13話 誓約
『……リ……ス!』
一体となって心のすぐ傍に寄り添ってくれているはずのアルの声が遠い。
遠ざかっている。
凍えるように寒い。
手足の指先の感覚が失われている。
辺りは村の景色ではなく一面の闇。
星のない夜空。
『……リス!』
アルがボクの名を呼んでいる。
返事をしないと。
ボクはアルの下僕だから。
「ア……」
うまく発声できない。喉を震わすことはできるのに。
空気を取り込む肺が稼働していないためだろう。
それも当然と言えば当然と言えた。
ボクは胸を深く切り裂かれてしまったのだ。
命そのものが風前の灯火にあるのに、声を出すことなどできようか。
ごめんね、アル。
あれだけ格好つけておいて、失敗しちゃったよ。
ボクはもう駄目みたいだからアルは逃げて。
『ク……リス!』
ごめんね、アル。
君の作る世界を一緒に見てあげられなくて。
『クリス!』
父さん、母さん、ごめん。
「クリス!汝はまだ死んではおらぬ!致命傷には至っておらぬ!竜の下僕となったからには簡単に死ねると思うな!目を覚ませ!
汝の奉仕はまだまだ不足も甚だしいぞ!妾と交わした誓約を果たすのじゃ!!」
誓約。
アルとボク、人と竜を繋ぐ架け橋。
短い間だったけど確かにあるボクたちの絆。
生きているなら果たさないと。
「誓約がある限り、妾は汝、汝は妾なのだ。汝の負った傷は妾も分かち合おう。
汝が苦しむのなら妾の身を分けても汝を癒そう」
アルとの間に何か途方もなく巨大な熱の塊の存在を内に感じた。
それはとても温かくて、力強いのに春の陽気のような生命を祝福する柔らかさがあった。
停滞していた血液が循環を再開する。
冷えきっていた肉体に体温が戻る。
指先に痺れるような痒みが残るのは甦った証なのだろう。
「アル、ありがとう」
「馬鹿者、礼は生き延びてから言えと言ったであろうが。
あやつめが勝ち誇って吠えておる内にさっさと起きよ。
今ので魔力の大半を失った。策も通じぬとあっては致し方あるまい、ここは一旦退くが正解じゃ」
「逃がしてくれるかわからないけど最善を尽くすよ」
目を開いて素早く体を起こす。
アイアンシザーグリズリーの爪を受ける前、咄嗟に盾にした弓はバラバラになって破損していた。
ほんの小さな差でも即死を免れたのはそのおかげかもしれない。
アルが治してくれた胸の状態を確かめたいところだけど今は逃げるのが先決だ。
「近くに子供の頃作ったツリーハウスがあるんだ。そこに行こう」
ツリーハウスを支えるのはカルデ村の名の由来となるカルデの木で、とても頑丈で太い。
いくらアイアンシザーグリズリーでも伐り倒すのは至難の業であると言えよう。
ただ、この至近距離で逃げるのは苦難の道。
もう少し成功率を上げてやらなければ。
ベルトに吊っていた携行性に優れた武器、スリングショットの柄を握る。
威力は小動物しか仕留められない貧弱なものだけど、それでいい。
ポーチから用意していた玉を1つ掴んで鼻先を狙った。
この距離なら腕前の低いボクでも決して狙いを外すことはない。
「これはさっきのお返し!古代竜も悶絶するトンガラの実を味あわせてあげる!」
ゴム紐を軽く牽引して玉をぶつけてやった。
鳥の卵の殻でできたそれは衝突によって弾け、粉末状になったトンガラの実をあますことなく、顔面に浴びせる。
「グォッ!?オアアァァァッ!?」
効果覿面、五感の鋭敏なアイアンシザーグリズリーは矢で貫かれた時以上に苦悶に満ちた絶叫をあげた。
滝のような涙を流して痛みと戦っているためにボクに意識を割く余裕は見えない。
「肉体強化はまだいける?アル!」
答える前に魔力が体を巡る――が、それはほんの一瞬のことで急速に霧散した。
「すまぬ、クリス。魔力不足じゃ」
そう言った直後にアルとの融合が解けた。
傍らに黒い竜の姿が立つ。
「飛ぶのはできそう?」
「問題ない」
「じゃあついてきてアル!」
蘇生からの全力疾走に体が悲鳴を上げるが、頓着せずに足を動かす。
しかし、アイアンシザーグリズリーはボクの想像を凌駕する回復力を発揮した。
というよりも激痛に対する耐性が強いのかもしれない。
こちらを追うために前足を地に下ろす。
肉体強化された足で追われたらボクでは逃げ切れない。
どうする!?もう一回トンガラの玉をぶつけるか?
「クリス!間に合ったぜ!うおおおおおおおお!!!!」
逡巡しているとギンジさんの声が轟いた。
後ろを振り向けば片手に鈎鉈を振りかぶり、アイアンシザーグリズリーの背に叩きつける光景が目に映った。
鈎鉈は毛皮を赤く染めて肉に食い込むが、力の強いギンジさんでも引き抜けない肉質の硬さのようだった。
それは攻撃する前から予測していたのか、すぐに柄から手を離してアイアンシザーグリズリーを威嚇する。
「こっちだ熊公!俺が相手をしてやる!」
ギンジさんはもう片手に担いでいた大木槌を構えて罠の上に移動する。
その意図は明らかだった。
罠の上に乗ったタイミングで板を叩き割り、諸共に落下するつもりなのだ。
「ギンジさん!」
「頑張ったなクリス。ここは俺に任せとけ。
俺の息子がでかくなったら仲良くしてやってくれや」
ギンジさんはこちらを見ず、アイアンシザーグリズリーに視線を集中させて言った。
アイアンシザーグリズリーはギンジさんに向かって突進する。
大木槌を振り上げて迎えるが、肉体強化のかかった動きは彼の動体視力で捉えられる速度ではなかった。
「ぐあっ!カハッ!」
頭突きを腹に受けて7~8mほどの距離を飛ばされ、木の幹に激突してしまう。
ギンジさんは身動きひとつしない。
呼吸をしている様子も……。
「グルルルゥ……」
邪魔者を排除したことを見届け、アイアンシザーグリズリーはボクに向き直った。
お前の悪あがきもこれでお仕舞いだと口元が三日月の形に歪んでいる。
刺激物を受けたことで目が異様に充血していて、それは自分がしたことなのだけれども、不気味な形相だった。
ギンジさんの意識を一撃で刈り取った突進の姿勢をとる。
アルの補助なしで避けられるか……?
