お風呂
「風呂、開いたぞ」
「ありがとう。入るわ」
彼はあの人の買い置きのグレーのスエットの上下を着ている。
濡れた黒髪の後ろ姿はあの人そのものだ。
振り向いても同じだけど。
湯船に入り足を延ばす。
一人で入るお風呂は広い。
あの人とはよく一緒にお風呂に入った。
あの人はいつも私の背後にいてお腹に両手を廻し撫でてくれた。
私はお腹に自分の両手を廻してみる。
薄い何も入っていない頼りないお腹。
違う。
こんな手じゃない。
入浴剤で白く濁ったお湯では見えないけどこれじゃ錯覚することもできない。
あの人はいつも私を綺麗だと言ってくれた。
奈緒ちゃんは全部綺麗にできてるんだねと言って。
あの人はよく私の身体を洗ってくれた。
奈緒ちゃんは柔らかいねと言い、たっぷりの泡で洗ってくれた。
私は自分の左手の中指の腹を見つめる。
三日月はない。
いっそ自分でつけようか。
あの傷がない指がないのが物足りない。
こんな細い指じゃない。
あの傷跡を口に含むのが好きだった。
あの人はよく私の顎を指で撫でた。
いつも後ろからだったから表情はわからないけど、あの人は笑っていたかしら。
そうだったらいいのに。
もっと顔をよく見ておけばよかった。
いつもくっ付いていたのに、あの人がどんな顔をしていたのかわからない。
何度だってチャンスはあったのに。
私は左手で自分の顎のラインをなぞり、右の頬を撫でる。
あの人がそうしていたように。
あの人は何故こんな風に私に触れたのだろう。
さっき泣けなかったから今は思い切り泣いていいはずなのに涙は出ない。
身体が暖かすぎるせいだろうか。
でも身体に熱はない。
「おい、いつまで入っているんだ?」
開けられたドアの外に彼が不機嫌そうに立っている。
私は思わず湯船に身体を沈め顔だけを出そうとするが生憎そこまで深い湯船ではない。
「人がお風呂に入っているのに勝手に開けていいと思っているの?」
「呼んだよ。あんたが答えなかったから開けたんだ。何かあったかと思って。いつもこんなに風呂が長いのか?」
「普通でしょ。もう出るから」
彼は踵を返すどころか私に向かってきた。
湯船の傍でしゃがみこみ私に手を伸ばして来た。
大きな手が私の左頬を包む。
彼はそのままその手で私の顎のラインをなぞる。
私は思わず目を閉じそうになるけど、ぐっとこらえ彼の目を見る。
同じ目だけど違う目だ。
あの人はこんな挑むような目で私を見ない。
「もう上がれよ」
「うん」
彼が出て行くと私は泣いた。
もう私は誰とも一緒にお風呂に入らないだろう。
でもそれはあの人もそうだ。
ならいい。
お風呂から上がるとソファに座りテレビを見ている彼がいた。
ドライヤーで髪を乾かし彼の隣のソファに座り両手にハンドクリームを塗り込む。
お風呂上りはいつもあの人にハンドクリームを塗ってあげた。
あの人は自分では決してしなかった。
奈緒ちゃんがしてくれると気持ちいいと言って私を喜ばせた。
私達の手は同じ匂いがした。
「俺もやってくれ」
テレビを見ていたはずの彼がそう言って両手を出してきた。
自分でやってと言っても良かったけどそう邪険にすることもないと思い塗ってあげた。
「いい匂いがする」
彼は自分の右手の甲を嗅いだので、私も自分の左手の甲を嗅いだ。
いつもと同じ匂いがした。
あの人が好きだと言った優しい匂い。
目を閉じて眠ってしまい朝が来たら全てが夢だったらいいのに。
そんなことないってわかっているはずなのに彼の体温がどうしてもあの人を思わせ、あの人が遠ざかっていく気がしてそんなことばかり思った。