其ノ51 琳のお料理修行
家に着くや否や、琳と沙夜姉は俺の手から膨れ上がった買い物袋をひったくり、二人そろっていそいそとキッチンの方に向かって行ってしまった。俺は一人玄関に取り残されてしまったが、奥から聞こえる二人の楽しそうな声にそっと耳を傾けた。
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「さーて、何から作りましょうか! 玉ねぎ、ジャガイモ、ニンジン、それから……」
「沙夜子さんっ! 私は何をすればいいですかっ?」
雅稀が買ってたのもを袋から取り出しながら確認していた時、琳が眼を輝かせて尋ねてきた。
「琳はねぇ……あ、じゃあ、このイモを洗ってくれる?」
「わかりましたっ! 頑張りますっ!」
琳はそうはっきり答えると、私の手からジャガイモを二つ取っていき蛇口をひねって水を出してイモを洗い始めた。しっかりと淡いピンク色の着物の袖をまくり、鼻歌を歌いながら笑顔でイモを洗う姿はなんだか見ていて新婚の新妻のようだ。
わたしの記憶がさび付いていなければ、琳に料理をさせた経験はない。もとよりこの子は上様の正室候補に挙がるくらい高貴な家柄の出自であり、自分で料理や掃除をすることが無い。むしろそれは女中や家来の仕事であり、仮に琳がそれをやってしまえば大変なことになるのだ。つまり、琳は包丁を握ったこともなく、また調理経験は皆無という訳だ。
琳の心意気には深く感動はしたが、ここで琳の勢いに流されてすべてを任せてしまってはいけない。家主の雅稀の為にも、ここはわたしが傍で見守りながら程よく教えて行った方がいいだろう。包丁や火を使う作業は主にわたしが行い、琳には洗い物や簡単な作業を任せるとしよう。
なんてことを考えながら、わたしは手際よく琳が洗ってくれたイモの皮を包丁を使って丁寧に剥いていく。幸い、貧乏な雅稀の家にも包丁は置いてあり、切れ味は昔自分が使っていた物に劣るものの使えなくはなかった。左手でイモを持ち、右手に包丁を持って親指を添え、その下を通るように薄く皮と実の間に刃を入れていく。
「ふぉぉぉ……お上手ですね!」
イモを洗い終わった琳が、タオルで手を拭きながら興味津々にわたしの手さばきを見つめる。
「フフン、すごいでしょ~」
「沙夜子さんは、何でも出来るのですね!」
「何でもってわけじゃないわよ~。わたしにだって出来ない事くらいあるわ」
「そうなのですか? じゃあ、沙夜子さんは何が出来ないのですか?」
タオルをしっかりと折りたたんで机に置きながら、琳がわたしに尋ねてきた。
「う~ん……地図が読めないとか、掃除は苦手だったわねぇ」
わたしは手を止めて少し上を見ながら考え、少し恥ずかしい気持ちになりながら琳に答える。自分のできないものを人に教えるのは、相手が琳でも小恥ずかしい。
「確かに、沙夜子さんとお出かけするといつもより時間がかかりましたね……」
琳は、過去にあったわたしとの思い出を少し引き出して苦笑いする。
「でも、お掃除が苦手だというのは意外です」
「最初のころは、よく目上から怒られたものよ。『あなたはなんて掃除が下手くそなのっ!』ってね。さ、そうこうしているうちに皮が全部剥けたわよ」
わたしは琳と会話をしている間に、洗ってもらったイモの皮を全部剥き切ってしまった。それから、丸裸になったイモを一つ手に取り、まな板の中心に置く。
「さて、危ないから少し離れててね」
琳に向かって注意を促すと、琳はコクンと首を縦に振って了承の意を示す。それを見てから傍に置いてあった包丁を手に取り、左手を猫の手のようにしてイモをしっかりと固定した。
「よく見ていなさい。こうやって切るのよ」
わたしは右手に持った包丁をイモの中心に当てて、真っすぐに下ろした。ストン、と音を立てて包丁がイモを真っ二つに切り分け、切られたイモは左右にころんと転がる。
琳はその一連の流れが終わるまで、腕を胸の前で構え息を潜め唾を飲んでじっと見つめていた。
「ふふっ、そんなに固くならなくてもいいのに」
そんな姿の琳を見たら、思わず笑みが噴き出てきそうになった。横で見ている琳に向かって、口元に左手を添え薄くほほ笑む。
