噂話と誤解
──それから二週間の時が過ぎた。
夕方、私はカーネリアンの働く食堂へ向かっていた。ギルドの並ぶ城下町の大通りは、行き交う人たちでまだ賑わっている。その見慣れた光景に力が抜けて、ため息が漏れた。
今日も大変だったわ……。
こんなに気疲れしたのはジェイドのせいだ。
あれから私は週二回、師匠によって彼の所へ連れて行かれるようになった。もちろん人間じゃなく、うさぎの姿でだ。そして今日の昼も、ジェイドと数時間ほど一緒に過ごした。
ジェイドは私を無理やり捕まえるでもなく、時々「お腹はすいてないか?」と言って野菜の葉っぱを差し出したり、「部屋の中だったら好きに走り回っていいからな」と笑って自由にさせてくれる。
幸いジェイドの部屋は広く、美しい絵画やたくさんの本、珍しい仕掛けの道具など、見る物が多く退屈はしない。
でも私を追うジェイドの眼差しがやたらと甘くて、変に緊張して。絶えずドキドキしてしまうのである。
ああもう!私ったら何でこんなに翻弄されてるの!
腹が立っているせいか、頬が熱くなってくる。「ヒスイ」と穏やかに呼ぶ彼の声が耳に残っていて、私は頭をぶんぶん横に振った。ジェイドのことを考えたくなくて、意味もなく石畳の街道をダッシュする。
たぶんいつもの半分の時間で食堂に来られた。
ドアを開けると、中はがらんとしている。夕食の時間帯よりもだいぶ早く来たので、客は一人。私のみだ。
店の奥手にあるカウンターのど真ん中に、私は座る。
すると店内の机を拭いていたカーネリアンが、私に気付いて笑顔で駆け寄ってきた。
「いらっしゃい、ヒスイ!どうしたの、こんな早くに」
「うん。実はね、カーネリアンに聞きたいことがあって来たの」
「何よ、改まっちゃって。相談事?」
「そうじゃないんだけど……。おじさんとおばさんは?」
「父さんと母さんは今、台所で料理の仕込み中。でもこっちに来ないよう、釘刺してくるね!」
カーネリアンはふきんを片手に、いったん台所へ引っ込んでから、すぐに私のところへ舞い戻ってきた。
「で、何?聞きたいことって」
彼女は正面に座り、真面目な顔をする。私の話を真剣に聞こうとしてくれるのが伝わってきて、思わず笑みがこぼれた。
「あのさ、ジェイドのことなんだけど」
「へ?氷王子?あいつがどうかしたの?」
カーネリアンはきょとりとして首をかしげる。私の口からジェイドの話題が出るのは意外だったようだ。
私は歯切れ悪く言った。
「えっとね、あいつに関する噂とか、知ってる話があったら教えてほしいの」
「何だ、そんなこと!お安いご用よ!でも、どうして王子のことが知りたいの?」
「別に。ラズリ様に頼まれただけよ。あいつのこと聞いてこいって言われたの。情報通のカーネリアンなら、色々知ってるかもしれないって」
「けどヒスイ、前に氷王子のこと大嫌いって言ってたじゃない。ラズリ様に断らなかったの?」
「うん。言ってもあの人には無駄だし!それに私も気になることがあったから」
そう。最初こそ半信半疑だったが、ジェイドはやはり不調を抱えているようだった。それを裏付ける物も、この前彼の部屋で見つけた。師匠が調合した、強めの『頭痛薬』だ。
どうもベラクルスに頼んで、内緒で持ってきてもらったらしい。(この前の黒い包みがそれだ)そして行く度に薬瓶の中身が少しずつ減っている。
私はジェイドの頭痛の原因は、悩み事のせいなんじゃないかと考えていた。
時折見せる淋しげな顔や、ぼんやり遠くを眺める銀色の瞳。私はそれに気付くたび、何度も心がぎゅうっと締め付けられた。
心配なんかしてやる筋合いないのに、どうしてこんなに胸へ引っ掛かるんだろう?
私は自分の感情がよく分からず、無言のままカウンターに視線をやった。しばらく沈黙の時が流れる。
「ふうううん。気になることねぇ」
ハッとしてカーネリアンを見ると、彼女は両手で頬杖をつき、いやーな笑みを浮かべていた。何その顔、ムカつくんですけど。
「ヒスイさぁ、もしかして氷王子のこと、好きになっちゃったんじゃないの?」
「はいぃ!?そんなわけないじゃん!冗談よしてよ!」
「あれー?顔赤いよ?もしかして図星なの?」
「違うわよ!あんな奴が好きとか、どう転んでもないから!まじでやめて!!」
「そんなに慌てちゃってー!ますます怪しいわねぇ!」
カーネリアンは疑るように目を細めている。おちょくっているのが丸わかりだ。
私は大きな咳払いをして、彼女を睨んだ。
「そんなことより、どうなのよ?カーネリアンはあいつのこと、何か知ってるの?知ってるなら私に言いなさい!今すぐに!!」
「きゃっ、怖い!ヒスイ様の尋問が始まったわ!愛しの王子様のこと、何でもお話しますから、どうぞお許しくださいませー!」
「…………カーネリアン?」
いい加減にしようね?
眉をひそめ低音をこれでもかと響かせれば、彼女はさすがにまずいと思ったらしく、瞬時にお茶目な表情を作った。
「おっと、ごめんごめん!そうカッカしないでよー!知ってること全部話してあげるからさ!」
「ほんとに?」
「うん!あたしの解る範囲で良ければね!何でも聞いてちょうだい!」
じゃあ初めからすんなり教えてよ!疲れてるんだから!
