千原の才能
・追記 2020年10月
「本」
私は、よく古本屋に行くことが好きです。
古本の魅力は、定価よりも安く購入できる所。
古本屋に行けば当然何かしらの本を
買うのですが、ついついその時の勢いで
小説やビジネス本を買ってしまい、
「まぁ、後で読むやろ」と本棚に放置。
気づくと、読んでいない本が7冊ぐらいに。
これはいかんという訳で、今一生懸命本を
読んでいます。まぁ、また古本屋で
買っちゃうんですけどね笑
あの衝撃的な将棋部での出来事から一日たった
次の日のことである。この日は、雲1つない
晴天で、春の麗らかな調子に上手く噛み合っていた。
いつもより早く授業が終わり、他の同級生達は
各自の部活なり、習い事なりで放課後の教室は
瞬く間に空っぽになった。
俺もそれに習い、さっさと帰ろうとした。
用がないのに、学校に居ても仕方ないからな。
俺は何となく前回の部活の事をクリーム色の
間延びしたリノリウムの床を一心に見ながら
回想していた。
脳裏に思い出されるのは、鮮烈な思い出。
忘れようとしても忘れられないだろう。
気づくと、俺は将棋部の部室の前に辿り着いた。
「……」
ジッと眉間にしわを寄せて部屋の扉を見つめている
俺を通りがかった女生徒が不審そうな目を向けた。
その河原に捨てられた放置自転車を見るような目で
見られるとさすがに俺のメンタルもそこそこ傷つく。
「うーん」
俺は悩んでいた。将棋部に所属し続けるかということだ。
なりゆきで将棋部に入ることになってしまったが、
実をいうと昨日の現状を見て後悔していた。
少しは腕の立つ部員が集まることに期待していたが、
所詮は廃部寸前の部活。
入部する奴は『棋力』も知らない素人。
「よし、今日は帰るか」
俺はグルグルと思考を巡らせ、帰宅という選択をした。
脳内に、プランが浮かび上がる。
そして、俺はクルリとUターンして帰路につこうとする。
だが、運命はなんて残酷なんだ。
「あれ、隣くん! 来てたんだ。 早く入って入って!」
易々と俺を逃してはくれない。
千原萌が将棋部の部室から出てきて俺の腕を掴み、
自らの方へ引き寄せた。
ごく自然に、俺の右手は軽く千原の胸に触れた。
柔らかな温かみのある感触が腕に伝わった。
それは女性経験の不足している俺にとっては
思考停止に至るきっかけに十分であった。
「うおっ!」
しかし、俺の必死の叫びにまったく怯む様子もなく
グイグイと引っ張ってくる。
「こんなところ同級生に見られたらどうするんだ!」
俺は、もてる力を全て使い振り解こうと試みた。
「いいから、早く入って!」
だが、将棋ばかりやってきた俺は、筋肉なんて
とっくに衰えてしまっていた。
抵抗虚しく俺は将棋部の中に引きずり込まれた。
「あら、隣くん」
部室は、紅茶の良い匂いで充満していた。
アールグレイだろうか?是非俺も飲みたい。
その時、顧問の簗瀬宏美先生が部室に
転がり込んだ俺に気づいた。その梁瀬先生は、
呑気に紅茶なんか飲んでいる。
「もしかして、付き合ってるの?」
梁瀬先生は、やや微笑を浮かべながら
世にもおぞましいことを言ってきた。
「はぁ? そんなこと地球が滅んだってありえませんよ!」
自分で言ってても少々大げさな比喩だと感じた。
だが、まぁこのくらい言ってもいいだろう。
俺は、簡単に自己完結をした。
「おい、千原からも言ってやれよ」
そして、 俺は千原に反論することを促した。
「あう、付き合ってるなんて……」
俺は非常に落胆した。いや失望した。
俺は、赤顔している千原に何かものを言うことを
あきらめた。
「ん?」
梁瀬先生の座っている椅子のすぐ近くに将棋盤と駒が
あったことに俺は気づいた。
卓上の本榧の盤と立派な駒箱。
