決死の脱出作戦
まずい。トイレに行きたいかも……!
さっき川で水を飲み過ぎたらしい。お腹がむずむずしている。
人として(今はうさぎだけど)こんな場所で用を足せないわ!何とかしなきゃ!
切羽詰まった私の状態など知るよしもないジェイドは、こっちを見ながら「本当に愛らしいな」などと笑顔で呟いている。
「そんなことより、ここから出して!!」
格子を前足で掴み叫んでみるが、無視された。私は何で話を聞いてくれないの!と後ろ足で地団駄を踏む。しかしよく考えたら、私はうさぎだ。彼に言葉が通じるはずなかった。
こうなったら、自力で脱出するしかない!方法を考えないと!
私はキョロキョロと辺りを見回した。檻の出入口が左手に一ヶ所だけある。前足で格子を持ち上げるのは容易いので、そこからは出られるだろう。
問題は部屋のドアだ。ジェイドの真向かいにあるそれは、はるか遠くの場所にあり、高い位置にドアノブがついている。あれを握らないとここから出られない。うさぎの私にいくらジャンプ力があっても、床から跳ねて掴むのには無理がありそうだ。やれるとしたら、この檻が載っている台からソファーを伝って、ドアノブまで飛ぶくらいだろう。
怖いけど……迷ってる暇ないよね?
覚悟を決め檻の出入口を見つめれば、部屋のドアがノックされた。
誰だろう?
「ジェイド殿下。わたくしです。ご所望の品をお持ちしました」
「入れ」
野太い声が響くと、ジェイドは緩みまくった頬を引き締めた。ドアを開けて入ってきたのは、エルージュ王国の大臣──ベラクルス(たぶん四十代後半)だ。
角ばった顔に短く刈られた茶髪。雄々しい太眉と口ひげを持っている。彼は上下灰色のスーツに身を包み、ごつい身体を揺らして一礼した。脱出するチャンス到来か?と思ったが、ドアは大臣にすぐ閉められてしまった。
開けといてよ、おじさん……。
がっくりする私をよそに、二人は気安く話し始めた。
「ベラクルス。ご苦労だった」
「ジェイド殿下。何故このような物が必要なのですか?」
小さな黒い包みを王子の目の前に置き、ベラクルスは尋ねた。ジェイドは横に立つ彼を見上げた。
「お前には関係のないことだ。気にするな」
「さようでございますか。ではこれ以上の詮索はいたしませんが。因みに何故うさぎがここに?」
「狩りの最中に見つけたのだ。緑の瞳を持つ珍しい品種なのでな。ここで愛玩用に飼おうと思うのだ」
「そんな食用の獣に心奪われるとは嘆かわしい。それより、どなたかご令嬢との縁談を進められたらいかがですか?陛下やお妃様が心配されておりますよ?そろそろ本気で身を固めることをお考えになってください」
「口を慎め!余計なお世話だ!縁談など不要!私に女性を近付けるな!父上と母上にもそう伝えろ!」
「そのようなこと!わたくしが怒られてしまいます!」
睨み合う二人。ジェイドはベラクルスから視線を外し、申し訳なさそうに告げた。
「悪いが、私は誰とも添い遂げるつもりはないのだ。諦めてくれ」
「殿下……」
何か知らないけど、揉めてるわね!今のうちだわ!
じわじわとお腹が痛くなってきた。限界が近い。私は音を立てないよう格子を持ち上げ、空いた隙間からしゅるりと抜け出た。
ドアノブまでの距離はずいぶんある。私は台からソファーへ渡り、助走をつけドアノブに手をかけようと思い切り跳ねる。
「えーーーーーい!」
スローモーションで近付くドアノブ。けれどあと少しのところで届かない。私はあえなくドアの真ん前に落下した。無事に着地出来たのは、ひとえに私の身体能力が高いからだろう。
嘘でしょ……あとちょっとだったのに!早くしないと間に合わなくなっちゃう!
どうにかドアノブを掴もうとぴょんぴょんしていたら、ベラクルスの「おや?うさぎが脱走しておりますよ!」という声が聞こえた。
それからバタバタと足音がして、すらっとした人影が私の上に落ちてきた。
「お前、どうやって檻から出たのだ?」
う!ジェイドに見つかった!美顔が迫ってくる!危険だわ!
