損なう
先ほど巻き寿司の端っこを切って食べさせてあげたというのに、彼はもう大きなポテトチップスの袋を抱えて淀みない動作で食べている。
その大きさに眩暈する。
あの人も良く食べる方だったけど彼に比べるとリスのような食欲だったと思える。
彼は何というか胃が存在していないかのような食べっぷりだ。
どれだけ食べても体内に蓄積されない。
よって栄養にすらなっていないんじゃないかと思う。
私達の身体は食べたものでできているはずなのに彼のだけは違うみたいな。
「そんなに食べて大丈夫なの?」
「大丈夫だ。あんたも食べないか?」
「食べないわよ。そんなカロリーの鬼みたいなもの」
「何をそんな気にすることがある?」
「気にするでしょ。健康第一」
「何のために?」
「何のって、体調崩したら自分がしんどいでしょ」
「それだけか?」
「それだけよ」
「もうアイツはいないのに、健康を維持する必要あるか?その顔を、その体形を維持する意味は?」
「それは・・・」
確かに彼の言う通りだ。
どうしてあの人ももういないのに、相変わらず毎日豆乳を飲んで、もずく酢を食べて、バランスのいい食事を意識し続け、夜はしっかりと眠る、そんな生活を続けてるんだろう。
「別に俺はいいけどな。あんたが綺麗な方が俺は嬉しいし。飯は美味いし、毎日違う物食べさせてくれるし、ココアは牛乳からいれてくれるし、休みの日にはちゃんと俺に付き合ってくれるし、しかしあんた驚くほどきちんとしてるな。アイツが死んだのに、生活がまるで乱れない。何でだ?よっぽど理性的なのか?」
私はカボチャをの皮をむき、角切りにしていく。
いい音がする。
存在感のある音だ。
この空間に相応しいし、この音がなければ話せない。
「さめざめと毎日泣いて暮らしてほしいの?」
「嫌。まさか。でも意外と泣かないなと思っただけだ」
「泣いてるわよ。毎日。貴方のいないところで」
振り返ると彼は椅子から立ち上がり私の背後にいた。
手にはもうポテトチップスの袋は抱えていない。
どうやらもうカラらしい。
「玉ねぎ切るから避難した方がいいんじゃない?」
「毎日泣いてるのか?」
「泣いてるわよ」
「どこで?」
「洗濯物干すときとか、お掃除してるときとか、お買い物から帰って冷蔵庫に買ってきたもの詰め込んでいるときとか、お風呂とか、夜明かりを消したベッドで、とか」
「いっつも泣いてるわけか、俺がいない時」
「一人じゃないと泣けないでしょ」
「あんたがよくわからない。淡々としてるだろ、あんた」
「そう?ねえ、玉ねぎ切るわよ。移動したら?」
「別にいい」
「また涙止まらなくなるわよ」
「別に見られてどうこうってもんじゃない。あんたがわからないって話だ」
「私?」
私は包丁を置く。
身体を完全に彼に向ける。
私達は向かい合う。
まるで二人きりしかいない荒野で相対するかのように。
「あんたは思わないのか。一度でも思ったことはないか?」
「何を?」
私より寧ろ彼が泣きそうだと思った。
まだ玉ねぎは皮すら剥いていないのに。
「何で複製の俺が生きていてオリジナルのあの人がいないのって、あんたが死ねばよかったのにって」
彼が私から視線を逸らす。
一対一で先に視線を逸らしたら負けのゲームなら彼の完全に敗北だ。
「思うわけないでしょ。そんなこと考えたこともない」
「そうだろうな」
「貴方とあの人は違う。あの人はあの人。貴方は貴方。別の人間でしょ。どうしてそんな発想になるの」
「そうか。そうだな」
「そんなこと思わないで。私貴方にいてほしい」
「え?」
「勿論あの人にもいてほしいけど」
「そうか」
「ねえ、貴方はいつからいるの?」
「去年の十二月一日」
「そう。じゃあ貴方まだ一歳なのね」
「そうとも言える、か」
「ねえ、もうそんなこと考えないで。私貴方があの人だと思ったこともないし、貴方のこと・・・」
「貴方のこと?」
言葉が続かない。
何て言ったらいいんだろう。
何て言いたいんだろう。
わからない。
「わからないけど、貴方に美味しいもの食べさせたい。だから病気になりたくない。風邪ひいたり、食中毒になったりしたら貴方にご飯作れないでしょ。貴方にも健康でいてほしい」
「そんなことしたってアイツみたいに突然死ぬかもしれないぞ」
「そうだったとしても、わざわざ自分で自分の身体を損ねることないでしょ」
そうだ。
私はこの身体を損ねたくない。
あの人が死の前日まで綺麗だと神様が作った最高傑作とまで言ってくれた私を。
「もう食べない」
しょげたように言う彼は本当に子供じみていて身体が大きいせいで異様に可笑しく、その高い所にある頭を撫でてやりたいと思った。
「食べていいわよ。美味しいんでしょ?」
「あんたの飯のが美味い」
「ありがと。玉ねぎ剥くわよ」
私は玉ねぎを右手に持って軽く振る。
彼が後ずさる。
「さっさと切れ」
「はいはい」
全く。
自暴自棄になってすることが暴食とかどうかしてる。
お酒に逃げないとこが如何にもあの人らしい。
彼は正しくあの人から作られている。
貴方にいてほしい。
何も考えずに行ったけど、本心だ。
貴方のおかげで少なくともやることができた。
毎日三食ご飯の用意をして、洗濯をして、お掃除をする。
その繰り返し。
恐らく貴方がいなければ私は何もしない。
貴方が今私を生活させている。
日常を継続させている。
だから私は損なわない。
まだ全てを失ってはいないと思える。
修復不可能な一か所があるだけだ。
「おい」
彼が私を呼ぶが私は振り返らないで玉ねぎをみじん切りにする。
「泣いてるのか?」
私は何も言わない。
でも頬を伝う物が何かはわかっている。
彼が私の隣に立ち顔を覗き込む。
「泣いてるだろ」
私は彼の目を見る。
「貴方こそ泣いてるじゃない」
彼が心地よさそうに笑みを浮かべる。
その黒髪を私は撫でたいと思う。
「俺は玉ねぎのせいだ」
「私もそうよ」
「そういうことにしといてやる」
「はいはい」
頬を伝うものはいつになく暖かく感じた。
きっと台所が暖かすぎるせいだと思った。
暖かさに涙腺が緩んだのだ。
零れた涙はどちらのものかわからなかった。
でも私達は揃って玉ねぎのせいにできた。
私自身でさえ、あの人がいなくて悲しくて泣いているのか、彼がいることに安堵して泣いているのかわからなかった。
唯、あの人はもういなくて、彼はいるということだけはわかっていた。
そして私の損なった部分は一生塞がれることがないこともわかっていた。
それはあの人が開けていったものだから。
あの人だけが開けられたものだから。
この痛みは私だけのものだ。
私があの人に与えることにならなくて良かった。
「奈緒、早く食いたい」
「はいはい。ちょっと待ってて」
この涙目の彼にも私は痛みを与えたくない。
だから私はこれからも豆乳を飲んで、もずく酢を食べて、お野菜とお肉とお魚のバランスの良い食事を心がける。
健康の維持のためと、あの人と彼が望んだようにいつまでも綺麗でいるために。
この作り物のような暮らしをずっと続けるために。




