師匠のお願い
──三日後の朝。
ぽかぽか陽気に包まれながら、私は城下町の外れにある一軒家の庭で、洗濯物を干していた。二本の木に張ったロープへ、下着やタオルなどを引っかけていく。今日はあったかいから、洗濯物がすぐ乾きそうだ。
私はここに師匠と二人で住んでおり、家事全般は弟子である私がいつもやっている。
八年前から一緒に暮らしている私の師匠──ラズリ様は『誰よりも賢く美しい女性』と国中で評判だ。
彼女の主な仕事は【魔術医】。その名の通り、魔術を駆使する医者である。
ラズリ様のような存在はまれであり、普通、ほとんどの人は魔術を使えない。居たとして、せいぜいかまどに火をつけるとか、ちょっと飲み水を出すくらいだ。
その点、ラズリ様は儀式による高度な魔術で新薬を作ったり、ケガや恐ろしい伝染病を治したりしている。(他にも色々な魔術を使えるらしいけど、隠してるみたい)
私はというと、魔術を使いこなす才能は皆無なので、いつか一人立ち出来るよう薬草の種類を勉強したり、調合の仕方などを教わったりしている。
そういえば師匠は昔、王室お抱えの魔術医として城に住んでいたって、カーネリアンから聞いたことがあったっけ。
何で今は町に居るのだろう。
「きっと魔術が使える人たちの争いとか、王族たちの陰謀に巻き込まれたとか、深い理由があったに違いないわ」
城下町の図書館で読んだ物語に影響されて、私は勝手にそんなことを想像していた。
洗濯物のしわをぴんと伸ばしながら、窓越しに師匠を見る。彼女は室内で椅子に座り、黄緑色のジュースをごくごく飲んでいた。
背中まであるウエーブのかかった黒髪と、長いまつげに守られた紫の瞳。柔らかそうなピンクの唇。着ている紫の細身のワンピースは胸元が開いており、身体のラインが出るのでそのスタイルの良さが際立って見える。
すべすべの白い首筋とシミ一つないデコルテ、女性を象徴する大きな膨らみ…………うん、つい見いっちゃった。今日も無駄に色っぽい。
師匠は年齢不詳で、巷では不老不死の術を使って若さを保っているのではないかなんて噂される。
実際、当たらずとも遠からずといったところだ。
師匠は美容のために、ああやって何種類もの薬草が混ざったジュースを毎朝飲んでいる。
昔、興味が湧いて一口だけ味見をしたが、あれは飲めたものじゃない。青臭くどろどろしていて、舌に苦味が何時間も残るような激マズの品だ。あんなのを飲まなきゃ綺麗になれないんだったら、私はごく一般的な容姿でいいと思う。
「ねぇ、ヒスイ。それが終わったら、お願いがあるの」
色気のある甘え声がして、私はどきりとした。いつの間にか窓から師匠が顔を覗かせ、頬杖をついてこちらに注目している。彼女がああいう声を出す時は、だいたい面倒ごとを押し付けられることが多い。私はそこはかとなく嫌な予感がしたが、そろりと師匠へ近づいた。
「何ですか、ラズリ様?」
「森に薬草を摘みに行ってくれない?ストックがもう無いのよ」
「そんなの、ご自分で取りに行ったらいいじゃないですか」
「うぅん。ちょっと、めんど……じゃなくて、仕事もあるし大変なのよ」
今、面倒くさいって言いかけたわね!?
「嫌です。私だって部屋の掃除もしたいですし、買い物だって行かなきゃいけません」
「そこを何とか。あなた腕っぷしは強いし、獣もイチコロで倒せるでしょ?だからね、ヒスイちゃん。お・ね・が・い」
うっ!キラッキラの瞳に見つめられている!上目遣いが眩しい!そんな困り顔するなんて卑怯だわ、師匠!!
「……はぁ。仕方ないですね。分かりましたよ」
赤くなった私はため息を吐いてむくれた。師匠はお願い攻撃を止め、にっこり笑って私の手を取った。
「ふふっ!ありがとう!やっぱりヒスイは頼りになるわね!これ、お守りよ。付けていって」
調子のいいことを言って、彼女は私の右手首に赤いリボンを巻いた。お守りって……魔術でもかかってるのかしら?
──こうして私は城下町に隣接している森に行く羽目になってしまった。美しいもの(わがまま師匠)には勝てないと思い知らされる。何だかとても悔しくなった。美人って、ほんとに得よね。
で、護身用の杖を持ち、袋を背負って森に来たんだけど──
「さっそく狼に会っちゃったじゃないの!」
しかも結構な距離を追いかけられて、迷子になった。もう何時間も深い森を歩いてる。
大昔、勇者が邪神を倒したおかげで魔物は居なくなったからいいものの、そうじゃなかったら私、とっくにここで死んでるわ……。
薄暗く静かな森を、一人、とぼとぼ歩く。少し寒いのはお腹がペコペコなせいだろうか。
師匠の言うことなんか聞くんじゃなかった。このまま帰れなかったら、どうしよう。
不安が胸に広がる。足がだるくなってきて、身体も重い。疲労と心細さでどんどん弱気になってきた頃、私の鼻がぴくりと反応した。
「ん?何だろう?とってもいい匂いがする!」
私は嗅覚を研ぎ澄ませ、その匂いをたどって歩いた。
しばらく行くと小さな古びた一軒家を見つける。壁につたがぐるぐる巻いていて、遠目からだと全然解らなかった。家の近くに薪や斧が転がっている。切り口が新しいところを見ると、最近割られたもののようだ。
助かった!人がここに住んでるんだ!
