1話 迷子と熊と竜
「なんとか逃げ切れたけど、これからどうしよう……」
今年で15になるのだが変声期を迎える様子もなく、村の同世代の男達からは女みたいと揶揄される高い声で途方に暮れる。
女といえばボクの容姿も村一番の美人と評判の母さんに似た美人顔かつ童顔で、小作りの目鼻立ちに、薄い唇をしている。
また、幼馴染みの女の子リズから『あたしよりハリとツヤがあって羨ましい!』とありがたくない嫉妬を受ける栗色の髪はショートボブに切り揃えられている。
散髪は母さんにやってもらっているが、母さんはいかにボクを女の子よりかわいい男の子にするか心血と人間性を捧げているそうで、これ以上は短くできないし、絶対にさせないと意気込んでいるので、せめて髪型だけでも男らしくしてほしいという願いは無理な相談であった。
ボクとは逆に父さんは端整な甘いマスクの持ち主で、そちらに似ればよかったのにと思っている。
青い瞳は父さんから受け継いだ唯一の特徴なんだけど、人目を惹く澄んだ色合いなんだそうでかえって女の子らしさが増す要因になっていた。
ボクがどの程度女顔かといえばたまに村にやってくる行商人さんや冒険者さんなんかの初対面の人には確実に女の子に間違われる。
女顔に加え、父さんに鍛えられてはいるけれど細身の体型が誤解を生む要因なのかもしれない。
先日まで村の近辺に現れた魔物、アイアンシザーグリズリーを退治するため逗留していた冒険者のおじさんは最後までボクのことを女の子扱いしたあげく、気付かないまま村を去ってしまった。
そのおじさんはボクと同じ女性みたいな名前をしているのに背が高く筋骨隆々としていて、渋くてなかなかの男ぶりの強面の男性である。
外見の印象に違わない堅実な実力の持ち主で大きな剣を振り回すのがとても様になっていた。
お酒好きなのと女好きでスケベなのは玉に瑕だけど、荒くれ者揃いといわれる冒険者の印象を変えてしまうくらい優しく繊細なところがあって父さんと同じくこんな大人になりたいと憧れている人だ。
現実逃避したいあまりに話が逸れてしまった。
深呼吸してパニックを起こしそうな精神を必死に宥める。
まずは現状の分析をしよう。
狩人の見習いであるボク、クリスは自宅のあるカルデ村からさほど離れていない――と思われる、土地勘があるはずの森の中で迷子になってしまった。
平民出身でありながらかつては王国騎士の中でも弓の一番手とされる弓聖の称号を与えられ、引退後は故郷であるカルデ村で一流の狩人として働き、村人から尊敬されているボクの父さんは弓や罠を設置する腕前よりも、森の空気、そこに住む生き物の息遣いを知ることこそが肝要なのだと、森で生き抜くための術を説いてくれたのだが、天才である父さんと違い、出来の悪い生徒であるボクは半分も飲み込めないでいた。
遅々として成果の実らないボクにいずれ分かるときが来る、焦る必要はないと慰めてくれたのだが、死んでしまっては元も子もない。
例え浅い探索でも森を甘く見てはいけないと耳にタコが出来るぐらい聞かされて育ち、常日頃から戒めていたのにこの有様で、自分の不甲斐なさに嘆きたくなった。
救いようのないことにボクの不注意が迷子の原因の大半を占め、いくつかの不幸が重なって森からの脱出を困難たらしめていた。
まずは太陽の光が拝めない曇天具合。
光の傾斜から方角にあたりをつけることができない。
保険として、出発地点で予め設定しておいた魔力に反応して方位を示す魔道具――アーティファクト(コンパスのようなもの)は所持しているのだが、村の方角を示すはずの針はぐるぐると回転し続けており、故障としか言えない有様であった。
カルデ村は基本的に物々交換で成り立っており、現金収入に乏しいので基本的に高価とされるアーティファクトはとても貴重である。
このアーティファクトは父さんの騎士時代のお古であり、ボクの誕生日にプレゼントとしてもらったものだが、家族の絆をもってしても現状打破に役立つとはいえなかった。
道具は道具と割り切って過度な信頼を置くべきではないのだ。
そも天候が悪いという時点で狩猟に出るのを見送るべきであった。
安全の見極めができていないからこその半人前。
昨日、村から徒歩で一週間ほどの距離にある町に出かけた父さんの代わりを務めようと奮起して冷静さを欠いていたのがよくなかった。
それにもう一点、これが迷子の致命的な原因なのだが、アイアンシザーグリズリーに出会ってしまったのだ。
森の浅いエリアでは滅多に出没することのない(100年に一度あるかないかだと村長は言っていた)魔物なので以前に討伐された個体とはつがいだったのかもしれない。
