誤差
食事が終わると名前を呼ばれた。
私は慌てて冷蔵庫からケーキを出して四等分にしてそのうちの三切れを彼に出し、お茶を入れる。
彼は無言でフォークで苺を突き刺す。
私はそうっとケーキを一口食べる。
ゆっくりゆっくり噛みしめる様に味わう。
私はこのままケーキを食べ続け時間だけが経過して、もう台所のお片付けしなくちゃと言って立ち上がる未来だけを胸に浮かべていたが、無情にも彼のケーキはあっけなく尽きた。
「奈緒」
「お茶、もう一杯飲む?」
「奈緒」
「コーヒー淹れようか?紅茶でもいいけど」
「奈緒」
私は立ち上がる。
想像してたものとは違うけど、立ち上がることはできた。
彼が私の左の手首を掴む。
椅子に座ったままで。
「奈緒」
時を進めてはならないと警告が浮かぶ。
もしくは時を飛ばしてしまいたいと。
「好きだ」
こんな風に人を動けなくさせる言葉があるだろうか。
少なくとも私は一つも思い浮かべることができない。
誤差がない。
一ミリでもあの人の声と違っていたら私は平然とこの手を振りほどけるのに。
「奈緒」
何か言わなければいけない。
でも伝わってくる体温はあの人のものだった。
何も変わらず暖かい。
ここにも誤差がない。
「奈緒」
ああ、もうその名前で私を呼ばないで。
声が近すぎる。
「奈緒」
私を呼ぶ声がする。
遠くから呼んでいる。
奈緒ちゃんと。
「奈緒」
私を見上げる彼の顔にあの人が重なる。
誤差はない。
顎のライン、目の位置、眉の位置、鼻の位置、唇の位置が寸分違わずピタリと一致する。
まるでずっと追い求めていた幼い日の初恋の面影を見出した様に。
「奈緒」
彼の声が懇願を帯びる。
それでも誤差はない。
あの人の声だ。
この目に見つめられるのが好きだった。
私への愛惜を湛えた瞳で一心に私を見る瞳が。
「貴方は、あの人の記憶のせいでそう思っているだけよ。貴方も言ったじゃない。あの人が私を好きなだけだって、設定だって」
「そう思っていた。でも一か月一緒に暮らしてみて違うって思った。アイツの知ってるあんたと俺の知ってるあんたはまるで違う。アイツの前だとあんたはやたら可愛くってやたら甘えて、いっつもニコニコして、アイツを夢見るような瞳で見てた。でも俺にはあんた冷たいと言うか、辛辣と言うか、愛想がないな、可愛くない」
彼はオーディションで駄目だしするような口調で言う。
まるで事実だけを述べている、少しも間違ったことは言っていないといった毅然とした口調で。
「あんたは俺にはニコリともしない。ちょっと嬉しそうな顔するとしたらアイツの話をした時だけだ。
それ以外は俺が話しかけない限り何も言わないし、余りの態度に違いに二重人格かと思ったこともあったぞ。何て言うか俺の知ってる奈緒ちゃんじゃないって思ったな」
「そりゃそうよ。貴方はあの人じゃないもの」
「そこだよ。そこなんだ。俺はアイツじゃない。でも世間はアイツとして扱う。職場ではもう俺はアイツ扱いされている。誰もアイツが死んだことなんてなかったことみたいにしている。
何の滞りもなく仕事は進む。何も変わらない。そりゃそうだ、職場での俺は機能に過ぎない。でもあんただけは変わった。もうあんたは心から笑えない。あんたは俺をアイツだと認めていない」
「当たり前でしょ。違うもの」
「それなんだよ。あんただけが俺を否定してくれる。俺を俺自身を肯定してくれる。あんただけが色づいて見える。そんなの好きになるに決まってるだろ」
「違う」
「何が違うんだ。何も違わない。俺はあんたが好きだ」
「あの人が好きだったからでしょ。あの人の記憶がなかったら好きじゃない。好きじゃない」
