14話 二つの歯車
猛獣の突進に合わせ振り下ろした木槌。
目算では最高のタイミングで足元の板を割れるはずだった。
不意を打つ眩暈さえなかったのならば。
「肝心な時にっ……!」
魔力が底をついていたことを誘因とする不調。
それが木槌の速度を一呼吸分遅らせてしまった。
木槌の平はアイアンシザーグリズリーの額と衝突する。
クリスでは持ち上げるのがやっとだろうが同じ鈍器の部類であるならば金属でできた、メイスやウォーピック、ルッツェルンならば重さ、硬さ、鋭利さでもって頭蓋を一撃で砕くことができただろう。
力量に過信のない熟練の戦士で、上記に挙げた得物を用いたのならば手段としてはハイリスクではあるものの、一撃必殺のリターンを見込める。
いずれの条件も満たさなかった場合、悲惨な展開を迎えることになる。
頭突きは木槌を受け止めとめるどころか、勢いを減衰することなく加速して、眩暈で体勢の安定を欠いていたクリスを肩で突き飛ばした。
巨漢すら空中遊泳を余儀なくされる突進。彼女の体は放物線を描いてゴミでも投げ捨てられたかのように転がっていった。
「あぐっ!うう…………アル……」
不幸中の幸いか、土が柔らかく草が生い茂ってクッションとなっている場所に落下したおかげで重傷は避けられた。無意識に受け身をとって衝撃を逃がしていたのもある。父親の指導が彼女の命をすんでのところで繋いでいた。
目下のところ深刻なのは外傷よりも精神力の摩耗である。前述の魔力切れに追い討ちとして身体に走った衝撃はいくらか和らげたとはいえ立ち上がる気力をことごとく刈り取っていく。
かろうじて意識を手放すことなく踏みとどまることができたのはアルマリアが同じ方向に飛ばされたからだ。
傍らで地に伏す彼女にまだ息があると確認できて平衡感覚を失いそうな鈍い痛みに苛まされる中、安堵する。
「よかった……。生きてた。ギンジさんは無事かな……早く、早く何とかしないと!」
一方、アイアンシザーグリズリーはいかに頑強な骨格に守られているとはいえ、自身の突進が生み出した運動エネルギーをぶつかった木槌から反射で受けている。脳震盪を起こしているようだった。
加えてここに来て失血が脳の酸素不足をもたらしている。意識が混濁して肉体強化の行使もできなくなったが、それでも殺意は些かも衰えていない。驚嘆すべき執念でふらつき足を引きずりながらも着実にクリスに迫っている。
「アル……今までありがとう。こんなことでしか恩を返せないけど、今度はボクがアルを助けるよ」
口腔内に充満する鉄錆の味を飲み下してクリスはアルマリアを背負って立つ。
背後から感じる荒々しい唸りに押されながら退路を目指す。
アイアンシザーグリズリーの気配は確実にクリスを追っている。
ギンジが標的にされることはないだろう。
「アルは逃げろって命令したのに……。これって誓約を破ったことになるのかな……?