アイアンシザーグリズリーは魔物の危険度を定めている冒険者ギルドによればBランクと位置づけられている。
魔物の等級はE~Sまでに分類されており、Bランクの魔物は大雑把に言えば人として凡人の壁をひとつ越えたところにいなければ太刀打ちできない存在とされている。
冒険者の等級も同様の分類で魔物と同じランクに到達した時、挑戦するのに適正レベルになったと判断される。
大半の冒険者がCランクで生涯を終える。
Bランクになるには並みならぬ努力が必要で、Aランクからは本物の天才しかなれないという。
つまりアイアンシザーグリズリーは熟練の冒険者や元騎士の父さんでなければ単身で討伐できない魔物であって、どのように過大評価しても最底辺のEランク相当の実力しかもたないボクが敵う可能性はゼロだ。
逃げるより他にない。
幸運なことにアイアンシザーグリズリーは何らかの原因で足を負傷しており追跡の速度はかなり落ちていた。
こちらも死にたくないと全力で駆け回ったおかげもあって何とか逃げ出すことができたのだが、我を忘れて闇雲に走ったせいで足を踏み入れたことのないエリアまで来てしまったのである。
村周辺の森の植生や地形はある程度把握しているが全く心当たりのない場所だ。
方角の感覚が狂ってしまっているので帰り道どころか村からどれだけ離れてしまったのかも分からない。
これだけ最悪の条件が重なっていて現況を迷子とするのはあまりに軽度な表現にすぎる。
正しくは遭難だ。
無闇に歩けば森の深みにはまる。
そう遠くない内にボクでは対処不可能な強い魔物や獣に遭遇し、アイアンシザーグリズリーの怪我のような都合のよい幸運でも起きなければ襲われて死ぬ。
村のみんなが心配して救助に動き出すとしても近場で狩りをしていると信じているため、ここまで来てくれる可能性は期待しない方がいいだろう。
ただ待っていても所持している食糧を浪費するだけでいずれは餓死する。
ボクは今詰みかけている。
「父さん、母さん、村のみんなごめんなさい……。
軽率な行動をしたボクを許してください」
一先ず懺悔しておく。
だけどまだボクは生きているんだ。
死ぬ前にすることがあるだろう。
「父さんのような一人前の狩人になるって決めたんだ。
まだ死んでやるもんか」
どんなに弱い獣だってこの森で生きるために死の間際まであがいているんだ。
ボクだって森の住人。
簡単に諦めては今まで殺めた獣達の命を踏みにじってしまうことになる。
生き延びるために、帰るためにはどうすればいい?
サバイバルに必要なモノ、能力を確認する。
まず、食料と水。
手持ちのザックに多めに入れてきたが、節約して1週間もてばよい方だろう。
あらゆるモノを時間の停止した空間に保管するという、アイテムボックスのスキルでもあれば事情は違ったかもしれないのだけど、ないものねだりをしても仕方ない。
大体10人に1人は持っているといわれる先天性のスキルでボクはその他大勢の選ばれた人間ではなかったというだけ。
次に装備だ。
獣を仕留めるための愛用の短弓と、手斧、鉈など弱い魔物であれば自衛に使え、草木をかき分けて進むための道具がある。
また、毛布として使えるマントやその他最低限の生活雑貨も。
残りの手札は生活魔法。
小さな種火を起こすだけのものが使える。
難しい魔法の勉強を敬遠してこれしか知らないのが手痛い。
村で司書兼医者をしているエルフのお姉さんは、ボクは魔力量に恵まれているから学んではどうかと誘われていたのだが、後悔先に立たず。
生きて帰ることができたら小難しい魔法書を嫌がらないで真面目に挑戦しよう。
さて、野宿をするだけの準備は整っている。
望みをかけるのはアーティファクトが調子を持ち直すことと、天気が回復すること。
その時まで生き延びなければならない。
まずは安全に潜伏できる場所選びだ。
隠れるのに適していて、かつこちらからは見晴らしがよいところはないだろうか。
……ある。木の上だ。
父さんの訓練で木登りはかなりやらされたから得意だ。
というか、あっ……高いところに移動して村を探せばいいんじゃないか。
至極単純な解決方法に気づいて目から鱗が落ちる。
ピンチに陥ったことで大分視野が狭くなっていたようだ。
試しに手近にある登りやすそうな低い木の頂上まで上がってみる。
「見えないか……」
視力には自信があるがどの方角を見渡しても緑色の地平線?である。
遠く離れすぎてしまったようだ。
昼前なので村の灯りも確認できない。
ならば他に見渡すのに良さそうな場所はないか?