「わ、笑わないでくださいっ! 私は真剣なのですからっ!」
琳は顔を赤くして、怒ったような恥ずかしいような複雑な表情をしながらわたしに訴える。
「はいはい、ごめんなさいね。それじゃあ、次行くわよ?」
そう琳に告げ、わたしは再びイモに向き合った。二つに割れたイモの片方を持って切り口を下にして立て、その頂点から包丁の刃を入れて素早く四等分にする。
さらに、四等分したうちの二つを断面の大きい方を下にして置き、二個いっぺんに均等に切り分ける。イモは最終的に均一に六等分され、残りの二つも同様に切り分けた。
「……ふぅ、こんな感じかしら?」
一塊のイモの半分を切り終えたところで、包丁をまな板の上に置き一息つく。琳はわたしの作業の邪魔をしないように息を潜めていて、包丁を置いた瞬間に緊張をほどいて大きく息を吐いた。
「はぁ~っ、いとすごいですね。こうやって料理はするのですか……」
琳は大変感心しているらしく、切られたイモの均等さを見て喉を唸らせる。
「まだ材料を切っただけだけどね。これから煮たり焼いたりするんだけど、琳にはまだ早いかな」
「むぅ~っ、またそう言うこと言うのですか~っ?」
頬に空気を溜めて膨らませ、わたしの顔を怒った表情で琳が睨む。
「色々危険なのよ。刃物を使うし、火も使う。こればっかりは慣れや技術が必要だから」
「なら、私はいつになったらできますか?」
真剣な眼差しを私に向けて琳が問う。こういう時の琳は、下手な返しをすると返ってややこしくなることがあるので注意が必要である。
「えーっと……そのうちかしら、ね?」
わたしは琳の眼差しを避けて上の空を見上げながら答え、それから恐る恐る琳に視線を戻していく。琳はわたしではなく、まな板の上に置いてあるもう半分のイモをじっと見つめていた。
「沙夜子さんは慣れが必要だと言いましたね? なら、慣れるには経験が必要だと思います。違いますか?」
「へっ?」
「このおイモ、私に切らせてください!」
琳は首をバッとわたしに向け、力の籠った眼差しで見つめてきた。
「な、何を言って――」
「私、何事も経験したいです! 私にやらせてください!」
わたしを見つめる瞳は燃えるような真紅色に滾っていて、これは紛れもなく本気の言葉である証である。琳がここまでムキになるのは、恐らく過去のことだけが理由ではないだろう。そもそも料理がしたいと言い出したのだって、単なる興味からではなかった。つまりは、そういうことだろう。
「……はぁ。わかったわ。その代わり、わたしの言う通りにするのよ。わかった?」
「はいっ! ありがとうございますっ!」
有り余るほどのやる気に根負けしたわたしは、やれやれと思いながら琳をまな板の正面に呼び寄せた。そして、わたしは琳の後ろに立って両手を持ち、まな板の上に誘導していく。
(見守るはずがこんなことになっちゃったけど、許してね、雅稀)
心の中でそう雅稀に謝罪しながら、わたしは琳の右手を包丁の上に置いた。
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「ぶぇっくしょいっ!」
俺は自分の部屋で暇を持て余していた時、急に襲ってきたくしゃみに耐えられず豪快に吹き出してしまった。
「んずずっ……誰だ、俺の噂しているのは。店長かぁ?」
指で鼻の出口をさすりながら、俺は窓から夜空を見上げたのだった。
――……。
「ぶぇっくしょいっ!」
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「さあ、行くわよ。準備はいい?」
「はいっ! いつでも大丈夫ですっ!」
わたしは琳の左手をイモに添えさせ、右手に持った包丁をイモの頂点に優しく置いた。心なしか、琳の手から微振動が伝わってくるのを感じる。やはり、どんなことでも最初は緊張してしまうものだ。そんな琳がとてもかわいく思え、思わず抱きしめたくなる衝動を必死に抑えるため理性をフル活動させる。
「それじゃあ行くわよ? 左手は猫の手、右手は真っすぐイモの上から下ろす。わかった?」
「はいっ! 行きますっ!」
