七話 少女は、ポロポロと泣く
「なんでそこまで……?」
ポツリと漏れ出た呟きには、頑なすぎる少女への当惑が含まれているのだろう。
前世の出来事を忘れるのが普通だと告げたのは、誰でもないひなた本人である。
圭太が忘れても問題ないのであれば、彼女も同じ。
なんの責任もない。気に病む必要はないはずだ。
……にもかかわらず、彼女は必死に記憶を保持しようとし続けている。
自罰的にすら感じられる行動の意図が理解できない。
揺れる瞳が、そう物語っていた。
「……もし、かつての家族に申し訳無さを感じているのなら、それは違うと思うよ。僕が行ったヒナちゃんの家は、話してる途中にも子供の笑い声が聞こえてくるぐらい賑やかで、すごく幸せそうだった。勿論、家族の一人を失ったことは今でも忘れられないみたいだけど……。それでヒナちゃんが苦しまなきゃいけないとは思えない」
「……ううん、違う。自分に罰を与えるほど、オレは出来た人間じゃない。……オレが忘れたくないのは、ただ自分のためなんだ」
「自分のため……?」
もっとも、ひなたには少年の顔をちゃんと見ることは出来なかった。
何故なら、話している途中で瞳が潤み、視界の殆どが滲んでしまっていたからだ。
……ここまで説明してなお、口にするのが、怖い。
前世で恋人だったという事実に甘えたそれは、とても心地よくて、だからこそずっと浸っていたかった。
だが、伝えてしまえば最後、もう今のような関係には戻れないだろう。
それでも、想いは堰を切ったように溢れてしまい、ポロポロと涙と共に溢れ出す。
「再会したとき、一度死んだのにまた会えたことを奇跡だって言ってくれたよな。オレも、そう思う。例え、ケイが記憶を失っても変わらない。できることなら、ずっと一緒にいたいと願うよ」
前世での恋人であり、今生の幼馴染。
それが当たり前になるほどの間、側にいたこともあって、ひなたにとって圭太の存在はかけがえのないものとなっていた。
「じゃあ……」
「でも、オレのこの気持ちは、あくまで前世のケイを知っているからじゃないのか? もしそうなら、過去を失ったらどうなる……?」
『ケイ』が記憶を失ったのは、もう十年近く前のこと。
それからはずっと『圭太』として生きてきたのだから、きちんと新たな人格が築き上げられていて、自分のことを好きだと言ってくれるのもそれに基づいてに違いない。
「オレがよく飲むコーヒーあるだろ。あれ、前世では大好きで、ブラックでもガブガブ飲めてたんだよ。でも、今じゃ一口飲んだだけでえずいちまう。味覚はそんなに変わってないのに、何処が好きだったのかすらわからない。……もしかしたら、ケイのことも同じになってしまうかもしれない」
しかし、殆どの記憶が薄れているとはいえ、未だにひなたは 『日向』である。
圭太とは違い、あくまで前世の記憶という土台があって、今の人格が形作られているのだ。
にもかかわらず基礎から失われてしまうのだから、何がどうなるか、本人にすら――いや、本人だからこそ予想がつかない。
大本からかき消えてしまうのか。それとも全てが綯い交ぜになって再構成されるのか。
どちらにせよ、今の『ひなた』とは少し違った存在になるはずで。
そのとき自分は、今と変わらぬ想いを抱いていられるだろうか?
確証がないことが、何よりも恐ろしかった。
「好きな人のためにおしゃれして、手をつなぐだけでドキドキして……。それじゃ、普通の女の子だろ。……そうなったら、きっとケイと同じで昔のことを全部忘れてしまう。だから、オレは『圭太』のことを好きにはなれない。オレはオレのままでいて、『ケイ』をずっと好きでいる。そう、決めたんだよ」
――『ケイ』を好きであるために、『圭太』を好きになってはならない。
言うなれば、特別な雪で作った雪だるま――それも、殆ど残骸に近い――を溶かさないよう、冷蔵庫にずっと閉じ込めておくようなものだ。
維持し続けるためには、もう取り出して触れるわけにはいかない。
馬鹿げたパラドクスだとわかっていても、ひなたはそれに縋るしかなかった。
少しでも長い間、かけがえのない存在と一緒にいるために……。
「……気持ちがわかっていて、ずっと無視し続けて悪かった。はっきり言う。俺は、ケイの……いや、圭太の想いに応えることはできない。……ごめん」
言い切ると、ぐいっとコートの袖で涙を拭おうとするひなた。
今の告白が、幼馴染の心を踏みにじる、どうしようもなく身勝手なものだと自覚していた。
とはいえ、それでもひなたにとっては曲げようのない事実なのだ。
だから、これ以上束縛するわけにはいけない。
……女子に人気のある圭太のことだから、きっとすぐにいい人が見つかるだろう。
知らない女性が横に立つ光景は、想像するだけで胸が張り裂けそうではあったが、幸せを願う気持ちだけは本当だった。
だが、ケイは
「大丈夫だよ」
と、ひなたの頬を伝う涙を拭うと、優しく抱き寄せる。
「な、な、ななな」
いきなりの行動に、フリーズしてしまうひなた。
……数日前のハプニングを除いても、前世では恋人同士だったのだから、ハグされるのははじめての経験ではない。
というか、もっと激しい接触をしたことも勿論ある。
しかし、生まれ変わったら別腹というものなのだろうか。
なぜだか恥ずかしさは格別で、悲しみが吹き飛ぶほどあわあわと。
「ケ、ケイっ! さっきまでの話を聞いてたのかよっ!? オレは、お前のことを好きになっちゃいけないんだぞ!?」
「うん、勿論。一言だって聞き逃さなかった」
「じゃあ、どうしてそうなる!」
「どうしてって……それは、大丈夫だから」
「何が!?」
開放された途端、ふーっ! と威嚇するひなたに、ケイは目線を合わせて柔和に微笑んだ。
「うぬぼれじゃなければ、ヒナちゃんが怖いのは、僕のことを好きじゃなくなってしまうこと。それでいいんだよね?」
「あ、ああ」
「宣言する。万が一そうなっても、そのときは絶対に振り向かせて見せるよ。だから、大丈夫。だって、ヒナちゃんと一緒にいたいのは僕も変わらないんだから」
しばしの間、見つめ合う二人。
「……お前、耳まで真っ赤だぞ」
しかし、その沈黙を破ったのは、少女からの容赦のないツッコミだった。
……精一杯格好つけたのだろう。
キャパシティオーバーは明白で、今にも火を吹いて倒れてしまいそうである。
「慣れてないなら無理すんなよ……」
「あ、あはは……。まあ、なんだかんだで、真正面から告白するなんて初めてだしね」
誤魔化すようにケイは頬をポリポリと。
「……でもさ、そのぐらいは格好つけさせてよ。やっぱり、こういうシチュは憧れだと思うから」
きっと、何気のない一言。
でも、それを耳にしたひなたの目は大きく見開かれて――。