――あった。
開けた場所があってそこに一本、ひょろりと細いが高さは保証付きの木が生えていた。
それにしても、あれは何だろう?
その木の傍におよそ直径にして15mぐらいの黒くて大きな岩のような集合体がある。
天井や床の染みを人の顔の形と認識してしまう例があるように、その岩の集合体は頭、胴、腕、足、尻尾からなる生物のように見えた。
見間違いでなければ翼まで生えているように錯覚してしまう。
こういった特徴をもつ生き物を何と言うんだったか。
そうだ竜だ。
低級の竜であるワイバーンすら直に見たことないが、本の挿し絵でなら見たことがある。
本物の竜ならば近づくのは極めて危険。
お伽噺に謡われる知恵の竜、古代竜に比べればアイアンシザーグリズリーなど蟻にも等しいという。
しかし、あれは生きている気配もなければ、圧倒的強者たる覇気も感じない。
単なる無機物のようだ。
これほど巨大な黒曜石があるなど聞いたことはないが、生憎と自分は鉱石のエキスパートであるドワーフではない。
いずれにせよ判別はつかなかった。
「とりあえずあの木に登ってみよう」
黒い岩は近くで見るとより巨大に感じられた。
丁度頭部にあたる部位の前にいる。
「これって歯なのかな……」
離れた位置から確認した時は死角になっていて見えなかったが、鰓を開いた竜の口腔に見えた。
目的を後回しにすべきでないのになぜか強く興味を惹かれて、牙とおぼしきものを撫でてみる。
『無礼者!軟弱な定命の小虫ごときが気安く妾の牙に触れるでない!』
突然、幼く可愛らしい女の子の怒声が頭の中に響いた。
「え?え?だ、誰?」
混乱して辺りを見回すがその声に相応しい女の子の姿はどこにもない。ボクの住む村以外近所に人里などないのだからいてはおかしい。
『どこに目をつけておる。妾の雄姿が目に入らぬとは汝はうつけか!』
また頭の中で声がした。
直感的に声の発生源はこの岩ではないかと悟る。
念話を行う魔法があると聞いたことがあるので恐らくそれであろう。
「あ、あのごめんなさい。まさか喋るとは思わなくて」
理由はよく分からないが怒らせてしまったようなので謝ってみる。
『うむ、妾に働いた無礼は本来であれば問答無用で極刑に処すところであるが、ほう、よく見れば汝はなかなかに美しい娘じゃ。磨けば光る原石じゃな。妾の側室に加わるのであれば特別に許す。
否やはないな?』
岩?は全く体を動かせないようで話方から感情の機微を察するしかないのだが、機嫌を直して鷹揚に言った。
娘って……ボクは人以外にも女の子に間違われるんだな……。
ショックだ……。
いきなり側室と言われてもピンと来ないが、命の危機をこれでもかと感じた後だ、無闇に否定して怒りを買いたくなかったので適当に頷いておく。
『この地に封じられてより幾星霜。どれほどの月日が流れたか覚えておらぬが久方ぶりに言葉の通じる相手じゃ。
退屈しのぎに付き合え。妾に謁見できる者は同族でも数えるほどしかおらぬ。光栄に思うがよい』
最初からそうだけど尊大な態度で会話の相手をしろと要求してきた。
相手が狂暴な魔物であると仮定するならば会話を持たずともボクが不用意に接近した時点で襲っているだろう。危険性はないようなので応じてみることにする。
「はあ、ではあの自己紹介から。ボクはカルデ村のクリスって言います。
それとボクは女じゃなくて男です」
『は?男じゃと?汝が?』
「はい、よく間違えられるんですけどね」
『あ、あ、あ、あり得ぬ!あり得ぬ!あり得ぬじゃろう!?
こんなにかわいい子が男のはずがないじゃろうが!!
汝はふざけておるのか!?
