Past Episode:樒沙夜子
「私は、とのの"せいしつ"になれる?」
「みっちゃんならなれるわよ。こんなに頑張っているもの」
三ツ姫こと、みっちゃんの綺麗な笑顔にわたしはそう答えた。
明日に迫った『正室候補会議』を目前にして、わたし達はいつもの勉強部屋で最後の追い込みをしている所だった。
三ツ姫は最初の頃に比べて、今では見違えるように成長をしていた。わたしと会って間もない頃は字を書くことはおろか、筆の持ち方さえ知らない筋金入りの箱入り娘だったのに。
(なんでわたしがこの子の面倒を見なくてはいけないのかしら……?)
最初は誰だってそう思うはず。なぜなら、この子は上様の"正室候補"なのだから。そう、側室のわたしにとっては云わば恋敵に当たる。そんな子の面倒を見て立派な正室候補にしてあげなくてはならないなんて、どうにも納得はできなかった。しかし、
「えへへ~。さっちゃんのおかげだよ!」
三ツ姫は、屈託のない笑顔を私に向けてくる。この愛くるしい顔に、何度心を動かされただろうか。わたしが素っ気ない態度を取っても、三ツ姫は毎回こうやって笑顔を向けてくるのだ。出来なくて怒ったこともあるし、わたしの我がままだって沢山言った。しかしちゃんとできた時に褒めてやると、この上ない笑顔でわたしを見つめてくるのだ。それが段々と自分の中で憎めなくなっていって、最後にはその笑顔に見事心を奪われてしまったのだった。
わたしが三ツ姫の教育係に任命されて毎日接しているうちに、ふとあることに気が付いた。この子には"友達"と呼べる相手がいなかったのだ。
三ツ姫は三人姉妹の末っ子で、上の姉たちは皆成人していて大人たちと混ざってしまっている。しかし、唯一成人していないこの子は姉たちとはあまり接することが無く、かといって他の同年代の子たちとも遊ぶこともしなかった。というよりは、させてもらえなかったというのが正しいだろう。理由は至極簡単で、武家の娘が自分たちより地位の低い者と遊ぶなんて品が下がるとの家の教えがあったのだ。
しかし、上様だけは違った。上様は三ツ姫を大層かわいがっていて、時間があれば三ツ姫の遊び相手になってくださっていた。しかし、いつまでも上様の手を煩わせるわけにはいかないということで、側室歴の長いわたしが三ツ姫の教育係に任命されたのだった。
ずっと一人で部屋の中にいて、好きなことも見つけられず友達も出来ず、身の回りのことは全て家来がやってくれるので何不自由なく過ごしてきたために、結果として箱入り娘になってしまったこの子の世話はとても大変なものだった。でも、それも今ではいい思い出になっている。
「わたしは何もしてないわよ。みっちゃんが頑張ったのよ」
わたしは、三ツ姫の笑顔に薄くほほ笑んで返す。
今は習字の時間で、三ツ姫は今、半紙に文字を書く練習をしている。筆の持ち方、字の書き方、墨の擦り方など、すべての基本を一から教えて上げた。三ツ姫は紙が水を吸うようにどんどんと知識を吸収していって、あっという間にわたしの手など借りなくても自分一人で出来るようになっていった。元々知識欲と言うものがこの子にはあったのだろうが、それが外に出てわたしと触れ合うことで爆発し、何でもかんでもわたしに聞いて来るようになったのだ。最初は鬱陶しささえ感じていたのだが、三ツ姫の物覚えの良さに段々と感心し、わたしも知っている限りのことを教えていこうと思ったのだ。
いつしかわたし達は、教育係と正室候補と言う立場からお互いが対等な"友達"の関係になっていた。
一緒にお散歩をして、一緒に勉強をして、一緒にかるたで遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒にお昼寝をして。気が付けば、一日のほとんどを三ツ姫と過ごすようになっていたのだ。この三ツ姫とわたしの変わりようには周りも驚いていて、お似合いの姉妹のようだと言われたほどだった。
そして月日は流れ、いよいよ明日に三ツ姫が正室候補になれるかどうかが決まる会議がある。それに向けて、わたしは最後に教えられることを全て教えようと心に決めていた。
「ここは、こう書くのよ。あとは……うん、ばっちりね!」
「えへへっ! 私、じょうすにできた?」
「上手よ、みっちゃん。偉い偉い!」
わたしは三ツ姫の頭をわしわしと撫でてやった。三ツ姫はくすぐったそうな顔をして、でも決して嫌がらずわたしに頭をもたげてくる。
