三日月
エプロンをかけて長い髪をゴム一つにまとめて野菜を洗い始めると彼が背後に来たのがわかった。
あの人も私が台所にいるといつも傍にいてくれて何もしないで私を見ていた。
私はそれが堪らなく嬉しかった。
「あんた、実物の方が綺麗だな」
「何、唐突に」
「嫌、俺はアイツの記憶を貰っているわけだから勿論あんたのことも知っているわけなんだが、本物はやっぱり違うな」
「テレビに出ている人を見ているような感覚なの?」
「そうかもな。実際にバッターボックスに入らないとわからないって言うだろ?」
「その例えはわからないけど、写真より本物の方がいいってことはよくあることでしょ?」
「そうだな。あんたホントに色が白いんだな」
「そう?」
「ああ、アイツはいつも綺麗だ綺麗だ言ってた」
「言ってたの?」
私は振り返り彼を見る。
想像より近かった。
手を伸ばさなくても触れられる。
「アイツの話になると顔が変わるな」
「そう?でもそんなの普通でしょ?」
「そうなのか?」
「そうよ。好きな人の話をすると言うのはこれ以上ないほど楽しいことなの」
いつも綺麗でいたいと思っていた。
あの人が嬉しくなるくらい。
あの人がいつも触れたくて堪らなくなるくらいに。
「本当に綺麗だな」
彼の指が私の左頬を風の様に撫でる。
「手も小さいな」
彼が私の左手を取る。
「冷たいな」
「水使ってたから」
突然私は思い出し彼の空いている左手を取る。
「ない」
「何がだ?」
「ないのね」
「何が?」
「傷」
「は?」
「あの人、左手の中指に三日月みたいな傷跡があるの。貴方、無いのね」
彼は自分の左手をじっと見つめた。
私の左手を確保したまま。
あの人の左手の中指の腹に三日月みたいな傷跡が出来たのは結婚してから。
私が鯵を三枚におろしているとやってみたいと言ったのでぜいごの取り方から教えたあげた。
あの人が私に何か教えてくれることはあっても逆はなかったのでとても楽しかった。
その時に柳刃包丁でできた傷だった。
慣れていないし包丁の長さが上手く測れなかったのだろう。
魚体を押さえている方の左手に包丁の切っ先が当たり割と深く切ってしまい血が出た。
指先から流れる赤い血に奈緒ちゃんどうしようと言ってあの人は慌てた。
私はつい笑ってしまった。
あの人も笑っていた。
あれは結婚したばかりの四月のことだったけど傷跡は幽かだけど残り続けていた。
あの人はよく嬉しそうに私に指先を見せてはまだ残ってるよ奈緒ちゃんと言った。
あの人の遺体にも勿論あった。
三日月が。
あの人の証明が。
あの人と私だけの証拠が。
「ないから、どうだって言うんだ?」
「別に何も。ね、手離して。子芋剥かなきゃ」
「あんたは傷一つないな」
彼は私の左の掌を検分する。
「結構切ったりしたけど深くは切らなかったから」
私の左手には指輪がない。
あの人も指輪はしなかった。
だからあの三日月は今思うと私達の結婚の証に彼がわざわざしてくれたのかもしれない。
なら彼にないのは当然だ。
「おい、どうした?」
そう、簡単なことだ。
私だってそうする。
あの人は単純に彼にそれをあげたくなかっただけだ。
あの傷は私達だけのものだから。
自分だけのものにして一人で持っていっちゃったんだ。
好き。
あの人が好き。
あの人がこんなにもどうしようもないほど好き。
私は彼から顔を背け右の掌で口元を押さえる。
泣きたいのか笑いたいのか自分でもわからない。
でもこうしていないと自分の身体から何かが溢れてしまうから必死で押しとどめる。
「おい、本当に大丈夫か?」
彼の狼狽した声がする。
どんな顔をしているか知っている。
見なくたってわかる。
その顔も大好きだった。
「大丈夫、何でもないの」
そうなの。
何でもないの。
あの人以外私に取って何でもないの。
私に取って特別なのは左手の中指の腹に三日月の傷のあるあの人だけなの。