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其ノ56 この不幸な男にご利益を

 俺はおばあちゃんに付いてくるように言われ、もう少しこの涼しい空間に居たかった気持ちを我慢しつつ厚い紫色の座布団からお尻を離した。そこまで長く座っていなかったはずなのに、上半身に集まっていた血液が一気に足先まで流れていくのを感じ一瞬貧血に似た目まいを起こしたが、犬のように頭を左右に振るとそれもすぐに収まった。と同時に俺の服の裾が引っ張られるような感覚を感じ、気になってその方へ顔を向けた。


「殿、私達もご一緒してもいいですか?」


 服を引っ張っていたものの正体は琳で、片腕を胸の前に付けもう片方の手で裾をつまみ上目遣いで尋ねてきていた。


「ん? あー、ちょっと待ってな」


 俺は琳の頼みを聞いてから顔を上げ、部屋から出ようとしているおばあちゃんの背中に焦点を合わせる。


「あの、幽霊達も一緒に連れてってもいいですか?」


 おばあちゃんは俺に背を向けたまま質問を聞いていたが、言い終わってからゆっくりとその場で振り返った。


「えぇ、構いませんよ。みんなでいらっしゃい」


 まるで自分の孫を愛でるかのような優しい返事に、俺は思わずほっと安心してしまう。神社という神聖な場所に幽霊を連れてってもいいかなんて、普通の人なら先ず聞かないだろう。なのにそれを快く承諾してくれるこのおばあちゃんは余程人柄がいいのだろうか、返事の中からその懐の広さがうかがえる。


「だ、そうだ。二人ともついて行こう」


 俺はほっと安堵した顔をして、側にいる琳と沙夜姉にそう告げた。


「あ、ありがとうございますっ!」


 琳は眼を大きく開きビー玉のように輝かせておばあちゃんの居る方を向くと、精一杯のお礼の言葉と共に深く頭を下げた。それがおばあちゃんに見えないと分かっていても、礼儀として律儀に出来るのは琳の良いところである。


「琳、偉いわねぇっ!」


 そんな琳を傍らで見ていた沙夜姉が、ついに我慢できなくなったのか眼の色を変えて頭を下げている琳に勢いよく抱きつき、頭をわしゃわしゃと撫でながら熱い頬擦りを繰り返す。


「はわっ、さ、沙夜子さんっ! やめてくださいよぉ~」


 対する琳もいつものことなので沙夜姉への対応に慣れた様子で、抱き着いてくる沙夜姉の肩を両手で掴み付かず離れずの距離を保とうと肘を張る。しかしその表情は決して嫌々という訳ではなく、嬉しさ半分恥ずかしさ半分と言ったところだろうか。

 そんな光景が見えている俺はたまらず苦笑いしかできず、さらにそれを見ていたおばあちゃんは微笑ましいというような表情で俺を見つめていた。



――……。



「この神社はね、その昔この近くに住んでいたお姫様を祀るために建てられたのよ。なんでも自分の旦那が浮気をしていて、それに気づいたお姫様が怒り狂ってしまって旦那を殺そうとしたらしいの。それをなだめる為に、満月の夜に近くの湖へ自分の大切なものを捧げたことで仲が戻ったという言い伝えがあってね」


 古い木の板が張られている廊下を先に歩きながら、おばあちゃんは俺にむけて話を続ける。改めて後ろから見ると本当に叶実のおばあちゃんとうり二つの背格好で、髪型や刺している簪の位置までもが同じのため見間違えても無理はないと思ってしまう。着ている着物の色が違うことだけが、今のところ俺に解る唯一の相違点だった。


「その大事なものって何だったんですか?」


 俺が尋ねると、おばあちゃんはくるっと向きを変えて対面しズイっと大きく一歩踏み出して迫ってきた。勢いに押されて思わず片足が後ろに下がってしまい、逃げ腰になりながら見下ろしてしまう。


「男の子ならだれでも持っているものよ」


 おばあちゃんは「フフッ」と含みを持った笑みで答えると、迫っていた姿勢を引いて立ち戻った。


「男なら誰でも持ってるもの……金とか?」


 考えてもそれぐらいしか思いつかなかったので口にしてみるが、言ってから我ながら馬鹿馬鹿しい答えだと思い少し恥かしさが湧く。


「お金も大切だけど、もっと大切なものがあるでしょう? ほら、男の子しか持っていない物よ」


「そう言われてもなぁ……二人はわかるか?」


 そう言われて特にピンとくるようなものが無かったので、ここは一つそういうのに詳しそうな専門家たちに教えてもらおうと閃いた。俺は後ろに付いてきている琳と沙夜姉へ首を回して尋ねるが、俺と目が合った途端に琳は慌てて顔を赤らめて背け、沙夜姉は赤い着物の袖を口元に持っていきドン引きした顔をしてしまった。