「ようし、今日はここまで! いい天気だから、お散歩に行こう!」
「きょうは、みちにまよわないでね? あしたはだいじな日なんだから!」
わたしが机の上の紙を整理し始めた時、三ツ姫が心配そうに声を掛けてきた。
「ええ、任せておいて! 今日は大丈夫よ!」
わたしは胸を張って右拳で叩き、自信たっぷりにアピールした。
「え~。このまえもそういってまよったよ~?」
「うっ、物覚えがいいわね……」
そんな細かいことまで覚えてなくてもいいのに、三ツ姫は些細なことでもしっかり記憶に残しているから油断できない。
「だ、大丈夫よ! そんなに遠くまでは行かないからっ」
「ほんと? じゃあいくっ!」
三ツ姫は正座をしていた体勢から一気に飛び上がって、嬉しさを身体全体で表現する。桜の模様が綺麗に描かれた袖をひらひらと羽ばたかせて、まるで飛び立つ前の鳥のように飛んだり跳ねたりしながら部屋の中ではしゃぎ始めた。
「よし、それじゃあお父様に話してきてちょうだい。わたしはここを片付けるから」
「うん、わかった!」
三ツ姫は笑顔で返事をし、いそいそと部屋を出ていってお父様に外出の許可を取りに行くため廊下を走っていった。
「……ふう」
三ツ姫のいなくなった部屋に一人残されたわたしは、これまでのことを思い返す。三ツ姫と初めて会った時のこと、初めて文字を書いて喜んでいたあの顔、道で転んで大泣きしていたあの頃。そして、見た目も中身もりっぱに成長したあの後ろ姿は、なんとも感慨深いものだった。まるで母親みたいだと少し馬鹿らしくも感じるが、それもまた今は心地よい。
「さて、準備しますか!」
わたしは習字の道具を持って立ち上がり、外に行くための羽織を取りに自分の部屋に向かった。
――……。
――……。
――……。
わたし達は、屋敷を出て少し歩いたところにある大きな草野原に来ていた。ここは小高い丘になっていて、周りには障害となる木や建物が一切なく広い空き地になっているのだ。春には菜の花やタンポポなどが一面を埋めて花の絨毯のようになる、わたしと三ツ姫のお気に入りの場所である。
「ねー、さっちゃん」
ふいに、前を歩いていた三ツ姫が後ろを向いてわたしに尋ねてきた。
「なぁに、みっちゃん」
「あした、私がせいしつになっても、さっちゃんはずっとともだちだよね?」
三ツ姫はキラキラとした笑顔で、私を見つめる。
「えーっと、それは……」
直ぐに答えられなかったのは、ちゃんと理由があってのことだった。
三ツ姫が正室候補に選ばれた場合、教育係の仕事は全うされたとしてわたしは任を解かれ、元の側室としての仕事に戻ることになる。そうなると滅多なことが無い限り正室に近づくことが許されず、それは三ツ姫とて立場が変われば同じことである。
つまり、もし三ツ姫が選ばれた場合、もう頻繁には会えなくなるかもしれないのだ。
「どうしたの?」
三ツ姫が不思議そうに、わたしの顔をじーっと見つめて尋ねる。
「……あ、えーっと、何でもないわ」
わたしはすぐに気が付き膝を折って、真正面にいる三ツ姫を優しく抱き寄せた。
「わふっ」
「大丈夫。わたしはいつまでもみっちゃんの友達よ」
わたしはそう、三ツ姫の耳元で優しく囁いた。
「えへへっ! わたしも、ずっとさっちゃんのともだちだよ!」
三ツ姫は軽く笑うと、わたしの耳の傍でこしょこしょと話しかけてくる。それがなんともこそばゆくて、心地よかった。
「んもうっ! みっちゃんかわいいっ!!」
「はわわっ! さっちゃん、くるしいよ~ぅ!」
わたしは力の限り三ツ姫を抱きしめ、暴れられても離さないようにしっかりと腕を組んだ。
(ごめんね、嘘ついて……)
腕の中でもがく三ツ姫の温もりは、今はちょっとだけ痛く心に滲みたのだった。
――……。
――……。
――……。
「おとうさまっ! どういうことですかっ!」
後ろで聞いていたわたしですら、聞いたことのない叫び声に思わず身体が固まってしまった。
『どうもこうも、これは決定事項なのだ。許せ』
三人の姉妹の正面で立って話すのは、三ツ姫達のお父様である。今ここに、上様の正室候補の会議で決定された内容が発表されたのだ。それはあまりにも唐突で、そして残酷な内容だった。
「わかりませんっ! なぜ私はダメなのですかっ!?」
『お前が子供だからだ。今のお前では、正室の仕事を全うできる身体じゃない』
「そんなっ……いっぱいべんきょうしました! おさほうもならいました! なのに、なぜだめなのですかっ!」
