名を残す猫
はてさて皆様、再びお会いできて嬉しゅう御座います。
猫の本は史実とは刻の流れが違います故、何とご挨拶申し上げるべきやら迷ってしまいます。なにぶん、おはようと言うのもこんにちはと言うのもこんばんはと言うのも、お久しぶりと言うのもすぐに会えましたねと言うのも全て違和感が御座います。
なにせ、皆様方は令和の世を生きておられるかと思われますが、猫の本に於いては平成などという言葉すらできておりません。この国は何という時代なのかと聞かれれば少々難しい質問ではありますが、令和から数えまして平成昭和大正明治慶応元治文久万延安政嘉永と、少なくとも十は暦を遡りましょう。いやはやしかし、正確なところは分かっていないというのが本当のところでありまして、あるいはこれよりもはるか古くの時代を生きるのかもしれません。
故に、この場はとある時代。いついつと申せばことごとく偽りとなります故、とある時代としか申せぬので御座います。
さてさて今日ご紹介申し上げるのは、そんな時代に関する物語で御座います。皆様の生きる時代にも、やはり始まりはありましたので、猫の本にもまたそこにお話が御座います。
皆様が暮らしますお国では、おそらく一年毎にその年の獣を表す事と存じます。十二で一回り致しましてまた始めに戻るこの巡りを、十二支と呼ばれる事でしょう。実のところこの猫の本にも同じ文化が御座いまして、やはり十二の獣を一回りとして表すのであります。方角や刻を告げる時にも用いますので、いかにも我々の生活に深い関わりを持つので御座います。
しかし、この場は猫の本。何せ史実とは違うわけですから、やはりここにも相違が御座います。
差し当たりましてお釈迦様が獣たちに触れを出した事は同じ、その数が十二までというのも同じ、そしてその動物が子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥と猫であるところまで同じ。
はてさて、ならばどこが違うというのか。
まず始め、前日から歩き始めた丑のお話を致しましょう。名を空穂と申します。空穂の背には、悠々と揺られる鼠が一匹おりました。久蘇といいますその鼠は、空穂の背に乗ってお釈迦様の宮殿へ移動しているのでした。 久蘇は前日のうちに猫への謀りを済ませております。猫の事が大嫌いな久蘇は、日頃から猫に執拗な嫌がらせをしているのでした。何せこの場は猫の本、鼠には居苦しい国に御座います。
そして来ますは元日の朝。それは見事な初日の出が登りましたが、空穂も久蘇も目もくれません。それも当然、彼らの目指すは目の前で、背後に登るお天道様では御座いません。
ゆったりと開く門の中に空穂が歩み入ろうとしますと、その背から久蘇が飛び出します。
「やったね一番」
久蘇は言います。しかしながら、久蘇は次の瞬間に踵を返したので御座います。
何があったかなど聞くまでもありませぬ。何せこの場は猫の本。お釈迦様の宮殿で働く側仕えですら猫でありますので、鼠には居辛う御座います。久蘇は入るだけ入りましてあとはトンズラ。困惑した空穂は戸惑いつつも中に入ります。
いやしかし、素早く逃げたのがいけなかった。
猫の本能というものが働きまして、素早く動く久蘇を追い掛けてしまいます。仕事も務めもほっぽり出して、空穂の足元を抜けていく鼠と猫。空穂はといいますと、何をどうすれば良いのかわからずに口をモグモグと動かします。何せ牛でありますから。
そして逃げ出した久蘇はですが、逃げた先逃げた先で新たな猫に見つかってしまうものですからこれまた大変。何せここは猫の本。鼠には生き辛う御座います。どうにかこうにか古巣に帰り、暗い穴の猫が入り込めぬほど小さな場所に潜り込みます。猫もまた諦めが悪いものですから、どうにか前脚を伸ばして久蘇が取れないものかと穴を覗き込みます。久蘇はこの穴の奥にいれば猫が届かないと知っていたため心配はしておりませんでしたが、鼻先三寸を掠めていく猫の前脚に肝を冷やす時間でありました。
そしてお釈迦様の宮殿はというと、すでに猫たちは戻っております。流石に教育を受けた側添えでありますから、あまり長く我を忘れているような事にはなりませんでした。ただしかし不運がありまして、彼らが飛び出したすぐ後にお釈迦様が参られたのであります。宮殿に入る獣を迎えようとの事でしたが、なんと来てみれば空穂が口をむしゃむしゃむしゃむしゃ。周りに猫たちはおりません。腹を立てたお釈迦様が、彼奴らめどこへ行ったと声高々に申されたところで、猫たちは皆ようやく戻ったので御座います。
