其ノ45 お洒落幽霊の特技
「じゃあ、アタシはここでお別れするわ。家でやることもあるし」
商店街の途中まで琳たちと一緒に歩いていた叶実が、前触れもなく突然話を切り出した。
「えーっ! もうお別れですかっ!?」
「ごめんね琳ちゃん。またウチに遊びに来てね」
悲しい顔をして叶実を見つめる琳に、叶実は膝を折って目線を同じ高さにしにっこりと笑顔で答える。
「……わかりました。またお茶買いに行きますねっ!」
「うんっ! 待ってるわっ」
琳も叶実の笑顔につられてニッと歯を見せて笑い、お互いに笑顔でサヨナラを交わした。
「沙夜子さんも、また来てね」
「ええ、今度は迷わずに向かうわ」
顔を上げた叶実は、今度は沙夜姉に声を掛ける。沙夜姉もそれにこたえるように笑顔になり、小さく胸の前で手を振った。
「おい、俺には何かないのか」
「あぁ、忘れてたわ。アンタは来なくてもいいわよ」
叶実は俺の顔を見るなり、明後日の方向を向いて白々しい態度で答える。
「その手に持ってるものは、誰の金で買ったものだと思ってるんだ?」
俺は目を半目にして睨み、叶実の腕にぶら下がっているビニール袋いっぱいの化粧品を指さした。
「ふふっ、冗談よ。ちゃんと二人を連れてきなさいよね」
「俺は案内役かよ!」
俺の鋭いツッコミを見て無邪気に笑いながら、叶実は「じゃあね」と言って俺達の元から走って遠ざかっていった。
「……はぁ」
「行ってしまいましたね……」
どんどんと小さくなっていく叶実の背中を眺めながら、琳はやはり少し寂しそうにつぶやいた。
「また来てねって言ってたでしょ? だからまた会えるわよ」
横に立っていた沙夜姉は、琳の頭にポンと手を置いて視線を落とし琳の顔を見つめる。
「そう……そうですねっ!」
琳も沙夜姉の顔を見上げ、薄くほほ笑んで返した。
「……あのー、お二人さん。俺のこと忘れてません?」
「へっ? は、はわわっ! すいませんっ!」
俺の質問の声に気が付いた琳は、振り返ってから急に慌てだした。
「重いんだから、助力くらいしてくれよな……」
俺はそう言いながら、両手に重くぶら下がっているレジ袋を軽く上にあげて見せる。
「は、はいっ!」
琳は俺の右上に飛んできてから、右手に持っているレジ袋を両手で持ち上げる。しかし、琳の力なんてたかが知れているため、傍から見れば大して持ち上がっているようには見えない。だけどそこが琳の長所であり、バレないように持ってくれるお陰で腕にかかる負担がぐっと減るのだ。
「こ、これで、いいです、かッ……?」
琳は顔を真っ赤にしながら、言葉途切れ途切れに俺へ尋ねる。
「おう、だいぶ楽になった。このまま一旦帰るぞ」
「わ、わかり、ましたッ!」
琳は両腕で支えつつ、ゆっくりと空中で前進を始めた。それに合わせ、俺も歩幅を合わせながらゆっくり歩き始める。
「わたしは持てないから手伝えないわ。ごめんね」
前を歩く沙夜姉が振り返り、俺達の目の前で少し心配そうな笑顔をして手を振っていた。
――……。
――……。
――……。
いつも十数分程度で家に着く道のりをほぼ倍の時間をかけてゆっくりと歩き、ようやくの思いで自宅に辿り着く事が出来たのは正午を回ったくらいの時間だった。俺も琳も家に着いた途端、入り口に荷物を投げ出して二人背中合わせに座り込んでしまった。それを見た沙夜姉は、台所から水の入ったコップを二つ持ってきてくれて、「お疲れ様。ありがとうね」と声を掛けて渡してくれた。俺達はそれを一気飲みして一息ついてから、荷物をリビングまで運んでようやく買い物が終了したのだった。
「ここ連日、疲れることばかりだなぁ……」
「はぅぅ……いと疲れましたね……」
俺と琳は机に座り、身体を机上に伏して休んでいた。今日は珍しく部屋のエアコンをガンガンにつけていたので、暑さはそれほど厳しくなく出てくる冷気が快適な空間を作ってくれる。
「殿……」
ふいに、机に伏している琳がそのままの体勢で俺に尋ねてきた。
「なんだ……」
「さっき弄っていた物はなんですか……」
「あー……エアコンって言う、部屋の温度を変えてくれる機械だ……」
「それは……いとすごいものですね……だから、お部屋の温度がいつもよりひんやりと感じるのですね
……」
