価値観
「凄いな。奈緒。あんた何でも作れるんだな」
台所のテーブルに並んだお料理一品一品に視線をやると彼は蓮根のはさみ揚げを一つ摘まみ、ぱくりと一口で食べた。
「炬燵に運んで。ご飯どれだけ食べるの?」
「大盛りで」
彼がいただきますと言い炬燵で向かい合う。
まだ二回目なのにもう何度もこうしてきたと思える。
「美味い」
彼はロールキャベツを一口食べ言う。
同じ口に同じものが運ばれていく。
「良かった。おからも食べて」
「ああ。奈緒。お前は凄い」
「どこも凄くないわよ。どうしたの?急に」
「嫌。凄い。あんたは料理もできて顔もそれだけ綺麗で小柄だが均整の取れた身体をしていておまけに実家は大金持ちで」
彼はまるで食べ物と言葉を同時に操る様だった。
そういう風にわざと振る舞っているように見えた。
「せめて料理くらいできなかったら良かったのにな。アイツはできればあんたには何もできないでいてほしかっただろうに」
「そうなの?」
「アイツは劣等感の塊だからな。奈緒。お前のせいだぞ」
「私の?」
「アイツは生まれつき頭が良かったんだろうな。小学校中学校高校大学といつだって一番だった。勉強じゃ誰にも負けたことはなかった。当然だろうな。全教科満点なんだから。運動もできたからアイツは誰かに劣っているなんて思ったことは恐らくなかった。確かに面白くない人間だったがそういうところにいなかったからその必要はどこにもなかった。あんたに会うまでは」
「私?」
「あんたに出逢ってアイツの価値観は崩壊した。自分がしてることなんて矮小でどうでもいいことに思えた。あんたのような唯美しいだけの人間が自分を揺さぶり離さず苦しめる。アイツは可哀想だった」
「可哀想?」
「研究も何もかもどうでも良くなった。何をしていてもあんたが頭から離れない。それが十も年下の子供なんだ。地獄だろ」
「そう思っていたの?」
「さあ」
「さあって」
「客観的に見たら地獄だろ。あんたにへりくだって愛を乞うていたんだから」
「へりくだってたの?」
「あんたにへつらってたことは間違いないだろ。あとあんたの碌でもない父親にもか」
「お父様?」
「碌でもないだろ。自分の妻を複製してほしくって娘をアイツに売るわけだからな」
「私が選んだの。私が結婚したいって言ったの。お父様に言われたからじゃない」
「そうか」
「あの人苦しんでいたの?」
「嫌。それすら喜びだろ?うら若い美しいお嬢様に仕えるのは。アイツはあんたと出逢って知ってしまたんだよ。知らなくていいことを。この世に他人からもたらされる他人からしかもたらされない感情があるってことを」
「それがいけないことなの?」
「アイツは恐怖を知った」
「恐怖?」
「怖いって知ったんだよ。あんたのせいだ」
「私のせい・・・」
「そうだ。全部奈緒。お前が悪いよ」
彼はお茶碗を私に差し出す。
あんなにお茶碗いっぱいによそったのにまだ食べれるらしい。
私はお茶碗いっぱいにご飯をよそい、もう私が作ったおかずはほとんど食べつくされていたから冷蔵庫からイカの塩辛と辛子明太子を出した。
あの人は塩分を気にしてこういうものを食べなかったけど、彼は何も気にしないのかスーパーで勝手に買物籠に入れてきた。
「はい」
「うん」
「続き」
「ああ、何処まで話した?」
「全部お前が悪いまで」
「そうだ。奈緒お前が悪いぞ」
さっきとは違いそれは柔らかい棘だった。
私にもう食い込ませないように揶揄するように言った。
「あんたのせいでアイツはちっぽけで取るに足らない人間に過ぎなかったと気づいた。アイツは自信と言うものを持っていないと思っていたが持っていたんだな。アイツはこの世で最も通俗的で陳腐で原始的で野蛮とすらいえるもの、所謂衝動か、それが自分にも備わっていたと初めて知った。あんたに会うまでアイツの心なんかなかったに等しい。なくて良かった。ないほうがずっと自由だった。アイツはあんたに縛られていた」
