悩み相談
──その日の夜、城下町の我が家にて。
人間に戻った私は、白いネグリジェ姿でベッドに仰向けになっていた。
右手にある窓からは、月明かりが差し込んでいる。でも部屋の中は薄暗くて、天井がぼんやりとしか見えない。
私は毛布を首元まで被り、目をつぶった。うさぎになった日は、だいたい疲れてすぐ寝てしまうのに、今日はちっとも寝つけない。
あれからずっと、ジェイドのことが頭をぐるぐる回っている。夜に輝く月みたいな銀色の瞳。おでこを撫でる優しい指先。私を呼ぶ低い声。全部が好きでたまらない。
無理だって解ってるのにこんな気持ちになるなんて、馬鹿みたい。
初恋と今。たぶん異性を好きになったのは、人生で二回目だ。そしてこんなに辛い想いをしたのは、初めてな気がする。
どうすればジェイドのこと、忘れられる?
私は胸が苦しくなってきて、重い身体を横たえた。
ふとラベンダーの香りがしてまぶたを開くと、いつの間にかベッドの左側に師匠が居た。彼女は薄紫のネグリジェを身につけ、机に向かって何やら書き物をしている。燭台の光に照らし出された横顔はミステリアスで、いつになく真剣だ。
そうだ。ラズリ様に相談したらどうだろう?
彼女は経験豊富そうだし、何かいいアドバイスをくれるかもしれない。私は邪魔して悪いかなと思いながら、遠慮がちに師匠へ話しかけた。
「あの、ラズリ様」
「あら、ヒスイ。まだ起きてたの?」
「はい。ちょっと話してもいいですか?」
「いいわよ。何?」
師匠はペンを机に置き、微笑みをたたえて私の方を向いた。
「王子のことなんですけど」
「ああ。今日もお疲れ様だったわね。ヒスイのおかげで色んな事実が見えてきたわよ」
「何か手がかりを掴んだんですか?」
正直、今はそのことを聞きたいわけじゃなかったけど、せっかくなので尋ねてみる。師匠は腕を組み、紫の瞳を曇らせた。
「王子と噂があった令嬢たちの診療録を調べたんだけどね。怪我した子は、重傷。病気の子も、かなり悪い病に侵されていたの」
「そうなんですか……。女の子たちは怪しい奴を見てなかったんですか?」
「ええ。それらしき人物は誰も。怪我をした令嬢たちに関しては、偶然倒れてきた家具や木の下敷きになったそうよ」
事故の状況を想像してしまい、私はぞっとして顔をしかめた。
「酷いですね。でも犯人はどうやって彼女たちに危害を加えたんでしょう?」
「令嬢たちの問診内容を見返してたら、共通する点が一つあったの。彼女たちは皆、贈り主不明のアクセサリーを身に付けていた際、不幸な目に遭ったらしいの」
「贈り主が分からないのに、身に付けたんですか?」
「そうよ。それらは皆、王子の名前で届けられていた。けど彼は、これまで一度も女性にアクセサリーを贈ったことがないそうよ」
「じゃあ、その贈り物に何か仕掛けがあったってことですか?」
「ええ。わたくしが思うに、この事件は魔術が関わっている可能性が高い」
「魔術ですか?」
「そう。魔術の中には悪いものもあるからね。遠くの人に危害を加えることは出来ないけど、物を通して魔術をかけることは出来るの。恐らく令嬢に贈られた品には、【災厄呼び】という高等魔術がかかっていたのよ。そしてそれが使える人物を、わたくしは知っている」
「誰なんですか、それは?」
問いかけると、師匠は眉をひそめ苦々しく言った。
「ヌーマイトよ。ヒスイが前に森で会った男。わたくしの兄弟子でもあるわ」
「あのうさぎになる薬を作ってた人ですか?」
「ええ。昔、わたくしとヌーマイトは同じ師から魔術を教わり、共に技術を競い合っていた。でも師が亡くなってから、彼は突然、行方をくらましたの」
「ラズリ様は、どうしてその人がやったと思うんですか?」
「ヌーマイトは魔術師の風上にも置けない奴でね。天から授かった崇高な力を、金儲けの道具だと思ってた。──ここ数年、エルージュや隣国プレシアで未解決の事件が多発していてね、わたくしはあの男が裏で糸を引いてるんじゃないかと踏んでいるの」
「じゃあ令嬢の事件も?」
「ええ、そうよ。誰かがヌーマイトに頼んで、令嬢を陥れた。王子に近しい人間が依頼したに違いないわ。どうにか犯人に尻尾を出させなきゃいけないわね。彼の悩みと結婚問題を解決するためにも」
「そう、ですね」
