其ノ6 殿のお仕事(★)
次の日の朝、相変わらず暑苦しい空気にたたき起こされた俺は重い瞼と戦いつつ大きなあくびをした。
結局昨日は、一日中琳にあれこれ教えてただけで有意義に休むことはできなかった上に、それが夜遅くまでかかってしまったのでかなりの寝不足である。しかし、だからと言って二度寝するわけにいかない理由が俺にはあるのだ。
「……くぅ……」
目がショボついて視界がぼやける。暑苦しくてこれじゃとても快眠できるような状況じゃない。
琳はというと、すぐ横のテーブルに顔を伏せすーすーと寝息を立てて寝ている。昨日あそこであれこれやっていたら頭から煙を出してショートしてしまい、気絶してそのまま寝てしまったのだろう。
「……てか、幽霊って寝るのか?」
よくわからんなぁ、と心の中でつぶやきつつベッドから出たタイミングで琳の目が覚める。
「……んぁ……あ……」
「よう」
「ふぁ……おはようございま、しゅ……」
言葉に勢いがなく、呂律も上手く回っていないことを見るにこいつも寝ぼけている。朝早く起きる習慣があったとはいえ、やっぱり幽霊だから朝日は苦手なのだろうか。
それにしても、この陽気の中でよくもまあスヤスヤと寝れるなぁと内心で感心し、それを無理に起こそうという気にはなれない。
「眠いなら寝ててもいいぞ」
「す……すいましぇ……n――」
琳は言葉を言い切る前に、また机に伏して夢の中に沈んでしまった。
やれやれと頭を掻きつつ部屋をそーっと出て洗面所へ向かい、顔を洗い歯磨きを済ませ、朝食の用意に取り掛かる。とはいっても、昨日は家から一歩も出ていないので買い物もできていない。よって、前日と同様に余り物や食パンで賄うことになる。
「あー、食パンと卵がなくなるな。今日特売やってっかなぁ……」
今日の用事が終わったら買い出しに行かないとなぁと面倒臭そうにぼやきながら、軽くトーストした食パンをかじる。そういえば、昨日の今頃にはあいつがやってきてパンを詰まらせてたっけなと思い出して、無意識に表情が緩んだ。
暫くして食器の片付けを始めるが、食べ終わるころになっても琳は起きてこなかった。昨日のパンのトラウマでも引きずっているからなのだろうか。だとしても物音ひとつ立てないのは、些か気にはなる。
(あ、幽霊だから物音なんてたてられないか)
何をバカなことを考えてるんだと自分を非難し、思考を遮るように食器をいつもより強くこすって洗う。
片付けが済んだあと着替えるために部屋に戻ると、さっき見た時よりも崩れて大胆な格好になっており、机に涎を垂らして熟睡していた。よくもこんな気温の中で二度寝できるなぁと少し羨ましく思ったが、逆にそれが寝られなかった俺に対する当てつけのように思えてきて、段々と腹立たしくなってくる。
「おい琳。さっさと起きろ」
「……すぅ……」
「琳! りーんー! このポンコツ幽霊!!」
「ふぁいっっ!!」
耳元で大きな声を出してやると、反射的に身体が飛び起きて目を覚ます。
「あ……殿……」
「『あ……殿……』じゃない。さっさと起きろ。行くぞ」
「ふぇっ……??」
起き抜けで思考が不安定な琳は、何が何だかわかっていない。
「行くって、どこへ?」
「俺の"仕事場"にだ」
――……。
――……。
――……。
まだ夢心地にいろいろフワフワしている琳の手を引いて、自宅のアパートを出る。うちは築数十年のボロい二階建てのアパートで、この一帯で一番家賃が安いのに風呂とトイレ付きの物件である。もちろん付いているといっても、田舎のおばあちゃん家にあるような、はるか昔に廃番になったであろう古びて薄汚れたものだが、一応まだ使えたので引っ越し時に買い換えなかった。
そもそもなぜ一人暮らしをしているのかというと、両親が数年前に事故で死んだからだ。原因は、酔っ払いが飲酒運転していた車と両親の運転してた車が正面衝突。検死をするまでもなく、全員即死だったそうだ。残された俺は親戚を探すことになったがあてもなく、その他引き取り手も見つからなかった。そしてそのまま高校を中退した後、両親の残した保険金や国からの補助金やらのおかげで、実家から少し離れたこの土地に引っ越してきて今に至る。
それから生活費を作るため仕事を探していたところ、運よく人手に困っているという求人があったのでそこを受けたのが今の仕事場。なのだが……、
「はぁ……」
今更だが、なぜこいつを連れて行かなきゃいけないんだ。いちいち鬱陶しいから置いてくるのが一番楽だし上手いやり方なのだろうが、なんせこいつは世間知らずの幽霊であちこちすり抜けたり飛んで行ったりするし、勝手に朝食をたかりに来た前科だってある。
家を出るまでに色々考えてはみたが、結果〈連れて行って監視する〉が今のところ一番被害の少ないやり方なのだろうと悟るに至ったのだ。家で何か起こされたり勝手に飛んで行って面倒事を起こされるくらいなら、初めから俺が監視していた方がいくらか安全だという結論に至ったのだ。