私はドアに体当たりしたり、前足でカリカリと引っ掻いたりした。悲しいけど、びくともしない。
「もしかして、森に帰りたいのか?」
「そうじゃなくて、トイレに行きたいのよ!」
すぐさま言い返し、無駄と分かりつつもドアを攻撃し続けた。ジェイドは納得したように言った。
「……そうか。仕方ないな。だったらもう一度、森まで連れていってやろう」
彼はドアノブを回し、扉を開いた。こちらを見下ろす銀色の瞳が、酷く淋しげに細められる。ジェイドの大きな手が私に差しのべられて──
「トイレええええ!どこにあるの!?」
私は王子の腕をすり抜け、一目散に部屋の外へ駆けていった。それから気が遠くなるくらい長い廊下を走る。従者たちがうさぎだ!と騒いでいたがどうでもいい。私はやっとのことでトイレを見つけ、用を足した。
「はぁ、はぁ、はぁ……。危なかったわ」
大仕事をやり遂げた感がある。間に合ってほんとに良かった。私の人としての尊厳は無事に守られたのだ。
トイレから廊下にこっそり出る。従者たちは働いているが、人気は少ない。このまま師匠のところまで帰ったらどうだろうか。
ラズリ様は、ああ見えてすごい魔術が使えるらしいから、きっと私を元に戻してくれるはず。
さっきのジェイドの様子が、ほんの少し気になったが、私は城を出ると決めた。
「あら?もしかしてあなた、ヒスイなの?」
驚きを含んだ色っぽい声が聞こえて、遠くを見つめた。そこには紫のワンピース姿の美女が立って居た。
「ラズリ様!!」
私は思わず全速力で駆けていく。師匠はかがんで私を優しく受け止め、抱き上げた。柔らかく温かい感触に安心して、涙が出てきた。師匠は私のふわふわの頭をなでて笑った。
「よしよし、可哀想に。そんな姿になっちゃって、さぞ怖かったでしょう?うちへ帰るわよ。事情は後で聞くわ」
──こうして、私は師匠に連れられ家に帰ってきた。
そして彼女の魔術で人間の姿に戻してもらった。ようやく緊張の解けた私は、カーキ色のチュニックを着て、部屋の窓際にある椅子に座った。目の前の食卓にはティーポットとハーブティーの入ったカップが二つ置いてある。立ち込める湯気と胸のすくようないい香りが、私をほっこり和ませた。
師匠は向かいに座り、美しい所作でハーブティーに口をつけている。真似して優雅に飲もうとしたら、熱くて火傷してしまった。私は飲むのを後回しにし、今日あった出来事を猛スピードで説明して聞かせた。
「ふぅん、そうだったの。リボンにかけた【人探し】の魔術のおかげで居場所が分かったから良かったけど、色々大変だったのねぇ」
「ラズリ様、他人事ですね……。ほんと、死ぬかと思ったんですから!」
「くすくす。ごめんなさいねぇ。まさか狼に追いかけられて迷子になるなんて、思ってもいなかったから」
「笑い事じゃありませんよ!お腹はすくは、食材にされかけるは、散々だったんですから!二度と一人で薬草なんか取りに行きませんからね!」
「まぁまぁ。そう怒らないの。可愛い顔が台無しよ?」
「っ!そ、そんな褒めたって、無駄ですからね!絶対行きませんからね!」
「はいはい。分かったわ。ほら、ハーブティーもそろそろ冷めたわよ。飲んで落ち着いて。ね?」
ラズリは諭すように言って甘い笑みを浮かべている。絶対、分かってないでしょ!と内心反論するも、赤くなった私はハーブティーを一気に飲みほした。
「それにしても、ヒスイが森で会った男。気になるわね」
「悪人面の男ですか?どうしてです?」
「恐らくヒスイがうさぎになったのは、その薬草が原因よ。特別な調合をしたのち魔術をかければ、姿を変える効能を持つ薬になるの。だけど一体何の目的で、うさぎになる薬を作っていたのか」
「ラズリ様、その男に心当たりがあるんですか?」
「ええ、まあね」
師匠はハーブティーに視線を移し、重く言葉を落とした。
「ヌーマイト……。あの男は何を企んでいるのかしら?」
彼女が深刻そうな顔をするのは珍しい。私は言い様のない不安にかられた。
魔術を使う、恐ろしい目をした男。彼は一体何者なんだろう?
師匠はしばらく黙っていたが、やがてこちらに優しい笑顔をよこした。
「それにしても、良かったわね。王子が助けてくれて」
「ええ、まあ。食べられずには済みましたからね」
「王子、どんな様子だった?」
「え?別に普通でしたけど。しいて言うなら、毒は吐きませんでしたね」
相手がうさぎだからか、この前と雰囲気が違っていた。それに、ちょっと淋しそうな顔をしていたような……?
私は宙を見ながら、考え込んだ。頭にジェイドの切ない瞳が浮かんでいる。
あの時の氷王子は何を思っていたのだろう?
「ねぇヒスイ。あなた、彼のことが気になるの?」
ふいに師匠が探るような目付きで尋ねてくる。私は手のひらをブンブン横に振って否定した。
「は!?そんなわけないじゃないですか!あんな奴のことなんか、どうでもいいです!」
「ふふふ。嘘はだめよ。ヒスイはすぐ顔に出ちゃうんだから」
「う」
「王子ね、何かとっても悩んでるみたいよ?最近、体調が優れないんですって。この前大臣のベラクルスから、診察に来てほしいって連絡があったの」
悩んでる?あれだけ言いたい放題言ってたら、スッキリするでしょうに。どの口がそんなことを抜かすのか。私はじと目をした。
「そうだわ!良いこと考えた!」
急に師匠が手をパンと打って、瞳を輝かせている。また、ろくでもないことになりそうな気がして、私はその場を静かに離れようとした。けど彼女は私の手を素早く握り、有無を言わせぬ極上の笑みを浴びせてきた。
「動物療法よ!ヒスイも協力して!」