『聞き分けのない子だ! そんな風に育てさせた覚えはないぞ!』
「だ、だけどッ――」
《静粛に》
瞬間、辺りが静まり返った。奥の仕切りの先で聞いていた上様が言葉を発せられたのだ。
《三ツ姫、すまない。これはそなたの父上と話し合った結果なのだ。私も願わくば、そなたを選びたかった。しかし、そなたのことを考えれば、それは正しい判断ではない。約束を果たせない私を許しておくれ》
「――ッ!!」
三ツ姫はその場で棒立ちになって唖然としてしまい、一気に体の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。
『……以上、正室候補をここに定める。解散!』
三ツ姫のお父様の号令によってわたし達側室たちや家来の人、果ては烏帽子をかぶった他の武家の使い達が広間から続々と出ていき始める。そうして、最後にわたしと三ツ姫だけがその場に取り残されてしまった。
わたしはそっと立ち上がって、部屋の中央で崩れ落ちている三ツ姫の元に歩み寄った。
「……みっちゃん?」
「……うっ……うぇっ……」
そーっと三ツ姫の顔を覗こうと、三ツ姫の後ろに座りなおして背後から首を伸ばす。肩を小刻みに震わせ、すすり泣く声が正面から聞こえていた。
「うぐっ……えぐっ……」
「大丈夫?」
三ツ姫の肩にそっと手を伸ばそうとしたその時、
「さっちゃんッッ!!」
「あっ」
三ツ姫は身体を回し、わたしの方を向いたと思えば思い切り胸の中に飛び込んできた。
「うっ、うわあああぁぁぁっっっ!!!」
「みっちゃん……」
わたしの胸の中で堪えていた涙を滝のように流しながら、生まれたての赤子のように部屋中に響く大きな声で泣き出してしまった。
わたしはそっと三ツ姫の腰に腕を伸ばし、その小さな身体を優しく抱いてあげた。
「ふええぇぇ、うぐっ、んぐっ、ゲホッ」
激しく嗚咽を繰り返しながらも、三ツ姫はいっこうに泣き止まなかった。
「ごめんね、わたしの力不足で……」
着物を濡らす熱い涙はわたしの心をも振るわせていき、まるで三ツ姫の感情が流れ込んでくるようだった。
わたしも悔しかった。正直、選ばれないはずがないと思い込んでいたのだから。三ツ姫と離れ離れになるのは寂しいけど、それで三ツ姫の夢が叶うならとわたしは自分の立場を忘れて全力で応援した。なのに、わたし達ではどうにもならない問題で外されてしまったことに、深い悲しみと口惜しさが募ってゆく。
「うぅぅっ、さっちゃぁぁん……」
「ごめんね、ごめんね……」
泣きながらわたしの名を呼ぶ三ツ姫に対し、わたしはただ謝り続けるしかできなかった。
――……。
それから数日、三ツ姫は誰とも会おうとはしなかった。勿論わたしとも。
次に三ツ姫と会えたのは、会議から一週間くらいたったある日のことだった。わたしは教育係の任を解かれ元の側室の仕事に付いていて、たまたまいつもの勉強部屋の前を通りかかったのだった。
「あれは……」
部屋の奥の角、日の当たらない場所に見覚えのある着物を着た子が小さくなっているのを見つけたのだ。
わたしは荷物を傍に置いて、ゆっくりと部屋の中に入り、その子の近くに寄っていった。
「みっちゃん……?」
「……」
紛れもなくその正体はあの三ツ姫であったが、わたしの声掛けにピクリとも動かなく、まるで石に話しかけているみたいだった。
「その、気分はどう?」
「……」
「あれから、少しは落ち着けた?」
「……」
「……えっと……」
何を話しても返事をしない。あんなに明るかった三ツ姫が嘘のようだった。
(どうしよう……このままじゃいけないのはわかってるんだけどな……)
すっかり暗くなってしまった三ツ姫をどうにかしようとあれこれ考えていると、急に三ツ姫がもぞもぞと動き出しその場にゆらゆらと立ち上がった。
「……なんで」
「えっ?」
「なんで、私じゃだめなの……」
ぼそぼそと、か細い声で俯きながら言葉を発する三ツ姫は、思わず目を覆いたくなるほどの顔をしていた。
「それは……」
わたしにはそれを答えられる勇気がなかった。答えれば、三ツ姫を傷つけることになるから。