こんな時にも、琳は目新しいものについて尋ねられるほど思考が生きているのかと、内心感心した。エアコンは電気代を莫大に食うためいつもは付けないで過ごしていて、お客が来た時にだけ少しつける程度に抑えていたのだが、今日は給料日と言うこともありこの暑さに我慢できなくなって付けてしまったのだ。
「まったく、二人ともだらしないわよ?」
机の横で沙夜姉が腰に手を当て、溶けそうな俺達を見下ろして声を掛けてきた。
「少しは休ませてくれよ……」
俺は顔だけ沙夜姉のいる方向に向けて、薄目を開いて答えた。
「そうですよぉ……」
琳も俺と同じように顔だけ沙夜姉の方を向き、ぐったりした様子で弱々しく答えた。
「まったく……これからすごいもの見せて上げようと思ったのにな~」
すると沙夜姉は、くるっと向きを変えて俺達に背を向け、後ろに手を組んで抑揚のついたトーンで話し始めた。
「すごいもの?」
「なんだそりゃ……」
すごいと聞いてちょっと気にはなったが、それよりも両腕の疲労感の方が勝っていて正直一歩も動きたくない。どうせまた変なことし始めるのだろうと思い、俺は横に向けていた顔を机に伏せてしまった。
「見たくないの?」
沙夜姉が首だけ後ろに回し、へたっている俺達を見て尋ねる。
「見たいですけど……今はちょっと……」
「琳に同感。少し休ませろ……」
沙夜姉の提案を、俺と琳はばっさりと断った。
「そ、そんなぁ! 折角のチャンスなのよ!?」
と、それまで強気に出ていた沙夜姉が急に声を荒げてこちらを向き、必死に腕を振って説得に掛かってきた。沙夜姉は俺の後ろに来ると、俺の肩をつかんでゆさゆさと揺らし始める。
「あうあうあう……なにがチャンスなんだよ……」
「こんなの、滅多に人に見せないんだからぁ!」
沙夜姉は泣きつくように俺の体を揺さぶりながら、必死に説得を試みている。
「だーっ! わかった、わかったから揺するな!」
俺は何度も揺さぶられて気持ち悪くなってきたので、沙夜姉の手を払いのけて上体を起こした。
「ったく……下らない物だったら晩飯抜くからな?」
俺は未だグラグラと揺れているような感覚に陥りながらも、頭を手で押さえながら沙夜姉に答える。
「見てくれるのっ!?」
沙夜姉は眼を大きく開いて青漆色の瞳を輝かせ、机に両手をついて俺の前にグイッと寄ってきた。
「琳、悪いけど起きてくれ。ちょっとだけ付き合ってやろう」
俺は詰め寄ってくる沙夜姉に動じず、前でへばっている琳に声を掛けた。
「は~い、わかりましたぁ~」
琳は気だるげそうに答え、むくりと上体を起こして沙夜姉の方を向いた。少し眠かったのか、小さなあくびを一つして眼をこする。
「それでは、これから樒沙夜子の"変身ショー"をお見せしたいと思います!」
沙夜姉は咳払いを一つしてから机の前に立つと、堂々とした声ですごいことの開催宣言をした。
「変身ショーだ?」
「何をするのですか?」
俺と琳は頭の上にクエスチョンマークを浮かべ、沙夜姉の言ったことを理解しようと思考を回す。
「今の私の服装は、見ててどう?」
沙夜姉が、自分の全身をよく見えるように向きを変えて俺達に尋ねる。
「どうって、小汚い死に装束だと思う」
「お、思ってたよりバッサリと言うのね……」
俺の躊躇のない正直な意見に、流石の沙夜姉も少し引いてしまったようだった。
「殿のは少し言い過ぎですけど、昔の沙夜子さんに比べたら随分変わってますね」
一切の擁護のない俺の感想とは裏腹に、琳はしっかりとオブラートに包んだ感想を述べる。
「琳っ、ありがとうっ! わたしに優しくしてくれるのはあなただけよっ!」
沙夜姉はうれし涙を流しながら、座っている琳に抱き着こうと勢いをつけて飛び上がった。が、琳も馬鹿ではないので上手く学習したらしく、抱き着かれる寸前で自分の椅子から飛び上がって紙一重で沙夜姉を避けた。
「へぶしっ!」
まさか琳に避けられるとは思っていなかった沙夜姉は、勢い余って琳の座っていた椅子の座面に顔面からダイブしてしまった。
「だ、大丈夫ですかっ!」
しっかり避けて無傷な琳が、お尻を向けて固まっている沙夜姉を心配して声を掛ける。
「うぅっ、まさか避けられるとは……お姉さん切ないわ……」