不意にズキンと胸がうずき、思わず身を固くする。事件に直接関係がなかったので、王子が叶わぬ想いを秘めていることを、師匠には話していない。むしろ言いたくなんてなかった。
もしこの事件が解決したとしても、ジェイドは王女への想いを貫き、生涯独り身を通すだろう。その純粋さと一途さが、切なくてやるせなかった。
「ラズリ様。一つ聞いてもいいですか?」
「ん?どうしたの、そんなしょんぼりしちゃって?」
「もしもの話ですけど……。好きになった人が、自分とは違う人をものすごく好きだった場合、ラズリ様ならどうしますか?」
涙が出そうになるのを我慢して、彼女を見上げた。この気持ちとどう向き合えばいいか、教えてほしい。
すると師匠は横髪を掻き上げ、豊かな胸をつんと反らした。
「そんな状況にはならないわよ。わたくしを愛さぬ殿方なんて、この世に居ないから」
迷いなく宣言され、がくっと脱力した。羨ましいほどの自信だ。……残念ながら何の参考にもならないけど。
「ああそうですか。聞く人を間違えました」
もはや突っ込む気も起こらなくて、私は投げやりに返す。ため息をついてうつ伏せになると、師匠は明るく話を続けた。
「まあでも、一般的に言えば、無理と分かった時点で諦めるんじゃない?」
「ですよね」
「けど、そうだとして、ヒスイはどうしたいの?」
「えっ!?誰も私のことだなんて言ってませんよ!?」
心の声、漏れてた!?と、慌てて師匠の顔を見れば、彼女は見透かしたような目をして、私を覗き込んだ。
「じゃあ誰のことを言ってるの?」
「う。えっと、それは……」
言葉に詰まり、毛布で口元を隠す。私の本心は完全にバレてしまっているようだ。
師匠はベッドに腰掛け、優しい目付きでこっちを見下ろした。
「ねぇヒスイ。人の心っていうのはね、そう簡単に変えられないの。例え魔術を使っても、それは難しいことなのよ。だからね、好きだって気持ちを、無理に忘れようとしなくていいと思う。今は辛いかもしれないけど、時間はきっと痛みを和らげ、美しい思い出に変えてくれるわ」
師匠は小さい子をあやすみたいに、頭をよしよしした。穏やかに語りかける声が胸に染みて、視界がじわりと潤む。
ぽた、ぽたと、耐えきれず落ちた涙が、シーツをゆっくりと濡らしていった。
「……ラズリ様って、案外、まともなこと言うんですね」
しばらくしてから私は鼻をすすり、わざと皮肉っぽく呟いた。泣いてしまった恥ずかしさを隠すためだ。
「まあ、失礼ねぇ。わたくしはいつだって、まともよ」
「どこがですか!まともな部分なんて見たことありませんよ」
遠慮なく言い放つと、師匠はおかしいわねぇと心底不思議そうに首をかしげた。この人、本気で分かっていないんだなと、呆れ笑いが込み上げる。心なしかちょっとだけ、元気が湧いてきた。
忘れなくていい、か。
そうだよね。すぐに気持ちを切り替えるなんて難しいもの。ごまかしたっていいことないわ。
真っ直ぐ進めば、必ず光は見えてくる。
私はジェイドのことが好き。その想いに嘘はつきたくない。
だからこのまま突き進んでみよう。例え想いが届かなくても、ジェイドには心から笑顔で居てほしいから。
思い立った私は、「よぉしっ!」という掛け声と共に、ベッドから勢いよく起き上がる。そして驚いた様子の師匠へ力強く言った。
「ラズリ様。私、ジェイドの力になりたいです。あの人を苦しめる奴を取っ捕まえたい」
「あら。何だかやる気になったみたいね。じゃあ、わたくしの作戦に乗ってみる?」
「どうするんですか?」
「それはまだ、ひ・み・つ」
師匠が人差し指を立ててウインクした。何だろう。寒気がする。
「悪い予感しかしないんですけど」
「そう?わたくしは楽しみよ」
「でしょうね」
「それで、どうするの?ちょっと危険だけど、やりたい?」
真面目に尋ねてくる師匠に、私はハッキリ告げた。
「もちろん。それでジェイドを助けられるなら」
「あらあら。ヒスイったら、すっかり恋する乙女ねぇ。わたくしキュンキュンしちゃった」
「もう!茶化さないでくださいよ!」
「ふふふ。可愛い弟子だこと。なら準備を進めておくわ。王子を助けてあげましょう。ついでにヒスイのことも」
「ついでって何ですか、ついでって!」
師匠はにっこり笑い、私の左肩をぽんと叩いた。
「あなたが無くした大事な物、もしかしたら取り戻せるかもしれないわよ?」