琳は包丁を握る力を強め、大きく深呼吸をしてから「えいっ!」という掛け声とともに包丁を下におろした。が、刃の入れ方が悪かったのか、包丁はストンと綺麗に落ちてはいかず半分入ったところで止まってしまった。
「あ、あれっ?」
さっきわたしが見せた物とは違う現象が起きたため、琳の顔に焦りが見え始める。
「頑張って! もう半分よ!」
わたしは尚も刃の進まない包丁を持つ琳の手を支えながら、真っすぐ切れる位置を探した。
「あ、あわわ……」
琳は訳が分からなくなってパニックを起こし、包丁を持つ手がワナワナと震えだす。同時にイモを支えているはずの左手が徐々に宙に浮き始め、完全にフリーな正体になってしまった。
「あ、琳! 危ないわ! 一旦離しましょう!」
「ふぇっ!?」
わたしの掛けた声がまずかったのか、琳は離せと言った言葉を何故か逆に捉えてしまい包丁を握る手に一層力を込めた。そして、何を思ったかイモを刺したままの包丁を大きく振りかぶると、勢いをつけてまな板に向けて一直線に振り下ろした。
「あっ……」
ドンッという鈍い音を立てて包丁はまな板に当たり、その衝撃はイモの残り半分を叩き切って台所から吹き飛ばすほどだった。
「……あ、あれ……?」
目をつぶっていた琳は自分が何をしたのか理解しておらず、恐る恐る瞼を開けてぱちくりとさせながらその場に呆然と立っていた。
「り、琳……?」
「は、はい?」
わたしの呼びかけに、琳は包丁を握りしめたまま後ろを振り返る。瞬間、わたしの横腹の数センチ手前を包丁の刃がかすめた。思わずわたしはお腹を引っ込めて刃を避け、勢いで両腕を上げてしまった。
「ひゃぁっ!! あ、危ないから、包丁は置きましょう、ね……?」
「へっ?あ、はわわっ!」
琳はどうやら自分が包丁を持っていることに気が付いていなかったらしく、自分の右手の先を見て目の前の銀色に光る自分の姿にびっくりし、慌てて包丁をまな板の上に置いた。
「それで、飛んで行ったイモはどこかしら?」
「わ、私も眼をつぶってたので見てなかったです……」
琳が叩き切ったイモを探すのは、そう難しいことではなかった。二人でこの狭い家の中を飛び回って探せば、いとも簡単に見つけることができる。片方はシンクの中に転がっていて、もう片方は冷蔵庫の前に落ちていた。
「簡単に見つかったわね。けど……」
片方はシンクの中だったからいいものの、もう片方は床に落ちてしまっている。それを見た琳は、悲しそうな眼をしてその場にうずくまってしまった。
わたしは床に落ちたイモを手に取り、埃を手で払ってからふーっと息を掛ける。それからシンクに向かって行き水で二つのイモを洗う。
「うぅっ……おイモ、落としちゃいました……」
「大丈夫よ。洗えばまだ食べられるし、火を通せば問題ないわ」
「で、でも……」
「それに、見てごらんなさい」
わたしは、琳が叩き切ったイモを両手に一つずつ持って琳に見せる。
「琳は筋がいいわ。こんなに綺麗なんだもの」
琳が切ったイモは綺麗に真っ二つになっており、トラブルこそあったものの切り口は非常に良い形をしていた。
「あっ……」
「ね? だから今度はゆっくり、わたしと一緒にやりましょ?」
イモを再度まな板の上に置き、私は乱れた琳の着ものを整えてあげる。
「……は、はいっ!」
最初はうつむき加減だった琳も、自分の切ったイモを目の前にして段々と笑みが戻ってきて最後は元気よく返事をした。
それからわたしは再度琳の後ろに立つと、わたしと琳でさっきやったようにイモを細かく切っていく作業をする。これは琳には難しかったようで、わたしのほど均等に切ることはできなかったが、最終的に何とかそれらしい形にはなった。
「うん、最初にしては上出来よ。頑張ったじゃない!」
「うぅっ、もっと上手に切りたかったです……」
わたしは、不揃いなイモの個々を見ながらしょんぼりする琳の頭を優しく撫でてあげる。
「まだ最初なんだから。これでも私の時よりはいい方よ?」
「そうですかぁ……?」
「うん。だから、これから頑張りましょ? まだ材料は沢山あるわ!」
材料の入った袋を指さしながら、わたしは琳の頭を撫で励ます。
「……そう、ですね。何事も経験、ですよねっ!」