妾を謀った罪は高くつくぞ!』
「そう言われても事実なので……。
あ、でも服を脱げなんて言わないでくださいね。
それはちょっと困ります」
見た目は無機物とはいえ、女の子の声の持ち主に肌を見せるのは躊躇われる。
冷静に答えようと努めたものの、抑制できずほんのり顔が赤くなってしまったのを自覚しつつ答えた。
「……」
『……』
気まずい沈黙が続く。
最初に口火を切ったのは岩?の方だった。
『……まあよい、これはこれで愛でがいがあるというもの。
クリスと言ったか、当然妾の名は知っておろうな?』
当たり前の常識みたいに言われても初対面のはずだし、知らないものは知らない。
このあとまた怒るんだろうなと想像しつつ正直に答えた。
「えっと、ごめんなさい。知らないです」
『何!?汝は何処の田舎者なのじゃ!
世界の覇者、古代竜の女王たる妾の名を知らぬじゃと!?』
ほら、やっぱり怒った。
声質のせいで凄みは全然感じないけど。
少し申し訳ないとは思う。
それより今古代竜って言ったよね?
古代竜とはお伽噺で遥か昔この世界に暴君として君臨していたと言われる竜だ。
神の如き力であらゆる生き物の頂点に立ち、高い知性で栄華を極めた種族。
だが、現代で目撃されたという例がないように繁栄は続かなかった。
月の女神の子ども達とされている種族、魔人族と戦って相討ちになって果てたという伝承があるからだ。
と言ってもこの伝承もいくつかある内のひとつに過ぎず、彼らがなぜこの世界から姿を消したのかは闇の中。
この岩?さんは伝承の古代竜の女王様であるらしい。
「田舎というのは合ってますよ。
ボクの住んでいる村から一番近い町でも一週間は歩かないといけませんから。
古代竜というのは大昔に絶滅したって言われてます。
それこそ千年以上生きてるエルフの人でも見たことがないぐらい。
その、あなたの同族の方が王様をしている国があるなんて聞いたことありませんし」
恐らく古代竜が最後に存在していた時代は過去に遡っても千年単位ではきかないだろう。
『では妾の名はどこにも残ってはおらぬと言うのか?』
「たぶん。偉い学者さんなら知ってるかもしれないですけど」
『ふむ……ならば妾の名を民どもに再び思い出さねばならぬな。
よかろう。妾の名はアルマリア・エンペリウム・フォン・シュバルツシルトである。愛妾たる汝には名で呼ぶことを許す』
「アル……?」
急に言われても覚えきれない。
偉い人はどうして長い名前を名乗りたがるのだろう。
まさか竜にまでそんな文化があったなんて。
不便じゃないのかな?
首を傾げてもう一度訊こうとする。
「ごめんなさい。そのもう一度……」
『ええい!妾は寛容ではないぞ痴れ者め!二度は言わぬわ!』
ええ、言うと思ってました。
「それじゃアルさんと呼んでも?」
怒られたことに少々涙目になりつつ窺ってみる。
『……それでは間抜けな気がする。ふう……可愛いというのは卑怯なものよ。妾のことはアルでよい』
二文字に短縮されるとは随分と呼びやすくなった。
『ところでクリス、汝は一人なのか?』
「あ、そうなんですよ。実は森で迷子になってしまって。
アルを見つけたのも偶然なんです。一人といえば、アルはいつからここに?」
『分からん』
「分からない?」
『妾は退屈を好まぬ。生きた年月を数えることになんの意義がある?もっと変化に富んだものを眺めておるのが有意義ではないか。今空を羽ばたいておる鳥は丸々と太ってうまそうじゃとか、そこになっている木苺の味は色が濃いほど甘いのかとな。動くことが叶わずとも我が身にどれほどの影響を与えうるものなのか想像する方が楽しかろう?』
……。
ボクにはアルの体験している退屈、いや、孤独がどれだけ心を苛むものなのか空想することでしか共感できないけれど、もし、ボクがアルだったとしたら寿命が千年あろうと耐えられなくなって発狂してしまうであろうことだけは確信できた。
「それはつら……」
「グルアアアオオアアァァァァ!!!!」
ボクの紡ごうとした言葉は背後から発せられた大音声の雄叫びにかき消された。
背中に怖気が走る。
人一倍臆病な部類であるボクは足がすくんだ。
振り返ってソレの正体を確かめたくなかった。
しかし、身を守るためには振り返らざるを得ない。
死の恐怖に急き立てられてボクはゆっくりと首を回した。
真実を確かめて絶望する。
眼前にいたのは獲物に逃走されて憤怒に容貌を狂わせたアイアンシザーグリズリーだった。
後ろ足で仁王立ちになると2mを越す威容。
トレードマークである大バサミのような鋭い爪を見せびらかしてお前をこいつの餌食にしてやると言いたげに唸り声をあげた。