恩を返される猫
悪事を働く者もおりますれば、その逆に良き事をする者も多くおります。人を挫く事に喜ぶ者もおりますれば、人を助く事を望む者もおりましょう。
やはり、猫にしてもそれは同じで御座います。良き猫、悪しき猫。どこに目をやっても、どれ程もあるものに御座いました。
さて、此度はその様な話に御座います。
それは、間も無く日が暮れ、猫達の本領が果たされる時刻でありました。
とある社で飼われる大吉という猫が、そろそろ屋根裏を走り回ろうかと玄関先へと歩いておりました。この社は非常によく手入れされている為に屋根裏への穴などそうそうありませんが、表の梁に隠れた場所に一つだけ隙間があるので御座います。
そうして戸の前を通る際、大吉に聞き覚えのない声が外より聞こえて参ります。
「御免下さい、この屋敷の方は居られませんか」
それは、どうにも猫の声の様でありました。もしも人の来訪であったならば、大吉は気に止めなかった事でしょう。しかし、猫であるならば話を聞かなくてはならないでしょう。なにせ、猫の言葉を聞ける者はこの社にいないので御座います。
「此れなるは都の至宝と謳われる輝姫様の社である。一体何用か」
戸を開けず、大吉は声を張り上げました。猫の言葉を聞けぬ者には、愛らしくにゃあごと聞こえた事でしょう。
「とある雨上がり、この屋敷の猫に助けられた皐月と申します。御礼をさせて頂きたく参上致しました」
「ふむ、手前は大吉十郎空楽と申す。その雨上がりの恩猫とはどの様な猫であったか」
「はい、それはそれは美しい白猫で御座いました」
大吉は大変驚きました。この屋敷で白猫と申しますと、それは一匹しかおりません。
「輝姫様ではないか!」
それは、この社で最も尊き名前に御座います。大吉は主人の名前を出されました故、俄にその猫を邪険には扱えなくなりました。
大吉の一存で社内へ通し、幾らかある使っていない部屋を客室として利用致しました。
「輝姫様は多忙故、今は境内に居られない。戻られればすぐに此方へ御案内しよう」
「御心遣い感謝致します。しかし、どうか私など居ないものとして扱って下さいませ」
深々と頭を下げる皐月は、およそ猫とは思えぬほどの大人しさであります。淑やかさをその中に垣間見せる、猫特有の傲慢が見えぬのでありました。何せ、この場は猫の本。皆様既にお分かりの通り、変わり種も多いので御座います。
「勝手とは存じますが、夜中は此の戸を決して開かぬよう御願いします」
「うむ、承った。輝姫様への客猫とあれば当然の事である。他の猫達にもその様に伝えおこう」
さて、ここからが此の御話の不思議で御座います。
大吉はこの後いつもの様に少しだけ遊び、いつもの様にたっぷりと眠りました。日も高く登り、寒々とした外気を陽光がほんの僅かばかり暖める頃に目を覚ましては、そういえば昨日の皐月はどうしたのかと客室を訪ねたのであります。
「もし、皐月殿」
「大吉様、おはよう御座います」
まるで朝の挨拶ではありますが、現在既に昼下がり。しかし、猫はいつも寝ておりますので。
「こちらの寝台を、あの白猫様へと謙譲させて下さいませ」
皐月はそう言うと、昨晩までは見当たらなかったフカフカの座布団を差し出しました。大吉が見る限り、輝姫が寝るのに最適な大きさで御座います。
「きめ細やかな生地と、中綿は鶴の羽毛。これを一晩で用意したと言うのか?」
「滅相も御座いません。かねてより用意していた物を、今こうして取り出したまでに御座います」
皐月はその様に申しましたが、どうにも大吉にはそれが真実には思えませんでした。皐月は社に入る時には何も持っておりませんでしたし、隠す事ができる様な物でもありません。何せ、猫でありますから。袴を着ているわけではありませんから。
しかし、大吉はその事を口には致しませんでした。どうにも面倒に思ったのであります。これは、数少ない猫の悪いところでありました。
そんな訳ですから、しばらくの間は皐月を客間に置く事となりました。大吉は毎夜毎夜作られたらしい様々な物を皐月から受け取り、社の猫達はその座布団でとても暖かく眠る事ができたのであります。
そんな風に社の猫達全てに座布団が行き渡りました頃、社内が騒がしい日がありました。次の祭事まではあと一月以上もある、本来ならばのんびりとした日の筈であります。
「おい、呼金。この騒ぎは一体何とした?」
呼金とは、この社で放し飼いにされている猫であります。自由気ままに外へ出るので多く顔を合わせる訳ではありませんが、大吉とは古くから知った仲なのでありました。
「人間が慌ただしい事かい? どうやら野良が紛れた様だね」
「野良というと、またあいつか……」
大吉は、野良と呼ばれる猫に心当たりがありました。
度々社に潜り込み、幾らかの食べ物を盗むドラ猫であります。名前は、大吉が記憶している限り長介といいました。
「前に来た時は主人へ出す魚を盗られたな。またそんな事になれば目も当てられん」
大吉と呼金がその様に話しておりますと、俄に叫びが聞こえました。先程から聞こえる騒がしさとは全く異なる、驚愕と恐怖の入り混じる叫びであります。
続いて、羽音。バサバサと音を立てて、客間から鶴が飛び出したのでありました。
「ああ! 逃げられた!」
客間から聞こえたその声は、間違いなく長介のものに御座います。鶴の羽を身体中につけまして、部屋から飛び出して参りました。
「見つけたぞ長介!」
「うお! 大の旦那!?」
客間から飛び出した鶴を追って出てきた長介は、大吉を見て飛び上がりました。
「待ってくれよ旦那! 俺は鶴を獲ろうと思っただけで、別に社からはなあんにも盗んじゃいないよ!」
「喧しい! あ、逃げるな!」
長介を追う大吉の頭には、もう皐月の事などありません。精々が戻った後に、「はて、皐月殿は何処へ行かれたのか」と言う程度でありましょう。猫は気ままであり、多くの物事に対し一度に気を配れないのであります。
皆様であれば、皐月が何処へ行ったのか、あるいは鶴が一体何処から来たというのか、既にお分かりの事と存じます。しかし、大吉が皆様と同じ考えに思い至る事はないでしょう。何故なら、鶴は猫の獲物であります故。
その様な訳でして、皐月が戻る事はもうありませんでした。しかし、大吉がそれを気にする事もないのでありました。