「そうそう、その意気よ! じゃんじゃん切っていきましょう!」
「はいっ! 頑張りますっ!」
わたしは、再びやる気に火が付いた琳の表情を見てホッとしつつ、ここで一番大事なことがおろそかになっていることにようやく気が付いたのだった――。
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「んで、結局琳の経験のために、買ってきた野菜全部切り倒してしまった、と?」
「あ、あはははは……面目ないです」
「ごめんなさい……」
琳と沙夜姉は、二人して並んで床に正座で座り謝罪をする。俺は椅子に座って腕を組み、台所のざる一杯に山盛りになった野菜たちを見て絶句していた。
そろそろ良いころ合いだと思って様子を見に来てみて、最初に目に飛び込んできたのがこれだったのだ。どれもこれも不揃いで不均一な大きさのイモやニンジンをはじめ、玉ねぎも細かく切り刻んでボウルの中に山盛りになっている。こんなに大量の野菜を切り倒すなんて、厨房のコックでもない限り酷な事だろう。それをほぼ一人で完遂したのは、他でもない琳である。ここは叱るべきか褒めるべきか、躾担当の俺の腕が試されるところだが……。
「沙夜子さんは悪くないです! 悪いのは、切らせてほしいとお願いした私なのですから……」
俺がどうすべきか決めあぐねていた時、急に琳が声を上げ悪いのは自分だと言い張った。
「そんなことないわ。悪いのはわたしよ。監督不行き届きってやつだわ」
「沙夜子さん、それはなんですか?」
「簡単に言うと、わたしがちゃんと見張れていなかったってことよ。だから悪いのはわたし」
「そんなことありません! 悪いのは私の方で――」
「あーもうっ! 埒が明かないから止め止め!」
俺は二人して足を引きずり合う言い合いを止めさせるべく、両手をパンと一回叩いて場を締める。
「琳は野菜切るの上達したのか?」
俺は、びっくりして目を丸くしている沙夜姉に尋ねた。
「え、えぇ、かなり上達したわ。最初に比べたら見違えるほどに」
沙夜姉は正座のまま、肩肘張りながら恐る恐る答えた。
「そうか、なら良かった。琳、頑張ったな」
「あ、ありがとうございます……」
琳も急に褒められたことに困惑気味で、言葉の語尾が疑問形になりかけていた。
「そんで、やっちまったものはしょうがない。使わない分は後でラップかけて保存するとして、今日の献立を何も考えないままやってたのか?」
「返す言葉もありません……」
沙夜姉はすっかり萎縮してしまい、折角の美人が台無しになってしまっている。沙夜姉にしては珍しい失敗だった。レシピを一切考えず琳の練習に付き合っていたのは、大方自分の中で琳を襲わないように葛藤していたため思考力が低下していたのだろう。
「……はぁ、今日まで琳に見つからなくてよかったわ。やっと使える日が来たようだ」
俺はため息を付いてからそう言い残して、琳に捨てられてすっかりガラガラになっていた食糧棚の方に向かって歩き出した。
「殿、何を……?」
「雅稀?」
二人は顔を見合わせて、頭に疑問符を浮かべながら俺の後を目で追っていく。
「よっと」
俺は食糧棚の前に着くとその場でしゃがみ込み、中央の段の板の裏側に手を通した。そして、板の裏側にくっついているものを剥がし手に長方形の箱を持って元の席に戻る。
「一体それは……?」
琳が俺の持っている箱を見て、不思議いっぱいに問いかけた。
「これは、俺の最後の非常食だ。琳に見つからないように隠してたんだよ」
そう言いながら、俺は箱の頭を親指で押し開封する。その瞬間、箱の中から刺激のある香りが一気に部屋中に噴き出した。
「うっ……これはっ……!」
「ま、まさかっ……!」
琳はその独特の香りに思わず硬直してしまい、沙夜姉は眼を大きく見開いて驚愕の表情をする。
「野菜が沢山あって、それが全部切られている。そして他に冷蔵庫に豚肉がある。てことは、やることはもう決まってるだろ」
俺はニヤリと笑みを浮かべ箱の中身を取り出して机に置くと、その箱の表面を琳たちに見えるようにして顔の横に付ける。
「野菜と肉、これがあればやることはただ一つ。"カレー"だ!」