ふと私は彼はあの人の複製などではなく、あの人の皮を被った人ならざるものなのではないかと思えた。
彼は私をどうしたいのだろう。
何処へ連れて行こうとしているのだろう。
「奈緒。アイツはいつも怯えていた。あんたを失うんじゃないかと。あんたが損なわれるんじゃないかと。いつも何をしててもずっと。滑稽なほどにな」
「ねえ、貴方どうしたいの?そんな話したって私があの人を益々好きになるだけよ。これ以上好きにしてどうするの?もうあの人いないのに」
「そうだな。もういないな」
「いないわ、どこにもいないわ」
「ああ、いないな。奈緒ちゃん」
「似てないわ」
「そうか。奈緒ちゃん」
「やめて」
「奈緒ちゃん。お茶」
私がお茶と柿を剥いて戻ると彼はソファに移動しテレビを点けていた。
「美味そうだな。柿」
あの人は柿が好きだった。
林檎と梨と桃も好きだったから単純に剥いて食べるものが好きだったのかもしれない。
私が剥いてあげるといつも喜んでくれて、包丁で剥いているところをいつも見ていた。
「上手く剥くな。お嬢様なのに」
「関係あるの?」
「柿の皮は貧乏人にっていうだろ」
「そう」
「奈緒。そんな顔しなくていい。アイツはあんたによって苦しめられたがあんたしかアイツにしてやれなかったこともある。だからプラスマイナスでいったら大いにプラスだ。気にしなくていい」
隣のソファに座った私を労うように彼は言った。
まるで悪魔が人間に知恵を授ける様に聞こえた。
でも余りに美味しそうに屈託のない顔で瑞々しい柿を頬張るものだから、その顔が嫌でも記憶の中のあの人を呼び起こして目が離せない。
「私あの人が好きよ」
「はいはい。知ってるよ。奈緒ちゃん」
「あの人が好き。大好き」
「わかったよ。美味いな。柿」
「カナちゃんが好き。世界一好き」
彼は見せつける様に笑った。
私はカナちゃんカナちゃんを心の中で繰り返した。
迎えに来てと祈る様に。
そうやって思い出せるあの人は眼鏡をかけていて、不器用そうな笑みを浮かべている。
その笑顔も私のために手に入れたもの。
あの人の仮面だった。
ならその顔は私しか見ていないことになる。
あの人は私の愛だけを得たかったのだから。
どんどんあの人を好きになる。
限界なんかなく、突き抜ける。
終わりなんかない。
でも誰にも止めてほしくないし、止められないこともわかっている。
あの人が好き。
私があの人の価値観を崩壊させたように私はあの人に構築されたの。
今の私を作ったのはあの人なの。
それなら私と彼は同じなのかもしれない。
「どうした?奈緒」
「え?」
「嬉しそうな顔して。テレビ面白いか?」
テレビではお笑い番組をやっているが、私は今漫才をやっている二人が誰なのかも知らない。
初めて見た顔だ。
「ほら」
彼は私の口元にフォークで突き刺した柿を持ってくる。
私はそれを一口齧る。
そういえばあの人とフォークではやったことがなかったなと気づいた。
いつも食べさせてあげる時はスプーンだった。
その全てが愛おしい。
「美味しい」
「な」
彼が余りにも手柄顔で言うので可笑しかった。
そういう顔あの人はしなかった。
いつも私の手柄の様に言ってくれた。
奈緒ちゃん、美味しいよと。
あの人のことならいくらでも思い出せる。
何を見てもどこにいても。
あの人もきっとそうだった。
なら生き残ったのは私で良かった。
あの人にこんな思いはさせたくない。
それが私にできる唯一のことだった。
あの人より先に死なない。
あの人を決して一人にしない。
「奈緒。そうだ、アイツお前が好きすぎてな、お前ともっと早く会いたかったと思っていた。いっそお前が母親のお腹にいる頃から知っていたかったと。ここまでいくと怖いな。頭のいい人間の考えることは」
「そう」
一緒だ。
頭が良かろうが悪かろうが。
私もあの人ともっと早く会いたいと思っていた。
そう、いっそ生まれる前、前世から、そのまた前世からも。




