家
「ただいまー」
彼はそう言って家のドアを開けた。
お帰りと言う人はいない。
当然だ。
この家は二人暮らしで一緒に帰って来たのだから。
あの人もそうだった。
二人で出かけて帰ってきた時いつもただいまと誰もいない家に向かって言った。
「奈緒。腹減った」
「帰りにアイス食べたでしょ」
「夜ご飯早く作ってくれ」
「ちょっと待ってて。手」
「洗ってくる」
冷蔵庫に夜ご飯に使わない食材を入れていく。
随分沢山買ってしまった。
二人で買い物に行くといつもそうだった。
あれもこれも食べさせたくなり、いつも買い物籠がいっぱいになった。
あの人は、奈緒ちゃん、これもこれもと言っては籠にどんどんいれていった。
「空いたぞ、洗面所」
「うん」
うがいと手洗いを済ませ台所に戻ると彼は台所の椅子に座り買ってきたチョコレートを食べている。
あの人は夜ご飯の前にお菓子なんか食べなかった。
いつも私の作るご飯のためにお腹を空かせて待っていてくれた。
「そんなに食べると夜ごはん食べられなくなるわよ」
「大丈夫だ。いくらでも食える」
私はキャベツを一枚一枚剥がし流水で洗う。
彼は私のいる台所のシンクの向かいに座ったままチョコレートを食べ続けている。
その顔に表情はない。
「なあ、奈緒」
「何?」
「俺がアイツでないとあんたはすぐわかったよな?」
「そう?」
「ああ。雅が俺を連れてきた時あんたは流石に驚いたがアイツだとは思わなかっただろ?誰だと思ったんだ?」
「わからない。でもあの人だとは思わなかった」
「俺の方が若いからか?」
「ううん、それは関係ない。若いってよく見ないと本当にわからない程の違いだもの。年齢ってたまに会う人じゃないと明確な変化には気づけないものだと思う。貴方は眼鏡をかけていたしあの人と同じ顔に見えた」
「そうか。俺はアイツにそっくりだろう?」
「ええ」
「顔も声も。記憶もある」
「性格は全然違うけどね」
私は熱湯で茹でたキャベツの葉をざるにあげて冷ます。
「玉ねぎ切るから向こう行ってたら?」
「また玉ねぎか。あんた好きだな」
「貴方がロールキャベツが食べたいって言ったんでしょ」
「言ったな」
「避難したら?テレビでも見ていなさいよ」
「今話しているだろ?」
「いつでも話せるでしょ。貴方ずっと家にいるんでしょう?」
「当たり前だ。ここ俺の家だろ?」
貴方の家じゃないとは言えなかった。
それを言ったら彼は傷つくと思った。
それは嫌だった。
この顔に傷ついた顔はしてほしくない。
「もう切るわよ。さっさと行かないと又泣くことになるわよ。私はいいけど」
「何がいいんだ?」
「貴方が泣いても。あの人の泣いた顔大好きだったから」
「趣味悪いな。あんた」
「そう?趣味はいい方だと思うけど」
「どこがだ」
「どこがって貴方も同じ顔でしょ」
「じゃあ、俺の顔も好きってことだな?」
「そういうことになるわね。ほら切るわよ」
「わかった。玉ねぎ終わったら呼んでくれ」
「呼んでどうするの?」
「キャベツ巻くとこ見たい」
「わかった。呼ぶから」
彼は大人しくソファに座りテレビを点けたけど、チャンネルを一周しても見たいものはなかったらしくすぐに台所に近づいて来た。
「まだか?」
「まだよ。ちょっと待ってて」
「あんたよく平気だな」
「そうね。ねえ、貴方涙目じゃない?」
「この家の間取りが悪い。何で台所と繋がっているんだ」
「お料理運ぶのにいいからでしょ。台所にいても話せるじゃない」
「アイツどうせ台所入りびたりだったんだろ」
「そうね。私がいないとテレビも見なかった、かな」
「あんた見ている方がずっと面白いもんな」
「そう?嬉しいわ」
彼はもう目が真っ赤だった。
瞬きを繰り返していたが遂にポロリと涙を零した。
あの人なら奈緒ちゃん目が痛いようと言って私にくっついて来たけど、彼はそうはいかない。
腕を組み何もなかった顔をしようとしている。
私はその顔をじっと見つめる。
やっぱりこの顔は好き。
「まだか?」
「もう巻くわ。一緒にする?」
「見てる」
目に涙を湛え彼が近づいてくる。
そういえばあの人の涙を私は拭ってあげたことがなかったと気づく。
あの人は私の前で泣いてくれたのに。
もう拭ってあげることはできない。
永遠に。
あの人は私の涙を拭ってくれた。
何度も触れてくれた。
奈緒ちゃんは泣いても綺麗と言って、頬を撫でてくれた。
もっとあの人の前で泣いたら良かった。
あの人はそんな私を喜んでいてくれたのだから。
あの人の望みを私はどれだけ叶えることができただろう。
それを彼は知っているのだろうか。
私の背後に回り何かを貪欲に得ようという瞳にそぐわない涙目でいる彼が。