「殿は何のお仕事をしているのですか?」
起きてから時間が経って、やっといつもの調子が出てきた琳が後ろから尋ねてくる。
「えーっと……、行けばわかる」
「えぇっ!? 気になりますっ!」
「うるさい」
後ろでぶーぶー文句を漏らし始めた。さっきたたき起こされた不満も相まって、より一層口うるさくなっている。
「えーいっ、やかましいわっ!」
熱くチリチリに焼けたアスファルトの道に、汗の垂れた跡が一本の筋となって雅稀の後を引く。
――……。
暫くして、小さなコンビニがあるこげ茶色の建物の近くまで来た。建ててからもう十年近くになるらしいが、見た目はそう古くなく外観は新築みたいに整っている。コンビニ部分を含めると三階建てで、それ以外は普通のアパートと何ら変わらない。そして、俺の仕事場はここの二階にある。
向かいの通りの角に差し掛かったところで立ち止まり、後ろにいる琳の方を向いた。琳は俺の顔を見て、不思議そうにきょとんとしてこちらの様子を伺っている。
「よし、琳。今から俺の働いている場所に行くが昨日教えたことは覚えているか?」
「えっ? あっ、はいっ。確かここに……」
そう言って、袖の袋状になったところにしまってある自分のノートを取り出す。数ページ開いたところで、
「えーっと、お出かけするときの約束! 其の一、外では二人きりの時以外は喋らない! 其の二、知らない人や物には近づかない! 其の三、移動するときは常に殿の後ろで! 其の四――……」
片手でページをめくりながら、もう片方の手で指を折りながら読み上げる。まるで、小学生が教科書を読むように大きくはっきりした声でいくつもの決まり事を上げていく姿は、俺がやらせたことなのにいざ自分が琳の立場に立ったらどれだけ面倒なことをしているのかと、見ていて少し罪悪感が湧いてくる。
「――……其の十、絶対にはぐれない! はぐれたら殿の家にまっすぐ帰る!」
ようやく全部言い終わりきり、何か大きなことを達成した後のような満足そうにどや顔をする。
「……よし、よく言えたな。偉いぞ」
宙に浮いてる琳の頭を優しく撫でてやる。こういうのは"アメと鞭"で躾けるのが一番効率がいいと、よく漫画やアニメでも言っているからな。
「え、えへへぇ~」
小恥ずかしそうで、でも嬉しそうに撫でられている琳はご主人様大好きな子犬のようだ。撫でているこっちまで恥ずかしくなるくらいの、屈託のない笑顔を向けてくる。
(コイツ……意外とチョロい?)
いやいやこれも躾の一環。これを怠っていては後々自分にすべて跳ね返ってくるし、これからの生活にも後々関わってくる。締めるところはぎっちり締めて甘やかすところはとことん甘やかす。これぞ家城家秘伝の躾け術!
なんてことを頭の中で考えている間、琳は次の指示を目を輝かせて今か今かと待っていた。それに気づくと、慌てて脱線していた思考をもとのレールに戻して本来の目的を思い出す。
「……よし、それじゃあ行くぞ」
「はいっ!」
通りに車が来ないのを確認して素早く走り出す。コンビニには小さいパーキングが併設されているので、前の道にはガードレールが設置されてなくて、難なく渡りきることができる。
目的地の二階へは、建物の端にある鉄製の階段を使わなければならない。俺はコンビニの前をささっと横切り端の階段に片足をかけるが、なかなか急角度に作られているため見上げると二階がとても遠くに思える。こういう時に琳のように飛ぶことができるなら楽なのになぁと、チラッと本人を見ながら羨ましく思うが、琳は俺に見られていることには気づかずにこれから行くところへの期待と緊張でそわそわしていた。
階段を上りきると、右側には日陰になった通路が伸びている。この建物は、窓が南向きでドアがあるのが北側なので必然的に日中はドア側が日陰になっていて、夏場のいい避暑地になっていたりする。特に通路はひんやりとしていて風通しもいいので俺のお気に入りの場所のひとつだ。
「201・202号室、と」
この建物の一つの階に部屋は四つあり、俺の仕事場はそのうちの二つを貫通させて使っているため、表記はこのようになっている。
「ここだ」
「ここ、ですか……」
木製の古いドアに『201・202』と書かれた金属のプレートが取り付けられており、その下にはかわいらしいけどかなり不細工な猫の顔と手が描かれている看板がある。
【万事屋『猫の手』営業中】
「これ、なんて読むのですか?」
琳が俺の横についてまた尋ねる。ひらがなやカタカナは読めても、現代の漢字や英語などの言葉を読むのは難しいらしい。
「よろずやねこのてえーぎょーちゅー」
琳の質問にかったるそうに棒読みで答える。どうせ後々、色々聞かれるだろうと見抜いていたからだ。
俺は看板を眺めて、「営業中なのかぁ」と小さくぼやいてから諦めたかのようにため息を一つしてドアノブに手をかけた。