越えようとしたので御座います。しかし彼らを責める事はできますまい。と言いますのも、一行は追われる身でありまして、この山を抜ける以外の道は残されておりませんでした。


 一見して山伏にも見える一行ですが、それは姿を隠すためのものなので御座います。一行を追うのは実の兄。古き時代ではそう珍しくもない、不仲による都落ちなのでありました。


 一行の中には猫が一匹。この場が猫の本といえど、人間と猫の関係は変わらぬ事もあります。猫の名は武蔵と言いまして、一行の主人に非常によく懐いているのでありました。


「ようやく道が分かりました」


 間も無く日が落ちようかという頃、仲間の一人がようやく言いました。これには一行も安堵。ともすれば野で夜を明かす事も視野に入れておりましたが、充分に日のあるうちに街に入れるそうであります。


 しかし一つ厄介事がありまして、その道中には関所があるので御座います。下手人として追われる一行に通れるはずもありません。ならば道を外れて遠く回るのかと言われれば、それもまた収まりが悪い。一度道を離れてしまいますと、再び道を見失ってしまう事は容易に想像が付きました。


 うん、すん、と頭を悩ませますると、武蔵が自分に任せてほしいと言うので御座います。やはりこの場は猫の本。猫と言の葉を交わす人間はそう珍しいものではありません。

 妙案がありまする、なれば信じよう、と一行の主人が判断なされた事によりまして、一行は堂々としたいすまいで関所に参ります。


「いや、待たれよ。この先には何用か」


 関所に詰める二人の兵士のうち背の低い方が一歩前に出て参りました。関所の旗には見慣れた家紋。一行が案じた通り、どうやら主人の兄の息のかかった者のようであります。


「我らは見ての通り旅の者である。今日中に街に着きたいのだ」


 一行は一見して山伏でありますから、その言い分にはおかしなところは御座いません。しかし、一見の判断で通してしまっては関所の意味などありません。


「手形を見せよ。然る手によってその身分を確かであると示さねば、この場を通す事はできぬ」


 兵士のこの言葉には、どうしても言い淀んでしまいます。当然、一行は手形など持っておりません。


「手形も持たぬのか。手形も持たず、旅をしているのか。怪しい者どもめ」


 兵士の視線に一層不信感が強く出ます。これではいけない。武蔵が今こそ自らの幕であると、にわかに飛び出し兵士の前に陣取りました。


 ごろにゃん、ごろにゃん。

 それは武蔵にできる最大の愛想。普段であれば決してしないであろう、土の上での媚びでありました。体が汚れようとも厭う事せず、主人のために腹を見せて体をくねらせます。これには兵士も笑顔が溢れまして、こんな愛らしい猫を連れた者が下手人であるはずがないと一行を通してしまったので御座います。何せこの場は猫の本。猫を愛でる事よりも、優先するべきなど他にありますまい。


「ぁいや、待たれよ」


 胸を撫で下ろして関所を抜けようとする一行の背に、これまた随分と愛らしい声が届きまする。振り返りますと、背の高い方の兵士の足元には見事な虎毛をした一匹の猫が控えておりました。


 その猫は南元(みなもと)といいまして、兵士に飼われているのでありました。南元は元々主人が屋敷で飼っていた老猫の子のうちの一匹。顔を合わせた事はありませんが、武蔵とは兄と弟の関係にあります。


 その南元が幼少の時分。まだ目を開ける前の記憶を掘り起こしましたところ、確かに主人の声を聞いたと思いいたったのでありました。その後すぐ下賜されてしまったために顔までは存じませんでしたが、声の覚えは間違いのないものであると断言します。


 これは窮地。どうせ顔を知る者などいないという油断が招いた危機で御座います。

 しかし、この事態にありましても救いは武蔵の存在でありました。南元の言葉を聞くや否や、どのように言い繕うべきやらと頭を悩ませる一行の中で唯一すぐさま行動し、なんと主人の頭に飛びついたので御座います。


 それは優しく飛び乗るようなものではありません。跳躍の勢いで主人の頭を蹴りつける、随分と暴力的なものでありました。無防備な額に武蔵の体重を受けた主人は派手によろめき、見事な尻餅をつきました。それをされた主人は唖然。一行もまた唖然。そして兵士と南元も唖然。皆一様に、武蔵の行動に驚愕したのであります。


 武蔵の奇行はそれだけにとどまりません。倒れている主人の腹の上に飛び乗り、あろう事かその鋭い爪で主人の顔に傷をつけたのです。流石に看過できる事ではないものの、兵士を前にしては下手な事は言えません。ともすれば、主人の正体が露呈してしまうやもしれぬのですから。


「お前がなまじ下手人に似ているばかりにあらぬ疑いをかけられた。この責をどう取るつもりか」


 武蔵のあまりに不遜な態度。いくらこの場が猫の本であろうと、いくら武蔵が猫であろうとも、許されようはずもありません。


 先ほどまで愛想を振りまいていた武蔵の急変に、兵士はもうたじたじでありました。あまりに驚いたものですから、止めようとすらできないのであります。兵士がようやくその辺で辞めておきなさいと声をかけられたのは、武蔵が主人で爪とぎを始めた後でありました。

 服はすでに穴だらけとなり、身体中に傷跡が見て取れます。


「いや済まなかった、私が要らぬを言ってしまったがために」


 南元が主人に頭を下げます。もう彼らに主人を疑う気はありません。もしも本物であったなら、主人に対してあのような行動を取れるはずがないと思ったので御座います。そしてそれこそが、武蔵の思惑なのでありました。


 関所を抜け、もう兵の目も届かぬだろうというところまで来て、一行はひとまず脚を止めます。武蔵の行為に、責を問わねばならぬと考えたので御座います。それは、武蔵も分かっておりました。分かっていながらの覚悟でありました。しかし、武蔵の覚悟に反して、主人の口からはとても優しげな声が発せられたのであります。


「そなたの忠義、嬉しく思う。この私の一番の忠臣は、そなたを置いて他にない」


 主人は、その深い心で武蔵を免じてしまったのであります。主人が構いなしとした以上、他の者も問答は御法度となりました。そして主人は、武蔵を抱き上げてにこやかに笑ったので御座います。


 主人のあまりにもの懐の深さに、武蔵は涙を流しました。改めて、主人の偉大さをその身に感じたのであります。その後においても、主人と武蔵は理想的な主従でありました。


 ただし、その日から武蔵の餌は半分の量となりました。

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