「……なんだよ。二人そろって俺がアホだって馬鹿にしてるのか?」


 俺は半目になって二人を交互に見回し、ムッとした顔で尋ねる。


「い、いえっ、そういう訳ではないのですが……」


 琳は顔を背けたまま横目でチラチラと見つめ、その場でもじもじしながら何かをぼそぼそと口にする。


「なんだよ。よく聞こえん」


 琳の話す言葉がよく聞こえないため、琳の顔の前に耳を向けて迫っていく。


「は、はわわ……」


 しかし琳は更に顔を赤らめてしまい、ついには俯いて何も言わなくなってしまった。


「雅稀、女の子に言わせるようなことじゃないわ。そのくらいにしてあげて」


 琳が教えてくれなくてイライラしていたところに、今までドン引きしていた沙夜姉が冷ややかな声色で口を挟む。


「じゃあ沙夜姉はわかるのか?」


 俺は琳に迫っていた体勢を起こし、疑いと苛立ちを言葉に乗せて沙夜姉を見上げた。


「だから、"女の子"に言わせるようなことじゃないんだってばな」


「そんなに言えない事なのか? ますますわからなくなってきた……」


 眉間にシワを寄せて悩む俺を見て沙夜姉はすっかり呆れてしまい、大きくため息を付いた後にうつむいたままの琳を優しく自分の腕の中に引き寄せた。


「可愛そうな琳。こんなに辱められて、さぞかし心が傷付いたことでしょうね」


 そう言いながら沙夜姉は琳の頭を優しく撫で、自分の着物で覆い隠すように俺からの視線を遮る。


「おいおい、大げさすぎじゃないか? 俺が何したって言うんだっ」


「ふーんだっ。雅稀の"息子"は親子揃って役立たずーっ!」


「なっ!?」


 沙夜姉はあっかんべーと舌を出し、何故か俺の息子を名指しで誹謗してきた。


「か、関係ないこと言ってんじゃねぇっ! 頭湧いてんのかっ!?」


 沙夜姉に馬鹿にされたことが急に恥ずかしくなって、俺は慌てて自分の息子を手で隠してしまった。と、その瞬間自分の脳裏に電流が走って、切れていた銅線がバッチリ繋がったような手ごたえを感じた。


「ま、まさかッ……!」


 浮気をした旦那が満月の夜に捧げた自分の大切なもの。その後も生活が続いていることから、命や魂の類ではないことは分かる。そして、みんなが言う男しか持っていない物、女の子に言わせるようなものではない物。それはつまり汚い物、或いは世間的には下衆に見られる物しかないだろう。男しか持っていなくて、且つ女の子が言いはばかってしまう物――。

 答えは至極簡単なものだ。そう、今俺の手の中に納まっている"息子"そのものではないか!


「答えはわかったかしら?」


 今までのやり取りを全部後ろから見守っていたおばあちゃんが、俺の晴れやかになった顔つきを見て問いかける。後ろを全く意識していなかったため、問われた瞬間に背筋がビクッと震え女子のような甲高い悲鳴に似た声を発してしまった。


「え、えぇ、まぁ……」


 俺は恐る恐る後ろを振り向いて、恥ずかしい気持ちを必死にこらえながら苦笑いをして答えた。


「その旦那は妻への謝罪と自分への戒めを兼ねて、それを切り取って湖に投げたそうよ」


 おばあちゃんはさも平然とした顔でそう説明するが、俺は何を考えていたのかそのシーンを想像してしまい自分の息子から血の気が引いていくような気持ち悪い感覚を覚え、思わず内股になり息子を両手で覆い隠してしまった。


「お、おうふ……」

 

 自分でもはっきりとわかるくらい全身の血液が冷えて凍ってしまったかのように熱が失われていく。全身から冷や汗が溢れ出し、真夏の蒸し暑い空気の中でも一人だけ冷凍庫の中にいるかのようだった。


「ふふふ、そんなに怖がらなくてもいいのよ。貴方の物を取ろうとしているわけではないのだから」


 おばあちゃんは笑いながらゆっくり向きを変え、後ろ腰に拳を当ててまた俺の前を歩き始めた。


「それからはその旦那は浮気をやめ、お姫様が怒り狂うことも無くなり夫婦円満になったの。だけどお姫様が亡くなった後、また生前のように怒り狂わないようにと旦那さんがこの神社を建てて祀ったそうよ。それで、この神社にはそんな言い伝えがあることから夫婦円満、大願成就等のご利益があるとされているわ。神社の名前である"姫朦"と"希望"をかけているとも言えるわね」


「な、なるほど……」


 確かに、自分の息子を失ってしまっては浮気しようにもできないだろうし、そこまでの誠意を見せつけられて流石のお姫様も許してしまったのだろう。そもそも浮気をしなければ済んだ話なのに、いつの世の男も考えることは同じなのだろうなとしみじみ思った。

 

「その湖ってどこにあるんですか?」


 またおばあちゃんの後をついて歩きながら、ふと思った疑問を尋ねてみた。この神社がそう言った経緯で建てられたのならば、その言い伝えの元となる場所も当然この近くにあるはずである。しかし、見たところそれらしいものは見当たらなかったし、何よりその場所が今も尚存在するならば興味本位で行ってみたいと思ったのだ。