「クリス!妾が気を引く!汝は逃げよ!」
「え?アル!何を!?」
空で様子を窺っていたアルがアイアンシザーグリズリーの頭上に降下する。
後頭部に食らいついて動きを止めさせた。
しかし、いくらアルが力持ちといっても絶望的な体重差を覆すことができないのか振り回されている。
かじりついていられるのもほんの短い時間でアルの体は剥がされて、太腕のスイングを受ける。
硬いもの同士を打ちつけた時のような鈍い音がした。
「ガッ!?」
ギンジさんより軽いアルは遥か遠くまで飛ばされて、茂みの中を転がってそのまま動かなくなった。
鎧袖一触の圧倒的暴力。だからこそアイアンシザーグリズリーは恐れられている。何百年も代々村人に決して消えない恐怖の記憶を刷り込むほどに。
「アル!……そんな!?アルまで」
とうとうボク一人になってしまった。
アルはボクにただ力を貸してくれるだけじゃない、ボクの心の支えでもあったのだ。
胸が張り裂けそうなぐらい痛かった。
アイアンシザーグリズリーに負わされた傷の痛みなんて比べ物にならない。
ほんの短い付き合いにすぎなくて、主従関係を結ぶ誓約が感情を震わせたのだとしても芽生えた悲しみに嘘偽りはなかった。
ボクは知っている。
アルはこの世の生物の頂点に君臨する暴君にしてはとことんお人よしで、誇り高い竜なんだって。
食い意地が張ってて昼寝ばかりしていて傍若無人というかやんちゃな子供みたいだけど、見捨てても何の得にもならないボクを出会いからずっと助けてくれた。村のみんなのことも。
竜の価値観はよくわからないけれど、どんな生き物でも彼女が自ら民だと認めたのなら守るべき存在なんだ。
往時の強さはなくても体を張ってくれている。
そんなボクのご主人様、違う、家族が傷ついているのを見て平気であるわけがない!
一刻も早く、アルとギンジさんを助けなくては!動揺に時間を割いている暇なんてないんだ。
ならばどうすればいい?
今の手持ちの武器はスリングショットとナイフ。
斧と鉈は逃走の妨げになるから置いてきている。
殺傷力のないスリングショットは言わずもがな。トンガラの実で作った玉も効き目があるか怪しい。
ナイフは刃渡りが短く、武器というよりは雑貨として扱うのが適当な代物。
よしんば突き立てられたとしても薄皮を裂くに留まるだろう。
唯一のアドバンテージである足の速さも肉体強化によって覆されている。
逃走が成功する望みは薄い――が、時間を稼げればアイアンシザーグリズリーを失血によって死に至らしめる可能性がないでもない。魔力を練るだけの精神力も削れるかもしれない。
逃げることこそが最も妥当な選択肢。
だというのに、ボクはギンジさんが残した大木槌を目で追っていた。
落とし穴のすぐそばにあってアイアンシザーグリズリーの背後にあるそれを。
タフな2人だ。まだ息はあると思う。
アルとギンジさんには生きていて欲しい。
ボクが撤退すれば意識を失っている2人に止めを刺されることは十分あり得る。
だから、
「アル、短い間だったけど一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、兄弟ができたみたいで楽しかったよ。父さんと母さんのことよろしくね」
アイアンシザーグリズリーが地を蹴ったのと同時にボクも飛び出した。
ボクは相手の負傷した足の側に踏み出す。
そちらの方が小回りを利かせられないだろうからだ。
目論見通りお互いの体がすれ違う。
トンガラの実が涙腺を刺激していて視界を狭めていたのも功を奏したのだろう。
「とった!これで……!」
木槌の重さを確認する。
持てないほどじゃない。
やれると判断して一旦木槌を足元に下ろし、スリングショットを構える。
アイアンシザーグリズリーは突進の手応えを得られなかったことに気づいてターンし、こちらに向かって直進してきた。
突進の気勢を削ぐため、トンガラ玉をあるだけ狙いもそこそこに発射。
盲撃ちでも回避する気のない相手には簡単に命中する。
苦悶の叫びを上げることはなかったが、足運びは確実に鈍っている。
ボクはスリングショットを捨て、木槌を担いで落とし穴の上に立った。
狩人として鍛えた眼力を研ぎ澄まし、タイミングを見計らう。
極度の緊張で肩が脱力しているような錯覚を覚えて二の腕が震える。
恐い。
死ぬのが恐い。
失敗しても成功しても同じ運命を受け入れなければならないことが心底恐ろしい。
「でも、アルが死んでしまうことの方がボクは恐い!
だからせめてお前も道連れにしてやる!!」
木槌を天に掲げ、渾身の力を込めて振り下ろした。
13話、誤爆で執筆中の未完成のものを投稿してしまいご迷惑をおかけしました。
お詫び申し上げます。
お待ちしていた奇特な方、スランプでご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。
次話の構想が固まっていますのでなるべく早く形にします。