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17話 息子(♀)と父

 

 ゆっくりと休ませてもらった日の翌朝は大分体が軽くなっていた。

 重傷を負ってほんの3日で健常に回復するなんてつくづく竜の再生力は規格外だと思い知らされる。

 寝ているアルを起こさないように(起こそうとしてもなかなか起きないが)そっとベッドから降りて自室を出る。

 台所では母さんが朝食の支度をしていた。


「母さんおはよう」


「おはようクリス。よく眠れた?」


「うん、大分楽になったよ。アルのおかげなんだけどね」


「それはあの子の力で女の子になったからかしら?」


 オリビアさんと同じことを言う。

 正確にはアルと誓約を交わすための下準備でこうなっただけなんだけれども。


「まあ、そんなところ。えっと、これからのことは……」


「朝食の時にしましょ。パパとアルマリアちゃんが揃ってからね」


「わかったよ。父さんは?」


「外で体を動かしているわ。もうすぐで朝ご飯ができるから呼んできてもらえるかしら?」


「行ってくるよ」


 目覚ましに陽の光を浴びたかったので一石二鳥だ。

 父さんとは昨日ぎくしゃくしてしまったので関係の修復にも取り組みたいところである。


「父さんおはよう」


「……」


 山から下ってくる清涼な空気を吸って伸びをしながら外に出ると、父さんは巻き藁で作られた的に矢を射ようとしているところだった。

 普段漂わせている温和な気配はなりを潜め、研ぎ澄まされた刃のような鋭さで的を見据えている。

 気迫にあてられた朝の冷たい空気がピンと張りつめて、肌を突き刺してくる。

 まだ弓は構えていない。

 ひたすらに的を視ている。


 やがて左足を半歩踏み出して右足を扇形に広げて引いた。

 迷いのない堂に入った所作。美しく伸びた背筋、呼吸を繰り返すたびに力強く隆起する逞しい肩に思わず視線が吸い寄せられる。

 射撃の準備を整えた父さんはここでようやく弓を構えた。

 通常、狩りに限らず実戦においては周囲に伝播するほど長時間の集中は行わない。

 狙撃対象に察知されてしまうからだ。

 集中に要する時間は最短にまで切り詰めるもの。仕留められるに足る張力を確保し、当てられるというヴィジョンを頭の中に描けたのならば、すぐに射かけるに限る。弓の最大の長所は射程距離なのだから対象に接近する時間を稼がせてはならない。