だけどキミを見捨てるなんてできるわけないじゃないか。家族なんだから」
何度も想定外の事態に心を挫かれそうになったが、アルの命だけは守らなくてはならない。
考える。この場を切り抜ける手段を。
1秒を100分割に、その100分割を1000分の1にして。
この窮地を唯一打開できる術策を検討する。
逃走は残存体力の枯渇により困難。敵の体力は未知数のためいつ怪物的運動能力が復帰してもおかしくない。
したがって目に見えて戦闘能力が低下しているこの時に殺すことこそ至当。
まず元々のプランである落とし穴への誘導は断念する。現状では距離が開きすぎてしまっているからだ。
ならば答えは単純にして明快。己の肉体をもって直接命を奪うこと。
しかし、それを実行することのなんと難しいことか。
「合成弓さえ無事だったなら!」
発見時と逃走の際に放った二射。
牽制でありながら毛皮と筋肉の鎧を貫いたあの貫通力さえ実現できるなら勝機はある。
そもそも性能を確かめる暇さえあったなら無防備な背後から急所をじっくりと定めて仕留められていたかもしれないのだ。
仮定の話はさておき、肝心の合成弓は修理どころか一から作り直した方がマシな有様で罠付近に散らばっている。部品の回収などもってのほかだろう。
頼れるものは戦闘用ですらない小さなナイフのみ。
無論、雑貨のナイフを武器に昇華させる短剣術のスキルなど持っていない。
レッサードラゴンの一種、ワイバーンを一人で生きたまま解体してのける、短剣の扱いに卓抜した達人がこの国にはいると父から聞いたことがあったが、その人物の戦いぶりは当の父ですら足元に及ばない天才で、参考にできるものはなかった。
凡才のクリスが何度急所に突き立てたところで先に刃の方が使い物にならなくなると想像するのは容易である。
それでもこの難事をこなさくては。
アイアンシザーグリズリーの爪をかいくぐり、唯一反撃を受けることのない背に組み付いて出血のおびただしい肩口を抉り続ける。
根くらべを挑むつもりだった。
クリスはアルマリアを茂みの中に隠すためぐったりとして動かない彼女の体を下ろそうとした。
「…………クリス……妾は逃げろと命令したぞ……まったく、汝は本物のうつけじゃ……」
「アル!!起きたの!?」
アルマリアが目を覚ましてクリスの目の端に涙が浮かぶ。
「あまり大声を出すでないわ、頭に響く」
煩そうにされたが悪態をつく余裕があることに嬉しさを堪えきれない。
「よかった!無事で」
「竜の再生力を見くびるでない。
些事は捨て置き、汝は今あの“ほーんぼう”とやらがあればと言ったな」
少し前から意識が覚醒していてクリスの呟きを拾っていたらしい。
また、とうに放棄した手段をアルマリアが蒸し返してくるとは思わなかった。
「うん。でもあれはもう壊れて使えない。予備なんてないし、張り替え用の弦は持っているけどどうにもならないよ」
合成弓があれば相手の動きが鈍った今なら勝てる。
だが、ないものねだりをしても仕様がない。
「角ならばここにあるではないか。汝の欲するものはここにある。角と弦さえあれば弓というものは成立するのではないか?まずは弦をよこすのじゃ」
「弦って、何を……?」
クリスにはアルマリアが言わんとすることが飲み込めなかった。
材料を提示されただけでこの火急の事態を収拾させられるわけがない。
合成弓の製作には5日間を要したのだ。
アルマリアの角を切り取って基礎となる木材と接合させ、弦を張るということだろうか?
いかに優れた職人であってもこの工程を3分にも満たない時間で成し遂げるなど匙を投げるしかないだろう。
何か考えがあるらしいアルマリアに弦を渡そうとする。
右肩に背負われたままのアルマリアは弦ごとクリスの手に噛みついた。
「痛っ!」
アルマリアの牙が皮膚を破って大きな舌が血を舐める。
「動くでない。妾とて上手くゆくか分らぬのだ。我慢せよ」
「え?これは融合と同じ?ううん、少し違う」
クリスの左腕にアルマリアが闇となって纏わりつく。
これまでその闇は髪色に反映されていたが、腕から離れず留まっている。
ぼやけた輪郭が徐々に形を作っていく。
「鎧だ」
肩から手先までを覆ったのは漆黒の甲鉄だった。
本来のアルマリアの肌とは違う硬い鋼の触感。
腕にフィットする細身で薄手のつくりであるためか衣服と比べても遜色ないほど軽い。
手甲にあたる部分の装甲は隆起していて厚く、アルマリアのトレードマークである角は手首より後ろの位置に弓状に広がって生えている。
両端がクリスの持っていた弦で繋がっていてこれは、
「まさかこれって弓……?」
見た目でそう判断したが弓と呼称するにはそれは異形であった。
