二話 決して夢ではなく
――それは、バレンタインデー当日のことだった。
「スキー楽しみだよなっ、ケイっ!」
夜行バスの中。
男子大学生 水島 日向はそわそわした様子で、隣に座るスノーウェア姿の女性へと声をかける。
もっとも、ケイと呼ばれた女性は、弾んだ声色にクスクスと。
「な、なんだよ。楽しみじゃないのかよ」
自然と日向は唇を尖らせてしまうのだが、ケイは「ううん、馬鹿にするつもりじゃなかったんだけど」と小さく謝ってから、
「勿論、私も楽しみだよ。でも、普段は落ち着いてる日向がこんなにはしゃいでるの珍しいから、それが可愛くて」
とたおやかに微笑んだ。
「……こんなに雪が積もってるの、生まれて初めて見たからな。どうしてもテンションが上がる。でも、断っておくが、俺はそんなに大人じゃないぞ? 昨晩とか、緊張して眠れなかったぐらいだしな」
「うん、私もそうだよ。だって、男の人と二人きりで旅行だなんて初めてだもん……」
「そ、それは俺も。あ、勿論、男とじゃなくて女の子とって意味でだぞ」
はにかんで答えるケイに、顔が赤くなる日向。
そうして、しばしの間見つめ合う。
二人は恋人同士で、大学の冬休みを利用して地元から遠く離れた雪国へ、スキー旅行に来ているのだ。
「……そういえば、ケイはスキー滑れるのか?」
結局、先に視線を反らしたのは日向の方で、曇った窓をキュッキュと拭きながら問いかける。
「ええと、中学校の修学旅行のとき以来かな。久しぶりだから上手く滑れるか自信ないけど……。ふふ、日向が初めてなら教えてあげよっか?」
「そうだな……。じゃあ、お願いしようかな。あんまり格好悪いところは見せたくないけど、一緒に滑れなきゃ詰まらないしな」
「そんなに心配しなくても、日向ならきっと大丈夫だよ。運動神経抜群だもん」
二人が知り合ったのは高校生の頃なのだが、当時は今のように親しげに語り合う関係ではなかった。
男女ともに好かれる才色兼備なクラスの優等生と、女子には縁のない部活一筋のスポーツ少年で、言うなれば住む世界が違う。
朝の教室で挨拶などはするが、用事がなければ話しかけるほどではなく、本当にただのクラスメイトでしかなかったのだ。
そんな二人に接点が出来たのは、大学で偶然再会し、話の流れで同じサークルに入ってからのこと。
新歓コンパでケイがしつこい上級生に絡まれていたところを、通りがかった日向が助けてあげた。
それ以来お礼なのか、慣れない一人暮らしに苦戦する日向を、何かとケイは甲斐甲斐しく世話してくれるようになって……。
そうして去年のクリスマス。
サークルのパーティ帰りに告白し、この度晴れて恋人同士と相成った。
――実は、高校の頃から俺のことが気になってたけど、自分からは中々言い出せなかったと言ってたっけ。
頬を染めながら、「だって、周りの人に相談しても、こういうときは男の人から告白してもらう方がいいって言うんだもん……。私自身も、そういうシチュに憧れてたし……」と漏らす姿はとても愛らしかった。
「……いきなりニヤニヤしたりして、どうかした、日向?」
「い、いや、なんでもない」
……関係ないことまで思い返し、自然と笑みがこぼれてしまうのは幸せだからに違いない。
それから数ヶ月。
何度か近場でデートはしたが、泊りがけで遠出するのは初めてで、いつも以上に胸が高鳴るのは必然というものだ。
「そういえば、妹さんには、私のこと伝えたんだっけ?」
「あー、一応話はしたんだが、アイツ全然信じてなくてさ。終いには、『先輩が彼女だなんてお兄の妄想に決まってる! 一緒に行くから証拠を見せろ!』とか言い出してな。まあ、流石に全力で阻止したんだが……」
「あの子、生徒会で一緒だったときに、私のことをすごく慕ってくれてたから……。でも、そっか。なら今度遊びに行って、ちゃんと証拠を見せないとね」
「なんかそれ、家族に挨拶に行くみたいだな。……俺は、怒鳴られそうだな。高校の卒業式でちらっと見たケイの親父さんって、かなり厳しそうだったし」
「あはは。見かけで誤解されがちだけど、あれで結構優しいんだよ? 小さい頃、私が犬を飼いたいって言い出したときなんて――」
他愛のない会話が続く。
そう。
間違いなく二人は幸せだった。
だから、このまま穏やかに時が流れ、ゆっくりと思い出を積み重ねていくのだと、何の根拠もなく信じていた。
だが、終わるのは唐突かつ一瞬で――。
◆
日向が明確に覚えているのは、突然車体が大きく揺れたこと。
ただそれだけ。
地震だろうか。
慌てて運転手は急ブレーキをかけるのだが、よりによって坂道のタイミングでスピードを出していた高速バスは止まらず、それどころか雪道でスリップしてしまう。
「「――――っ!!」」
パニックに陥った乗客たちの、つんざくような金切り声が響く。
続けて運転席付近からの怒号。
「おい、止めろっ! このままじゃ落ちるぞ!?」
「やってます! でも、止まらないんです!」
いくら運転手が悲鳴を上げても、加速のついた鉄塊は止まらない。
むしろどんどんと加速しているようにすら感じられる。
「日向、怖い……っ!」
「だ、大丈夫だ、俺が守る!」
混沌とするバスの中、日向はとにかく少しでもケイを守ろうと抱き寄せようとして――。
「あ……」
ガードレールが粉砕される音は、あまりにもあっけなかった。
襲うのは、抗いようのない浮遊感。
続けて鼓膜が破れるような爆音と、グシャリという、砕けてはいけないものが砕ける音。
「…………」
痛みのあまり、声も、出ない。
いや、意識があるだけで僥倖なのか。
先程までとはうってかわって声を上げるものは誰もいなかった。
視界は一面の赤。
それを、割れた窓から吹き込む吹雪が真っ白に染め上げていく。
寒い。
ただ、寒い。
それでもつなぎとめるように、必死に腕の中を女性を抱きしめた。
だが、無慈悲にもぬくもりは急速に奪われていき――
そうして彼の、
いや、彼らの意識は失われた。
寒さからか。それとも別の要因か。
抱きしめた身体からどんどんぬくもりが奪われていき――
そうして彼の、
いや、彼らの意識は失われた。