よく見ると簗瀬先生の手に駒が握られている。
流麗な字が駒に彫られている。
「それより、先生。なにやってたんですか?」
ごまかしの意味と興味本位から聞いてみた。
「あぁ、千原に将棋の駒の動かし方を教えていたのよ」
梁瀬先生は、和室と似つかないティーカップを
口元に持っていき、優雅に飲みながら言った。
「千原、一局指してみないか?」
盤を見た瞬間、将棋を指したいという思いが生まれた。
「うん!」
俺の誘いに千原は満面の笑みで頷いた。
「隣くん、千原はまだ駒の動かし方を覚えたばかりなのよ、
いきなり実戦は無理だわ」
「大丈夫ですよ、指導するだけです」
俺は将棋盤を置き駒を並べ始めた。
並べ方はポピュラーな大橋流。
玉、金、銀、桂、香、角、飛、歩の順番に
並べていく。
パチ、パチッと小気味よい音が鳴り響く。
次第に俺の精神は砥石で研いだ包丁のように
研ぎ澄まされていった。
ほどなく俺が並べ終わると千原はまだ並べていた。
しかも並べ方が適当、手つきも稚拙。
本当に初心者なんだと実感した。
千原が並べ終わり対局の準備が整った。
「よし、始めるか、俺は後手でいい」
「よろしくお願いします」
「あ、よろしくお願いします」
いきなり頭を下げられて混乱した千原だが、
すぐに頭を下げた。何はともあれ対局が始まったのだ。
まず、千原は飛車先の歩を進めた。
▲2六歩
「ふぅん、まだ普通だな」
俺は追随して飛車先の歩を進めた。
△8四歩
三手目、千原は飛車先の歩をさらに伸ばした。
▲2五歩
「ほぉ、俺に相がかりか」
なめられたものだな。俺はさらに飛車先の歩をつく。
△8五歩
ここで先手が、
▲2四歩(右側から2行目、上から数えて4列目)
と仕掛けていくのは無理筋だ。
相がかりの基本定跡である。
なので、一旦▲7八金と上がることになる。
千原は7八金と指した。
意外と定跡を知っていることに俺は少し驚いた。
俺も、一旦3二金と指した。
そして、すかさず千原は▲2四歩と仕掛けてきた。
ちなみに現代将棋では、飛車先に交換を保留する指し方
が主流になっている。▲3八銀などの手など。
同歩、同飛、2三歩打ち、2六飛。
「引き飛車。 昭和の相がかりによく見られる進行だな」
それからの千原の指し回しは とても初心者と
言えるものではなく、中盤までミスはしなかった。
そして迎えた千原の手番、千原がポカをしてしまい、
それを俺が冷静に咎めた。
「負けました」
千原は、少し悔しそうに負けを告げた。
「お前、なんだあのミスは?序盤まで完璧だったのに」
「実はどう指すかを忘れちゃったの。
昨日並べた棋譜を途中で忘れちゃって」
「じゃあ、お前途中まで覚えてたのか!?」
「うん、相がかりはたまたま並べてたから。
1回だけだけど」
千原は恥ずかしそうな顔をして頰を掻きながら
盤を見ている。その顔に西日がやさしく当たり
千原をきらめかせた。
一回棋譜を並べただけで?
その途端に悪寒が身体中を駆け巡った。
……化け物だ。率直にそう思った。
初心者が昨日一回並べただけで覚えるなんて……
その様子を見て簗瀬先生が平然と言った。
「千原。 あんたは才能があるかもしれないわね。
将棋の勉強頑張りなさい」
「はーい」
「じゃあ、今日の部活は終わるわよー、解散」
簗瀬先生が、腰を上げて我一目さんに出て行った。
やや間を置いて千原は言った。
「じゃあね、隣くんまた明日!!」
千原は、颯爽と出ていった。爽やかな春風が扉を開けた
千原の後ろ髪をなびかせた。
ふと視線を転じた先の壁掛け時計は夕刻を指していた。
開け放たれた窓からは運動部の生徒の掛け声が流れ込んだ。
「なんてやつなんだ」
震える足を押さえながら俺は呆然としていた。
窓外の若葉は、夕焼けに焼かれ輝いていた。