猫たちは毛皮の上から分かるほどに顔面蒼白。彼らは一斉にお釈迦様の足元に整列し、その頭を深く深く床に擦り付けました。
尻尾はパタリと床に張り付き、彼らの心根をよく表しております。
「主らは一体何をしていたのか」
お釈迦様の低く唸るような声が響きます。しかし猫たちには答えられるはずもありませぬ。何せ彼らは猫であっても、やはりお釈迦様の側添えでありますから。高々鼠一匹に目を取られて仕事を放り出したとはいきますまい。
「言えぬか」
頭上より掛けられる声はより低く唸ります。このままでは危うきと判断した猫たちの中の一匹が、苦し紛れにこんな事を申しました。
「外の掃除に出ておりました。何せ今日は祝事があります故、十二の獣たちをより一層輝かしき宮に招待したいと愚考しました」
周りの猫もそうだそうだと同意の大合唱。
空穂は未だにモグモグ。
「そういう事ならば相分かった。貴公らの献身を疑った余を許せ」
お釈迦様にそう言われた猫たちはきまりが悪く、しかし否定するわけにもいかず苦く笑ってうなづいたのでありました。
「して、一の獣はその者か」
お釈迦様のその言葉に、猫たちは瞬く間のみ顔を見合わせてそうですと高らかに肯定致します。初めから鼠などいなかった。この場によって、そのように定められたので御座います。空穂にしてみましても、よく分からないが一番になれたらしいのでまあ良いか、などとのんきな事を考えるものですから、結局そのように収められてしまいます。
そしてここからが猫の本の本領。そうこう話していると入口の方から、「ごめん下さい」という声が聞こえてきたので皆でそちらを振り向きます。次の来訪者がお見えになられたのでありましょう。丑の次に来るとなれば寅と相場が決まっておりますが、皆様方にしてみればもはやお馴染みと思われます、そう何せここは猫の本。そこには猫がいたので御座います。
凛々しい壮年の黒猫。顔立ちはやはり年配のそれなのですが、毛並みはすこぶる綺麗。産まれやら育ちやらを持ち出すとまるで嫌味のようではありますが、しかしその黒猫はその辺りの野良とは違う気品というものを持っておりました。
その黒猫は深く頭を下げてこう言います。
「手前、道々屋の鬼青ってモンなんですが、失礼でなければここに泊めちゃあ貰えませんかい。山を二つも越えたばかりで、もう肉球がカサカサになっちまいました」
どうやら偶然居合わせた猫らしいのですが、お釈迦様はその猫をみてこう仰りました。
「好きなだけ泊まっていきなさい。運が良いな、其方が二番目じゃ」
鬼青は何を言っているのか分からない顔で、「はあ、そうですかいお言葉に甘えて」とこう言います。鬼青は何の事かも分からないままに、猫の年を二番目にしてしまいました。
これで十二支の二番目は猫。猫の本に相応しいものとなりました。
いやしかし、これで終わらないのが猫の本で御座います。側添えの一匹が鬼青を客室へ案内して行った時、その場にもう一度声がかけられました。
「御免くださあい」
さてさて、これまた収まりが悪い事にまた猫で御座いました。今度は茶虎。潮の匂いのする若い猫でありました。名を浦吉と申します。浦吉は非常に整った顔と髭をしたいわゆる“美猫”でありましたが、何とも眠たそうに目をゴシゴシと擦っておりました。
「この辺りに良いお昼寝場所はありゃせんか」と、何ともフワフワした口調で尋ねます。お釈迦様はと言いますと、奥の部屋を使うようにと笑顔で応えるではありませんか。それからその後に「お前が三番目じゃ」
これには側添えたちもぎょっとしまして、「獣は一種一回ではないのですか」と声を裏返して尋ねます。何せこの場は猫の本。どうなる事かは容易に想像がつきましょう。しかし、お釈迦様はあっけらかんといたしまして、そんな事は言っていないの一点張り。
普段からお釈迦様の元には大量の猫が訪ねて参りますので、この後もそれはそれは多くの訪ね猫を招き入れます。小柄の湖平に熊と友達の金客、食いしん坊の長介に咎人を追う南元。それからようやく寅が来ましてその後はまた猫猫猫。本来であれば子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥であるところの十二支が丑猫猫猫猫猫猫寅猫猫猫卯と来たものですから大慌て。あらゆる獣から物言いが入ったわけですが、何せこの場は猫の本。お釈迦様が猫派でありましたから聞く耳を持ちません。
果たしてそんなわけでして、猫の本の十二支は何とそのうちの九匹が猫なので御座います。しかしこの場は猫の本。ある意味では、それこそが相応しいと言えるのやもしれません。