後々聞いたことなのだが、なぜ三ツ姫だけが選ばれなかったのか、それは正室の重要な仕事である"子孫を残す"事が三ツ姫には難しいと判断されたからだそうだ。確かに、三姉妹の中で唯一成人していない三ツ姫はまだ母親になるような年ではないのだが、それなら歳が満たすまで待てば良かったのではないかと尋ねたところ、上様の御父上から『早うしろ』との命が下っていたらしいのだ。理由はわからないが、とにかく時間が無かったのだそう。だから、より適性のある上の姉たちが選ばれ、成人していない三ツ姫だけが外されてしまったのだ。
それを伝えることは、私にはできなかった。
「私が、こどもだから……?」
「えっ……?」
ふいに三ツ姫が顔を上げて、私を弱弱しい目つきで見つめる。その表情に、心がグッと締め付けられるような気分だった。
「私が、おさないからだめなの……? もっと大人にならなくちゃいけないの……?」
「それは……」
「さっちゃん、おしえて」
三ツ姫の発した言葉には、怒りと悲しみが滲んでいた。
「……ごめんね。わたしにはどうすることも出来ないの。ごめんなさい」
「……うそつき」
急に、三ツ姫の言葉に力が籠る。
「ぜったいなれるっていったのにっ。せいしつになれるってとのもいったのにっ! でも、子どもだからできないって、いわれて。どうして。ねぇ、どうしてなのっ! 子どもだったらいけないのっ!?」
三ツ姫はわたしに歩み寄ってきながら、その腹にためた怒りと悲しみを私にぶつけるように腕の中に埋もれてきた。
「……ッ」
わたしは、何も答えられなかった。三ツ姫はわたしの胸の中にうずくまり、ドンドンと拳で胸を叩いてくる。それが身体よりも心に直接響いてきて、とても痛かった。
暫くして、仲間の何人かがわたしを探しに来た時には三ツ姫は疲れ果てて寝てしまっていた。そっと部屋を抜けたわたしは、それ以後ずっと部屋に閉じこもってしまった三ツ姫をどうにかしてあげようと必死に策を練ったが、どれもこれも上手くいかずどうにも進展はしなかった。
それから幾月が過ぎて、ようやく口をきいてくれるようになったころには三ツ姫はすっかり心を病んでしまっていて、何に対しても無気力で一日中自分の部屋に閉じこもって小さくなっているだけだった。しかも、ちゃんとした大人の扱いをしてあげないとロクに口を開かなくなってしまい、そのせいで周りの対応もどんどんと冷たいものになっていってしまっていた。
でも、わたしだけは決して三ツ姫から離れようとはしなかった。自分のせいで三ツ姫が病んでしまったのだと思い、その責任を背負わなければという思いからとにかく三ツ姫を救おうと思考を練った。
そんな日が続いていたある日、思いがけないところで三ツ姫の訃報を聞いたのだった。数日前に高い崖から身を投げたらしいと、炊事場の女中達が話しているのを偶然耳に挟んだのだ。
わたしはその日の仕事をほったらかして急いで三ツ姫の住む屋敷に向かったが、既に葬式は終わっていてお墓に埋葬されていた後だった。全てはその時既に終わっていた。
結局、わたしは三ツ姫に何もしてあげられなかった。友達なのに嘘をついて傷付け、その傷をいやすことも出来なかった。またあの日のように笑って欲しいと、そればかりを考える毎日だったのに急に心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。
それからの日々は白黒に色あせていき、何もかのがどうでもよくなってしまった。仕事もロクに手が付かず、ついには屋敷を追い出されてしまい路頭に迷う日々が続いた。そして下町で酒の味を覚え酒に溺れ、何度も飲んでは吐きを繰り返した。辛いことを忘れたかった、ただそれだけのために。夜には何度も暴漢に合った。しかし、わたしの身体をいくら汚されようともあの楽しかった日々は二度と戻ってこない。わたしには男たちに弄ばれようとも、もう何もかもがどうでもよかったのだ。
そうやってわたしは、様々な場所を彷徨い歩いた。最早生きる気力すら風前の灯火に近い状態で、ただただ失った過去の日常を追い求めているだけの抜け殻のような気持ちだった。
彷徨い歩いている途中、風のうわさで屋敷で大変な事件があったらしいと耳に挟んだが、既に追い出された身が今更戻るわけにもいかないと思い屋敷には戻らなかった。
そうしてある日の朝、道を歩いていたわたしはいつの間にかその場に倒れこんでしまっていた。あぁ、わたしはこれから死ぬんだという漠然とした意識の中、生きている間にもう一度三ツ姫と会ってちゃんと謝りたかったという思いが唯一の無念であり心残りだった。そして、もう一度あの輝くような笑顔が見たいと、息絶える瞬間にそう願って――――。




