十年
「凄いな」
「そう?」
彼がマンションを見上げ呟いた。
お父様の死後会社を継いだお兄様が結婚祝いに買ってくれた。
あの人はこんな凄い所に住めるなんてと言って喜んでいてくれたけど、本当にそうだったのかしら。
今はもうわからない。
家に入ると彼はダウンコートを脱ぎソファに身体を預けた。
「うがいと手洗いして」
私はエコバッグからコップを取り出し彼に渡し、冷蔵庫に食材を詰めていく。
洗面所から彼が戻ると私もうがいと手洗いをしてリビングへ戻る。
彼はソファに寝転がりテーブルの上にかけていた黒縁眼鏡がのっている。
あの眼鏡はあの人がかけていたものとそっくりだけど同じものなのだろうか。
「コーヒー飲む?」
「ココア」
「ちょっと待ってて」
マグカップを買っていなかったことに気づく。
お茶碗とお箸も。
そこまで気が回らなかった。
パジャマもパンツも買ってない。
まあこれは新しい買い置きがあったはずだからいいか。
お洋服は明日買いにいけばいい。
お仕事お休みだし。
ミルクパンの牛乳が沸騰したのでココアを入れる。
黒と白のお揃いのマグカップの白い方に自分の分、お客様用にとお義姉様がくれた薔薇の蕾が書かれたカップに彼の分を入れる。
食器棚に残された黒いマグカップ。
もう使う人はいない。
永遠に。
「何だ仰々しい。お客さん、か?」
彼は白いソーサーを手にした。
長い指に酷くなじむ。
私は彼の隣のソファに腰かける。
あの人がいた時は座ったこともなかった。
いつも彼が今一人で座っているテレビの真ん前のソファに二人で座った。
膝が触れ合う距離で。
時には背もたれになってくれた。
「あんたさ、何か気づかないのか?」
「え?」
「俺の顔、何か気づかない?」
彼は私の顔をじっと見つめていた。
私も彼の顔をじっと見る。
似ている。
似ているなんてものじゃない。
同じだ。
同じ瞳。
同じ眉。
同じ唇。
あれ、でも、何だ、ろう。
何かが違う。
「貴方、少し、あの人より、若、い?」
彼はため息をつきココアを一口飲み顔を顰める。
「熱いぞ、これ」
「あっ、ごめんなさい。大丈夫?」
「平気だ。しかしあんたホントに愚鈍な女だな。今頃気づいたのか」
「えっと、合ってるの?」
「ああ、俺の方が若く作ってる。十歳くらい」
「十歳?じゃあ貴方私と同い年ってこと?」
「そうなるな」
確かによく見ると若い。
丁度出逢った頃のあの人みたい。
でも言われなきゃわからない。
十年ってこんな微細なものなんだ。
「どうしてそうなったの?」
「さあ、知るか。気にしてたからじゃないか。あんたとの年の差を」
「気にしてたの?」
「ああ。アイツ馬鹿だからな。あんたと同じくらいになって時間を取り戻したかったんじゃないか」
「そんなことしたって、それは貴方であってあの人じゃないじゃない」
「そうだな。だから馬鹿だと言ったんだ」
「じゃあ、貴方は十九歳のあの人なの?私と会う前の」
「見た目だけな。中身は一緒だよ。じゃないと研究を続けらんないだろ。俺はアイツのスペアでもあるんだから」
「スペア?」
「バックアップ、まあそんなとこだな」
「チョコレート食べる?」
私が彼との話を本格化したくなくて返事を待たず立ち上がろうとすると彼に左手を取られた。
「なあ、こうは考えられないか?」
「チョコ、レート・・・」
「そんなのはあとでいい。俺のことだ」
「何?」
「俺が本当にアイツの複製と思うか?」
「それは疑ってない。あの人が何か難しい研究をしていることだけはわかっていたし。貴方どう見てもあの人だもの。見た目だけじゃない。声も背格好も全部」
「そうだな。複製はあっただろう。でもこうも考えられないか?死んだのは複製の方で今あんたの目の前にいる俺はオリジナルの佐倉奏っていう可能性は?」
「何言ってるの?」
「若返って人生をやり直したくってさ、複製に死んでもらったとしたら?」
「そんなことあの人がするわけないでしょ」
「どうしてだ?あんたアイツの何を知ってる?」
「あの人はそんなことしないわ」
「わかんないだろ?」
彼が私との間合いを詰める。
私が赤ずきんちゃんなら一飲みにされてしまう距離。
「わかるわ」
「何で?」
「あの人は本当に心の綺麗な人よ」
「は?」
「だからそんなことするわけないわ」
「何にも知らないくせに。よく言えるな」
「そうね、貴方よりきっと知らないわ」
「当たり前だろ。俺はアイツだ」
「あの人、人生やり直したがってたの?」
「別に。アイツは仕事とあんた以外興味ないだろ。そんなこと考えてもいない」
「そうね」
「自信があるんだな」
「ねえ、あの人何を望んでいたの?私に何かして欲しいことあった?」
「知らない」
彼は顔を背ける。
私は身を乗り出す。
身体が暖かい。
あの人の話は私を芯から温めてくれる。
「ね、教えて。だってあの人は聞いたら何でも答えてくれたけど、何を思っていたかなんて頭の中見せてもらえないんだからわからないもの。ねえ、教えて」
彼は顔を背けたまま「チョコ」と言った。
私は立ち上がり台所の戸棚からありったけのお菓子を持ちテーブルに広げ、眼鏡を彼に手渡す。
「いらない」
「見えないでしょ?」
「見えてる。手術したから」
「伊達なの?」
「ああ」
「えっと、あの人も?」
「嫌、アイツは手術する時間が惜しいと言ってやらなかった。それにあんたがアイツに眼鏡似合うって言うから」
「だって似合うもの。でもお風呂とか夜寝る時と朝起きた時眼鏡かけてないあの人も大好きだった。私あの人の顔大好きなの。理想そのものなの」
「そうか。もう俺はかけなくていいだろ?」
「いいわよ。何でかけてたの?」
「雅がかけとけって。あんたのために」
「そんなの気にしなくっていいのに。食べて、食べて」
「何もないぞ。アイツはあんたが好きだった。それだけだ」
彼はアーモンドチョコレートをバリバリとかみ砕いた。
もっと楽しんだらいいのに。
でも彼のその一言は私を震えさせるのに十分だった。
彼がいて良かったと初めて思えた。
「ねえ、もう一回言って」
「何を?」
「何でもない」