「こんにちはー!誰か居ませんかー?」
ドアの前で明るく呼ぶも、返事がない。留守かしら。
何気なくドアノブを回すと、鍵が開いている。私は家主を探して部屋に入った。
中には、ベッド、かまど、本棚、机がところ狭しと置かれている。かまどには黒い鉄鍋がかけられており、トロリとした白いスープが完成していた。ミルクとキノコ、玉ねぎの匂いと湯気が漂っている。
それを見つけたとたん、ぐうううううっと腹の虫が暴れた。ぽかんと開いた口からよだれが溢れる。私はごくりと唾を飲み込んだ。
ちょっとだけ……いいよね?
私は我慢出来ずに杖を放り、机に置いてあった木の器を掴んでスープをよそった。早く食べたい!という衝動を抑えながら、椅子に腰掛け、ふうふう冷ましてスプーンですくう。ぱくりと口に入れれば、目が線になってだらしなく下がった。
「んーーー!あったかい!身体に染み渡る!」
私は感動し、ジタバタと手足を動かした。
スープはなめらかな食感だ。キノコと玉ねぎは細かく刻まれており、あまり存在を主張していない。ただそれらの匂いはきちんとあり、鼻を抜けるたびにうっとりした。甘いミルクと玉ねぎ、キノコの風味が口の中いっぱいに広がる。
「美味しい~!幸せ~~!!」
私は緩みきった顔でスープにがっついた。上品さのかけらもないけど、誰も見ていないのだから気にしない。
そうだ!香草を足しても美味しいかも!
ふと思い付いた私は、図々しくも机に置いてあった調味料らしき小瓶の中身を、器のスープに振りかけた。そしてわくわくした心持ちで飲んでみた。
……あれ?風味が変わらないわ。
これ、香草じゃなかったのか。まあ、まずくなってないからいいけど!
たいして気にもせず、私はスープをペロリと平らげた。
すっかり満足した私は、家主にお礼が言いたくて、部屋の外に探しに出かけた。
杖を手に数メートル歩くと、草を分ける音がする。
獣?それとも人?
私は木陰に隠れ、様子をうかがった。
やって来たのは、長身の男(たぶん六十才くらい)。黒いマント姿で、耳まである波打った灰色の髪と、つり上がった目を持っている。
手には狩ってきたばかりであろう獣と、血濡れの短剣が握られていた。
危険なオーラを感じる。私はとっさに声をかけてはいけないと思った。
あれ絶対、悪人だ!逃げよう!
私は彼が家に入るのを見計らって一目散に駆けた。かなりの距離を走ったような気がする。途中、小川があるのが見えて、私はカラカラになった喉を潤そうと、立ち寄った。
その場にしゃがみ、両手で透明の水をすくって口に運ぶ。美味しくて、ついがぶ飲みしてしまった。
「あー怖かった!良かった、捕まらなくて!」
スープを勝手に飲んだことは、あの男にすぐばれるだろう。見つかったら何をされるか分からない。早く森から出なくては。
一息つき、そこまで考えて、あることに気付いた。
あれ?この川、さっきより大きくなってない?
ふと水面を眺めると、可愛らしいうさぎの顔が映っている。薄茶色の毛と、緑色の瞳、ぴんと立った長い耳。
私は辺りを見渡した。うさぎの姿は見当たらない。代わりに大きな袋と杖とリボン。それと、明らかに巨人が着るサイズの服が足元に落ちている。
カーキ色のチュニックだ。
「え?これ、私の服じゃない!」
びっくりして大声を上げる。そこでさらに驚くべき事態が発覚した。
服を掴んだ手が、薄茶色でふわふわだったのだ!
は!?嘘でしょ?私、うさぎになってる?
水面を見ながら顔を触る。毛皮がある。うさぎも同じく顔を触っている。やっぱり、これが私なんだ。
「え?え?何で!?」
混乱した私は叫んだ。意味が解らない。これは夢なの?魔術なの?
「助けて、ラズリ様!」
私はとっさに落ちていたリボンを拾い、腕に巻き付けた。お守りを付けたら、この状況が変わるかもと思ったからだ。しかし森は静かで、何も起こらない。私は泣きそうになった。
こんな姿になっちゃって、これからどうすればいいの?
途方に暮れたその時。背後から草木の揺れる音がした。さっきの悪人面の男だろうか。私は青ざめて振り向いた。