「今もこの山の裏手にあると思うわ。最も、遠い昔に見たきりだから本当に残っているかどうか分からないし、今確認しようにもこの老躯じゃ無理ね」


 おばあちゃんは廊下の横に続いている神社の縁側に立ち山の上の方を指さしながら、遠い眼をして答えてくれた。


「山の……裏手……」


 その言葉を聞いた時、俺は何か引っかかるような違和感を覚えおばあちゃんが言った言葉を小さくつぶやき眼を伏せた。


「殿?」


 その様子を横で見ていた琳が不審に思い、きょとんと首を傾げながら俺の横顔を窺いつつ尋ねる。


「……山の裏手、湖……はは、まさかな」


 俺は今の話を聞く限りで、ほぼすべての条件に合う場所を一つだけ知っている。俺が以前仕事終わりに立ち寄った、あの小さな滝がある場所だ。湖と言えるほど広い場所ではなかったが水溜まりはそれなりの大きさがあったし、すぐ先には琳の封印されていた祠のある高台もある。過去に周りの木々が育っていなかったとすれば景色は繋がり、夜空の満月も見えたのかもしれない。

 が、しかしだ。もし万が一あの滝と水溜まりがこの言い伝えの舞台であるとするならば、俺はとんでもないことをしてしまっているのだ。先ず、そんな神聖な場所であろうことか上半身裸で水浴びなんかしてしまったのだ。更に、その旦那さんが自らの大切な息子を捧げ投げ打った水溜まりの水を……、


「……うっぷ」


 思わず要らん想像をしてしまった自分が情けない。自分の記憶が嘘であって欲しいとこの日ほど願った日は今までになかったくらい激しく後悔し、身体の底からモノというモノが逆流してくるような気分の悪さを感じ思わず口を手で押さえる。


「と、殿!?」


 急に顔が真っ青になり口を押える俺を見て、琳は急に慌てだしどうしていいか分からずその場であわあわとたじろいでしまっていた。


「こりゃ、過去に何かあったようね」


 さっきまで冷たい眼をしていた沙夜姉も、流石に空気を読んでくれて情けないというような表情で俺の背中を優しく摩りだした。少しでも気を緩めれば臓物もろともぶちまけそうなくらい気分が悪かったが、沙夜姉のひんやりとした手と絶妙な摩り具合のおかげか少しだけ楽になったような気がした。琳も最初こそ慌てふためくだけだったが、沙夜姉のやってることを見てから自分なりにできることを考えたのか、俺の左手を両手でぎゅっと握り必死な顔つきで回復を念じてくれていた。


「……あ、ありがとな、二人とも……」


 先ほどよりいくらか収まってきたころ合いで、背中をさすってくれている沙夜姉と手を握っている琳に向けて弱々しい声をかける。


「まったく、だらしないわねぇ。男の子なんだからシャキッとしなさいな」


 沙夜姉は背中を摩る手を止めず、世話の焼ける子だと言いたげな表情をして答えた。嫌味を言う時もあるが、なんだかんだ面倒見のよい沙夜姉はここぞという時に助かる。ここぞという時"だけ"だけど。


「殿、もう大丈夫ですか……?」


 琳は強く握っていた手をゆっくり離すと、恐る恐る俺の顔色をうかがうように頭を上げた。


「あぁ、なんとかな。大丈夫だ」


 琳の心配そうな顔と不安げな眼が心にチクチクと刺さり、内心は全然平気じゃないのに空いた手でグーサインを出しやせ我慢が滲む笑顔を反射的に向けた。琳はこういう時頭が働く子なので、俺の必死のやせ我慢を見抜いたのか少しだけ表情を緩めて返すも離した両手で再度俺の左手を握った。きっと琳なりの気づかいのつもりなのだろう、今は素直にその気持ちを受け入れようと思い返事のつもりで握られた手を軽く握り返した。


「本当に仲が良いのね。微笑ましいわ」


 そばでずっと俺達のことを見守っていたおばあちゃんが静かに口を開くと、この蒸し暑い陽気に似合わない涼しい風が廊下をそっと優しく吹き抜けた。


「……そう、なのかもしれないですね」


 おばあちゃんに答えた時、自分の心がおばあちゃんと話すことによって自然と素直になっていっている事に自然と気が付いた。琳や沙夜姉のこともそうだが、ここに来てからこの瞬間までに自分自身の心や考え方にも徐々に変化が見えていて、改めて神社という場所の持つ力を肌身で感じたような気がしたのだ。


「ご利益、あるといいなぁ……」


 誰にも聞こえないようにボソッとつぶやいた独り言は、けたたましく唄い続ける蝉たちの大合唱の中に溶け込んでいってしまった。



雅稀メモ:浮気、ダメ、ゼッタイ


琳メモ:殿が心配です



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