奈緒
誰かに呼ばれているのがわかる。
この声は知っている。
でも私の知っているあの人は私をこんな風には呼ばない。
あの人はいつも私を奈緒ちゃんと呼んだのだ。
だから今私を呼ぶのはあの人じゃない。
なら今私は起きなくていい。
「奈緒、いい加減に起きろ。もう十時だぞ。起きろ。出かけるぞ」
ベッドの傍に腕組をして私を見下ろす彼が見えた。
朝から元気。
「今日はお休みでしょう。ゆっくり寝てなさいよ」
「休みだからだろう。明日から普通に仕事だ。買い物に連れていけ」
「買い物?」
「服とか色々必要だろう?」
「服?」
あの人は自分の服に興味なかった。
私の服には興味あるのか一緒に買いに行ってくれたしいつも選んでくれた。
あの人は奈緒ちゃん着てみてといっては通販で服を買ってくれたりもした。
あの人は私のブラウスのボタンをとめたり、ブラジャーのホックをとめたり、タイツを履かせたりしてくれた。
私が大きな着せ替え人形になったみたいに身体の力を抜いて彼のされるがままになっていると反応してくれないとつまらないよと言って私の耳を噛んだり、目元に唇を落とした。
「だから起きろ。ついでに何か食わせろ。昨日の夜ご飯を食べてから何も食べていない」
「フルグラがあるから牛乳かけて食べて」
昨日は紅鮭の切り身も卵もわかめも買うのを忘れたからご飯は炊かなかった。
あの人もいないのに朝ご飯なんかやっぱり作る気にはなれない。
「一人で食えってか?本当にあんた冷たいな」
「明日からちゃんとするから」
「今日からしろ。起きろ。だらだらするな」
私は起き上がったが、ベッドの上からは動けなかった。
彼は黒いタートルネックのセーターを着ている。
量販店で買った日本中にあるあの人のセーター。
「アイツの服勝手に着られたくないだろ?」
「そうね。起きるわ」
あの人は仕事に行くときはいつもスーツだった。
私は彼が朝ネクタイをしている指が好きだった。
シャツの袖のボタンをとめる指も。
「それにしてもあんた今日は言わないのか?」
「何が?」
「勝手に部屋に入らないでよ、とか」
「お風呂じゃないからいいわよ。パジャマ着てるもの」
「何をいまさら」
彼はあざ笑うように言った。
整った顔がそれを更に効果的にした。
あの人の顔はこんな使い方もあったのだ。
私はそれを今頃知る。
こんな想像もしなかった奇妙な形で。