腕に接着しているというというのが一つ。
これでは弦を引きづらく張力を確保できない。そもそも指をかけるべき箇所が装甲に覆われているため、触れることすら不可能だ。
さらに角の付け根である手甲部分の装甲が入りくんでいることが奇妙極まる。これについては内部の構造が複雑な機巧を形成しているからなのだと根拠もないのに確信できた。
「角でできた弓には違いなかろう。妾の身を一時とはいえ武具に貶めるなど腹立たしいことこの上ないが狼藉者を討つためとあらばやむを得まい。クリス、矢筒を持て」
「うん、こう?」
矢筒のベルトを外して装甲に覆われた指で掴む。
矢筒は闇に包まれて消えた。
直感的に部分的な鎧と化したアルマリアの中に移ったのだと察する。
それだけの質量が腕に加わったように感じないが彼女の力が支えているのかもしれない。
『かつて我が同胞を友とした小さきものがおった。
そやつらの見よう見真似よ。石弓と言っておったか』
石弓。
それは太古の時代から発想はあったが、現代では趣味人がごく少数のみ生産していて流通量はほぼ皆無の武器である。
その特長は誰にでも扱うことができ、均一の威力を発揮できる。
引いた弦の維持を使い手が担わずともよいため、狙いを定めるのが容易だ。
それらのメリットを兼ね備えていながら石弓は世に台頭することはなかった。
石弓は発射のプロセスが間接的であるためか弓術スキルの恩恵を受けないからである。
スキルによって威力が向上する余地がなければ、性能の向上を図らない限り魔物の堅牢な鱗や毛皮を破ることはできない。
複雑な構造が仇となって壊れやすく、威力を確保しようと欲すれば大型化して重くなってしまう。
人が携行しうる石弓の最大重量はツーハンドソードやハルバードに匹敵し、近接武器の心得があれば矢を射る武器としてではなく、鈍器として扱った方がまだ効果的なのだという。
他に殴打に適した武器はいくらでもある。
正気で石弓を愛用する者は皆無と言っていい。
弓に携わる以上、クリスとて名前だけは知っていたが実物を目にするのは初めてだ。
ましてや人工物ですらなく、竜の異能によって誕生したものなど。
『終わりにするぞ、クリス。妾は腹が減った』
「そうだね、アル。後でアルが牛さんと見分けがつかなくなるぐらいご馳走してあげる」
地上最強の覇者、竜からなる手甲の内部で最弱の烙印を押された兵器がひとりでに稼働する。
微かに残った魔力が左腕に吸い上げられ、動力として循環。
機械仕掛けの竜が狂いなき精密さで規則的な金属音を刻む。
巨大な黒曜石を砕いて削って作り上げたような無骨な回転矢が装填された。
動き出した機巧に従い巻き上げられた弦が陽光を反射して艶めく。
金属音が止むのに5秒も要しなかった。
射手の心魂に引き金が預けられる。
クリスは無言でおよそ10m先から殺意をぶつけてくるアイアンシザーグリズリーに石弓を構えた。
敵を屠るためであれ、糧を得るためであれ、他者の命を奪う行いはなべて悪鬼の所業。
狩人を生業として選んだ時点で正義も善も語る資格は持たない。
故に己が役割に準じて一切の感傷を介入させることなく無我でアイアンシザーグリズリーを殺害する。
数千、数万年の時を経て甦った古の竜騎兵が再び力を振るう。
クリスは引き金となる最後の魔力の一欠片を石弓に注いだ。
黒い矢が餓狼じみた貪欲さで空間を喰らい、視認を許さぬ鋭さで飛翔する。
矢羽が通過した周囲のものは余波で歪み、鋭利な刃物で切りつけられたかのように断裂。
アイアンシザーグリズリーの瞳孔は歪む世界そのものに遮られて矢の尖端を映すことはない。
避けられぬまま胸板に食い込んだ。
体内に侵入した矢は爆散して全身を骨も筋肉も内臓も何もかも区別なく用をなさない肉塊に変えるまでズタズタに切り裂く。
いかなる能力によるものか一矢に矢筒の中の全てが束ねられており、無数の鏃をまき散らして夥しい血肉をクリスの付近まで叩きつけた。
急所を見抜きづらく生命力の高い大型の魔物を一度の矢で仕留めようとアルマリアが仕掛けた工夫。
点の攻撃であることを逃れ得ない弓の泣き所を克服した矢であった。
古代竜最強を自負するアルマリアをして慮外だったのはその無慈悲なまでの絶大な破壊力。
生活魔法を発動するのがやっとの魔力しか注いでいないにも関わらず、恐るべき結果を生み出していた。
アルマリアは悟る。彼女が下僕にした少女はとてつもない何かを秘めている。
彼女のみでは再現できない竜騎兵の力を射手の異才が成し遂げたのだと。
全力を出し切って崩れるクリスを胸中で労いつつアルマリアの意識は共に途切れる。
そして、原形すら留めぬアイアンシザーグリズリーの骸は大地に沈んで、その場を赤黒く染め上げた。