「好きだ。毎日朝早く起きて弁当作ってくれて、行ってらっしゃいって言ってくれるあんたが。毎日規則正しく生活しようとする執念ようなあんたが。時々とんでもなく遠い目をするあんたが。アイツを思い出して眠っていた瞳を覚醒させるあんたが、どうしようもなく好きだ。もうこれ以上傷つきようがないって傷ついたまま雨に打たれているようなあんたが。やたらとお姉さんぶるあんたが」
「実際貴方よりお姉さんだもの」
「知識はアイツのだから三十年近くあるんだぞ。でもわかってる。それは俺が自分で経験し得たものじゃない。この世で俺が自分で得たのはあんたとのこの一か月だけだ。この一か月のあんただけが俺のなんだ」
「もう、やめとこう」
「嫌だ。俺は言う。奈緒。あんたが好きだ」
やめて。
本当にそう思っているみたいに言わないで。
「片付けなきゃ。明日お仕事でしょう。お風呂入って寝なくちゃ」
「奈緒」
「お願い。今日はもうやめて」
「奈緒。あんたが好きだ。アイツのことを異様に好きで視野の狭いあんたが。アイツ以外を拒否し続けるあんたが。恐らく、嫌、絶対だな。あんたはアイツのことが一生好きだ。あんたはもう可愛くなくなったがアイツのことは一生好きだ。一生アイツで高揚し、悲嘆にくれるだろう。でも俺はそんなあんたが好きだ。
カナちゃんを好きなあんたと言うのはもうあんたの根幹だから。そこはどうしようもないし、変わらなくていいと思うし、変わって欲しくない。アイツを好きなあんたが好きなんだ」
「わかったから、もう離して・・・」
「いいな。その顔。ぞくぞくする。無邪気に世界を信じ切っていたアイツがいた頃のあんたとはえらい違いだ。もうあんたはあの頃には絶対戻れないんだ。欠けたまんまずっと生きていくんだ。俺と」
今自分がどんな顔をしているかわからないけど、今の自分を見てもあの人は私を可愛いと称賛するだろうことだけは容易に想像できた。
目の前の男が揺れる。
柔らかく、優しく。
「なあ、奈緒」
「うん」
「大体、あんたが全部悪いんだぞ」
「うん」
「あんたが可愛すぎるのがいけない」
「可愛くないんじゃなかったの?」
「可愛いに決まってるだろ。可愛すぎてもう頭がおかしくなりそうだ。こんな可愛い女と一緒に暮らしてておかしくならないほうがおかしいんだ。アイツは偉いよ」
「偉いの?」
「ああ、出来の悪い気持ち悪いお兄ちゃんだけどな」
「もう一回言って」
「は?」
「お兄ちゃんて」
「何で?」
「何か可愛いから。あと、お姉ちゃんって言ってみて」
「お姉ちゃん」
「棒読み、やり直し」
「何だそれ。何がしたいんだ」
「わかんない」
彼が笑う。
私も同じ顔をしただろう。
泣いたって笑える。
笑ってたって泣ける。
「その顔異様に可愛いな。化け物かよ」
「どんな褒め方よ、もう」
どんなに泣いたって朝は勝手にやって来て身勝手な祝福を授ける。
時間は止まってなどくれない。
残酷なほど正確に時を刻む。
私達を置き去りにすることもなく。
でも確かなものがある。
私があの人をとても好きだということ。
彼の手がとても暖かいということ。
「まあ、だから大丈夫だ。アイツが好きなあんたが好きなんだから、安心しろ。寧ろ、どんと来い」
「それだと、あの人を好きじゃない私は好きじゃないってことにならない?」
「そんなあんたこの世のどこにもいないから大丈夫だ。それに俺もあんたがアイツを忘れたりしたら悲しい」
「複雑ね、貴方」
「複雑に決まってるだろ。複製なんだぞ俺は。唯の人間と違って雑にできてないんだ、丁重に丁寧に扱え。もっと大事にしろ」
「してるわよ」
「もっとだ」
「わかった」
「よし」
彼が掴んでいた私の手を放す。
左手がまだ熱い。
でもその熱さを無理に冷まそうとは思わなかったけど、私はこの手首を何度も眺めたりしないだろう。
去年の初めてあの人を見送った朝の様に。




