腕
研究所から出て信号を待っていると彼が私の右隣に来た。
顔を真横に向けると丁度彼の腕があった。
身長差があるから顔は見上げないと見えない。
私の知らない黒いダウンジャケット。
祝福されるような幸福な距離。
この腕が夫のものならためらいもなく掴むだろう。
そしてもう離したりしない。
「おい、どういうことだ?」
私は信号を渡る。
複製の彼は忌々しそうに付いてくる。
「私もそうだったってどういう意味だ?」
私は立ち止まり彼を見上げる。
同じだ。
少しも違うところなんかありはしない。
でも違うとわかっている。
風が酷く冷たい。
もう本当に冬なのだと気づく。
夫がいないからだろうか。
晴れているのに流れる川の色まで凍てついて見える。
「おい、聞いているのか?」
「聞いている」
「なら答えろ。私もそうだったってのは何のことだ?」
「そのまんまの意味。私もそうだった」
「だから、何が?」
「私もあの人が好きだったの。一目見た時からずっと」
「は?」
私は少し遠くなったまるで要塞のような夫の研究所を見つめる。
夫は何処にいるのだろう。
「おい」
「何?」
「アイツのこと好きだったのか?」
「当たり前でしょ。あんな人いないわ」
「あんな、ド変態か?」
「私もそうだったって言ったでしょ」
「アイツのどこがいいんだ?」
「どこがって全てよ」
「全て?」
彼は心底解せないといった顔をして見せた。
不思議だけど、その顔をもっと見たいと思った。
「私あの人にね、一目惚れだったの。お姉様が羨ましくて仕方なかった。あの人は背が高くって足が長くってきちんとしたスーツを着て眼鏡が似合って、この世界で一番賢く見えた。この世界で一番価値がある人に見えた」
あの日のあの人ならいつだって目の前に取り出すことができる。
あの日私は変わった。
生れて初めて欲しいものがあると気づいた。
「あの人ちっとも笑わなかった。お父様とお兄様が話しかけないと何も話さなかった。愛想がないんじゃなくて緊張していたのだとすぐにわかった。あの日生まれて初めて顔を見ているだけで楽しいこともあるって気づいた。あの人をずっと見ていたいって。あの人とあの日何度か目が合ったの。でもその気持ちが何なのかわからなかった。単純に姉の結婚相手なら義理のお兄様になるわけでしょう。そうなって欲しいと思ったの。そうしたら何度でもあの人に会えるから」
「そしたらロリコンの変態だったわけだ」
「お姉様がお断りした。私ねあの時言いそうになったの。流石に言わなかったけど。じゃあ私が結婚しますって。でも言わなかった。言えなかった。どうしてそんなことを考えたのか自分でもわからなかったから。それから毎日あの人のことを考えた。考えない時間がなかった。何を見てもあの人が浮かんだ」
隣に並ぶ彼の顔は見えなかったけど気配で呆れたのがわかった。
勝手に呆れていろと思った。
「お父様があの人が私と結婚したいと言っていると聞いた時嬉しくて可笑しくなりそうだった。あんなの生れて初めて。あの人は全部私に初めてをくれるの。あの人がいなかったら今の私は存在しないの。あの人が私をこうしたの」
「もういい」
「まだいくらでも話せるわよ。貴方が聞いたんでしょ」
「いい、もう帰ろう。寒いだろ?」
「寒くないわ」
強がりなんかじゃなかった。
あの人のことを話したからだろうか。
頬が上気しているのがわかる。
身体も熱い。
あの人がこうした。
あの人は私をいつだって好きにできるのだ。
「俺はもう帰りたい。家でゆっくりしたい」
彼はそう言って私に背を向け歩き出し、すぐに振り返る。
「早くしろ。寒い」
そういえばあの人は寒がりだった。
彼の隣に並び腕を見る。
やっぱりその腕、私がしがみつきたい腕ではなかった。