私は喉奥で文句を言ってから、怖い顔を引っ込めた。
「……ジェイドって、昔から態度が悪かったの?」
「ううん、違うけど。そっか。ヒスイはこの町の生まれじゃないから、王子のことあんまり知らないんだね」
「そうそう。これまで王族なんか興味もなかったし。あいつに会ったのもこの前が初めてだったから。……あ、やばい。思い出したらイライラしてきた」
「あはは!氷王子、強烈なキャラだよねー。けど小さい時はあんな風じゃなかったらしいよ。普通に人当たりも良くて、女子たちの間で人気があったみたい」
「じゃあ、いつからあいつは氷王子って呼ばれるようになったの?」
「うーん。悪い噂をちらほら聞くようになったのはだいぶ昔だよ。四年くらい前かなぁ」
「そっか。そのへんの時期が怪しいわね」
独り言を呟いて、ジェイドと過ごした数日間を思い返してみる。彼は常に紳士的で、うさぎの私には別人のように優しく接してくれた。
もしあれが本来の彼の姿だったとしたら、女子たちに冷たい言葉を浴びせるのには、何かのっぴきならない理由があるに違いない。
過去に女性嫌いになるような事件でもあったのだろうか?
それとも単なる、モフモフ好きなのか?
私は腕を組み、知らぬ間にじっと考え込んでいた。
「どうヒスイ?何か分かった?」
突然、耳元に吐息をかけられ、ぞくっとした私は「おわぁ!」と色気のない声で叫び、椅子ごとひっくり返りそうになった。
「ら、ラズリ様!いつの間に!!」
振り向くと、うっとりするほどの美女が立っている。何やらご機嫌な様子だ。
「ふふふ。さすがヒスイ。予想通りのいいリアクションね。気配を消して来た甲斐があったわ」
いや、そんなことする必要なかったでしょう!この人、私をからかって楽しんでるわね!?
私が目を三角にしていると、カーネリアンが立ち上がって師匠に明るく言った。
「ラズリ様、いらっしゃい!今、氷王子のことをヒスイに話してたんですよ!何かお城から依頼があったんですか?」
「ええ、まあね。協力助かるわ。ありがとう、カーネリアン」
師匠はにっこりして会釈する。カーネリアンは頬を真っ赤にして固まった。どうやら彼女の美貌に魅せられてしまったようだ。
師匠はゆるりと私の左隣に腰かけ、小声で話し出した。
「ヒスイが王子と居る間、こっちは城の者や貴族たちに話を聞いて回ったんだけどね。少し妙なことが分かったの」
「妙なこと?」
「ええ。王子と関わりのあった貴族のご令嬢たちが、ここ数年、立て続けに不幸な事故にあったり病気になったりしてるそうなのよ」
「何それ怖い。そんな偶然があるんですね」
「いえ。偶然じゃないかもしれないわ」
「どういうことですか?」
「誰かが王子の結婚を邪魔している可能性があるってこと」
「そんな。結婚を邪魔して何の得があるんでしょう?」
「さあね。もしかすると、ジェイドに恨みを持つ者か、彼の代わりに王位を狙う者の仕業かもしれない。国王の長子である彼が、結婚せず跡目を継がなければ、他の子たちにもチャンスが巡ってくるから」
「ふむふむ。お偉いさん方の骨肉の争いですか。やばそうな臭いがプンプンしますねぇ」
いつからか正気を取り戻していたカーネリアンが、楽しげに話へ入ってくる。彼女はこういう黒い噂話が大好物なのだ。
師匠は困り顔をし、私に問いかけた。
「ねぇ、ヒスイ。王子からもっと話を聞き出してくれない?情報がほしいの。会話する手は考えてあるから」
「ええっ!どうして私が?」
「だってあの子、わたくしに全然話をしてくれないもの」
「私だって無理ですよ!魔術で何とかしてください!」
「人の内側に魔術で踏み込むのはダメよ。心が壊れてしまうから。でもヒスイのあの姿なら可能でしょう?」
「えー。どうでしょうか」
「王子、言ってたらしいわよ?『あれと過ごすのも悪くない。また連れて来てくれてもいい』って。彼はあなたに心を開こうとしてるのよ。だからね?お願い」
「勘弁してくださいよ……」
美男子に長時間見つめられる私の身にもなってちょうだい。すごく疲れるんだから。
「ねぇねぇ、ラズリ様!『あの姿』って何です?ヒスイはどんな仕事をしてるんですか?」
私の気も知らず、カーネリアンが無邪気に尋ねてくる。師匠は人差し指を立てて口元へ持っていき、艶っぽく返した。
「それは秘密なの。ごめんなさいね、カーネリアン。医者は患者に対して、守秘義務があるから」
「えー!気になりますよぉ!ヒスイ!あたしにも詳しく教えて!」
「やだ!絶っ対に教えない!!」
言ったら百パーセント面白がるもの!これ以上からかわれるのはごめんだわ!
唇を固く閉じ、だんまりを決め込むと、横から師匠がさらりと説明した。
「まあ、ざっくり言うと、ヒスイは王子の『癒し要員』ってところね」
「そうなんですか!すごいじゃない!あの王子に気に入られるなんて!」
カーネリアンはガッと私の両手を握り、強く励ました。
「頑張ってね、ヒスイ!あんたの元気と可愛さで、大好きな王子の凍てついたハートを溶かすのよ!!」
「待って!私そんなの目指してないから!!ていうか大好きじゃないからーーー!!!」
心からの叫びが虚しく食堂にこだまする。カーネリアンに誤解され、師匠にまた面倒事を押し付けられて、私の疲労感はさらに倍増したのだった。