 これは実戦訓練ではなく、基礎的な射法を再確認するための流れ。

 弓に初めて触れる者が入門として学ぶ八節を丁寧に体に刻みこんでいる。

 八節とは矢を射る一連の動作をそれぞれ理解しやすいよう八つに腑分けしたもの。

 足踏みから始まり、胴造り、矢つがえ、打ちおこし、引き分け、会、離れ、残心からなる。


 父さんはどれだけ並外れた弓の業を極めようとも、決してこの基本を疎かにすることはない。

 弓の型は実戦を繰り返すたびに崩れていくものなので、常に調整を心がけなければならないのだという。

 今の泰然とした佇まいからは想像もつかないけど、新人の騎士時代に才能を鼻にかけ乱暴な弓の扱いをしたことで手痛いしっぺ返しを受けたのだとか。

 慢心に足をすくわれることのないよう基本は大事にしなさいと父さんは何度も繰り返し語った。

 天才が言えば説得力は重みを増す。

 ボクも訓練では構える前から残心までの流れを教わった通り忠実に守ることにしている。

 そもそも慢心する才能がなくて上達すらしていないんだけどね。


 父さんの昔話を思い返していると矢を放つ、“離れ”の段階に移っていた。

 的との距離は少なく見積もっても400mは離れている。

 ボクがサイトとスタビライザーを用いて確実に当てられる有効射程は30m。

 一般的な弓兵でおよそ50~100m。弓術スキルや風の魔法による補助が介入してもその倍が限度。

 すなわち400mは世の常識を逸脱した距離。加えて的は極小、マルスピュミラおよそ2個分の大きさしかない。

 ただ的の端っこに当てるだけでも100人中100人が口々に褒め讃えることになるだろう。

 空間を駆け抜ける一条の軌跡に息を呑む。


「やっぱり父さんはすごいや……」



 ――父さんはたった一矢で常識を破ってみせた。

 矢は的の中心を綺麗に射抜いている。

 使った弓は特別な代物じゃない。

 射程距離を得るための長大な剛弓ではあるけれど、ありふれた木材を加工して作られたものだ。

 弦も同じで村の近辺の草木から大量に採れる繊維でできている。

 いずれの素材も品質はギリギリの及第点といったところ。

 弓の弾性は悪く、弦はとても固い。並みの筋力では引くこともままならない。

 威力は折り紙付きだが、引いた弦を維持する負担が重く、放つときの反動も凄まじい。

 速射性が威力と引き換えになるのは仕方ないにしても弓で最も重要視しなくてはならない命中精度が最悪なのだ。

 射手に高水準の力と技量を要求する弓である。

 父さんが『体』と『技』において完成された能力をもっていることがそれだけで読み取れてしまう。

 幼い頃からの憧憬の念はますます深まってゆくばかりだ。

 そしてボクにとって父さんの偉大さを最も感じずにはいられないのは『体』と『技』ではない。

『心』の部分だ。

 扱いの難しい弓を巧みに操りながら的への集中力を切らさない強靭な精神力こそ父さんから学ぶべきところであると思っている。

 ボクは残心を終えた父さんに駆け寄って手ぬぐいを渡した。


「ありがとう、クリス」


 父さんは受け取った手ぬぐいで額の汗を拭いながら「おはよう。体の調子はどうだ?」とボクを気遣ってくれた。


「おはよう父さん。だいぶ良くなったよ。今日から仕事に戻っても大丈夫」


「そうか。だが、治りかけの時こそ養生に徹するべきだ。軽い鍛錬にしておきなさい。俺も今日は体を休めるつもりだからな」


「うん。ところで父さんのさっきの射、すごかったよ」


「見ていたのか」


「重たい弓を使っているのにあんな遠くの的に的中させるなんて――ボクももっと頑張りたいって思った」


「クリスもいつか届くさ」


「できるかな?」


「ああ。向上心を失わなければな。そうだな……。クリス、一射どうだ?型が崩れていないか見てあげよう」


「ありがとう、是非お願いします」


 願ってもない申し出だ。

 ボクは意気揚々と練習用の短弓を担いで的の前に立つ。

 的はボクの有効射程である30m先だ。

 八節の所作を脳裏に描き、イメージ通りに身体を動かしていく。


「クリス、もう少し腰を落としなさい。――そうだ」


 背後でほとんど密着した状態で立つ父さんが腰に手を回す。

 女の子になって形が変わり、張った骨盤に軽く指の圧力が加わった。

 ほんの微妙な調整。だけど姿勢の安定が劇的に改善する。


「……ん……ふ……」


 くすぐったいけど我慢だ。

 父さんが見抜いた最適の姿勢を身体に覚えさせなければならないのだから。


「足を5度開きなさい。ああ、それくらいだ。矢を番えていい」


 弦に矢筈をかけ、引いていく。

 フルドローに達した時、父さんの胸板が後頭部に密着する。

 髪越しに父さんの逞しい胸筋の感触が、規則正しい鼓動を刻む心臓の音が聞こえてくる。

 弦を引く右手の指には父さんの指が重ねられてその温もりが感じられた。

 いつまでもこうしていたいような誘惑に駆られる。

 父に甘えたい年頃なんて10年も前に過ぎているはずなのに。

 的に集中しなくちゃいけないのに頭上にある父さんの顔を覗きたくなった。

 これではどれだけ射る姿勢が満点でも矢は明後日の方向に飛んでいくだろう。

 上向きそうになる顎を強引に引いて、的の中心だけを凝視する。


「……ん、こうかな?父さん」


「いいぞ、クリス。この型を覚えておくんだ」


 忘れたくても忘れられそうにない。少しでもこの状態を長く維持していたいから。

 しかし父さんの的確な指南に身体は動いてくれるのだけど、雑念が邪魔して射るべき瞬間を逃してしまう。

 接触している父さんの肌が安心感をもたらしてくれるのに、当てなければという気持ちが上回って焦りをかきたててくる。

 緊張して上手く狙うことができない。

 落ち着いて。集中だ集中。手本だってある。

 さっき父さんが射た時の眼差しを思い出すんだ。

 同じように心を研ぎ澄ませて。形だけに過ぎないけど父さんの表情を模倣する。

 ――――するとまとまらなかったイメージの射線が正確に的を捉えた。


「上出来だ」


 父さんが褒めてくれる。

 そのたった一言がもたらす効果は絶大だった。

 精神力が充実して狙いがかつてないほどに精緻を極めたのだ。

 最高のタイミングを掴んでボクは矢を離そうとした。

 けれど、


「2人ともとても楽しそうね」


「あ……」


 母さんの楽し気なのに怒気が含まれた声が集中をかき乱した。

 飛んでいった矢は的を大きく外れて地面を抉る。


「クリス、私はパパを呼んできてって言ったはずなんだけど、どうしたらそのパパといちゃつくようなことになっているのかしら?」


 母さんは腰に手を当て挑発的に睨みつけてきた。

 口元は笑っているけど目は笑っていない。


 ボクは首だけで振り向き父さんと見つめ合った。背が頭一つ分離れているので見上げることになる。

 父さんの鼓動がドクンッ!と跳ねあがった。同時に体温も急上昇する。

 昨日の様子も変だったけど父さんでも驚いたりすることがあるんだと知った。

 バッと慌ててボクの身体から離れる父さん。


「すまないクリス!体に触って悪かった」


「気にしないで父さん!これは鍛練だからっ!母さん!変なこと言わないでよ!ボクたちは弓の鍛錬をしていただけなんだから!」


「その割には女の顔してうっとりしてたわね……。パパも満更じゃなさそうだったし。そんなに若い子がいいのかしら……。それとも胸の差なの!私の娘なのにあんなに大きくなっちゃって!!」


 ボクの言い分に母さんは小声で怒りを募らせた。ボクとどこかを見比べるように視線を往復させている。

 いつも優しく心の広い母さんがなんだかリズみたいな幼さで拗ねている様子だ。


「え?母さん何か言った?」


「何でもないわ。朝ご飯できたわよ」


「うん。ごめんなさい」


「いいわ。クリスは先に戻ってアルマリアちゃんを起こしてらっしゃい。――ねえパパ」


「はい」


「いくら娘が可愛くても父親として適切な距離感というのがあるわよね」


「はい」


「女の子はとても繊細なのよ。今までと同じように接してもいいと思っているの?」


「……思いません」


「今はこれくらいにしておくけど今夜は朝までみっちりお説教するから。ついでにクリスとアルマリアちゃんに弟か妹ができるかもしれないわね」


「はい……、頑張ります」




 家に入る直前に振り返ってみる。

 なぜかお説教を受けることになった父さんの背中が、母さんより小さく見えた。



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