椅子の座面から顔をゆっくりと離し、沙夜姉は鼻頭をつまんで痛々しそうにつぶやいた。
「んで、変身ショーはまだ? 下らないことやってると、俺寝るぞ」
俺は沙夜姉の失態を見かねて、机に立て肘をし顎を手の平に乗せて声を掛ける。
「わ、わかったわ……今から見せるわよ」
沙夜姉はそういうと、ゆらゆらと浮き上がって、テレビの前に投げ出された化粧品の元に飛んで行った。そして、袋をゴソゴソと漁り何かを手に取ってまた机の横に戻ってきた。
「なんだそりゃ。ここで化粧でもすんのか?」
「んー、ちょっと違うわ。必要なのは中身じゃなくて……」
そう言いながら沙夜姉は持ってきた化粧品の入った箱を開けていく。そして、中身のボトルを取り出すとそれを机に置いて、さらに箱を分解していく。
「一体何をするのでしょうか……」
いつの間にか、自分の椅子に座りなおしていた琳が俺に尋ねる。
「さぁなぁ」
俺は琳を一度見てから、また沙夜姉に目線を戻しつつ答える。
「……さて、これで良し」
箱を綺麗に分解して平面の型紙になったものを手にし、沙夜姉は俺達に見えるように前へ出した。
「必要なのは、この"柄"よ」
「柄?」
「ほほぅ……」
机の上に置かれた型紙には綺麗な椿の花の柄が描かれていて、その商品が椿の油を使ったものだということが一目でわかるようになっていた。赤や白、ピンクなど色とりどりで、見ているだけでも綺麗な模様だと思える。
「これが、どうなるんだ?」
「まあ見てなさいって」
沙夜姉はその椿柄の型紙を持つと自分の着ている着物の帯の内側に差し込み、その上を手で押さえ始めた。
「すぅ――」
そして、眼を閉じ大きく息を吸ってから一瞬だけ止めて、
「ふんっ!」
全身に力を込めたかと思うと、ボンっという音と共に沙夜姉の足元から白い煙がドバっと溢れ出して、部屋中をあっという間に埋め尽くした。
「うわっ!」
「はわっ!」
一瞬、何が起こったのかわからなくなり、頭の中がパニックになる。
「殿っ! 大丈夫ですかっ!?」
と、目の前から俺を心配する琳の声が聞こえた。煙で姿は見えないが、声は近くから聞こえたので琳が傍にいることがすぐに分かった。
「俺は大丈夫だ! それより……」
俺は沙夜姉が居た場所であろう方向を向いて、
「沙夜姉! 何するんだ!」
目の前を手で仰ぎながら大声で叫んだ。
「はいはい、静粛に。もうすぐ終わるわよ~」
俺が叫んだ方向から、いつもの沙夜姉のひょうひょうとした声が聞こえてきた。
暫くして、段々と煙が薄まり始め、辺りの景色が見えるようになってきた。うっすらと目の前に琳の姿が見え始め、煙が晴れるころには眼をぱちくりとさせている琳の姿をはっきりととらえることができた。
「殿……」
「やっと収まったか……沙夜姉、なんの真似――」
そう言いながら沙夜姉の居る方を向くと、そこには見慣れない服を着た人物が立っていた。
赤を基調とした派手な着物には色とりどりの椿の花柄が散りばめられていて、黒漆のようなツヤのある黒い帯を腰に巻き、ミディアムロングの黒い髪の毛に左耳の上には赤椿の簪を刺している。
女性は閉じていた眼をゆっくりと開いていき、それからにっこりとほほ笑んだ。
「はわわ……」
「ど、どちら様?」
俺と琳は、消えた沙夜姉と目の前の女性のせいで頭がパニックになりそうだった。琳は眼を大きく開けて口を開け、ポカンと女性を眺めてしまっている。
「ふふっ。あたしよ、あ・た・し」
女性は優しくほほ笑みながら、口元のホクロに人差し指を当てて話す。その場所にホクロがある人物は、紛れもなく沙夜姉その人である。
「さ、沙夜姉ぇ!?」
俺は電気が走ったかのように、思わず大きな声を上げてしまった。
「さ、沙夜子さんなのですかっ!?」
琳も続いて椅子を飛び上がり、沙夜姉の前に躍り出て上から下までじっくり見定めに入る。
「そうよ~。どう? すごいでしょう?」
沙夜姉はフフンと鼻を鳴らして、堂々と胸を張った。その堂々さと言い、張られたものの立派さと言い、よく知る沙夜姉の特徴にどんどんと一致していく。
「一体何がどうなってんだよ……」
一般的な幽霊と言えば、琳のように物をすり抜けられたり宙に浮かぶくらいが妥当なところだろう。当然琳も沙夜姉もそこらへんは当たり前のようにできている。しかし、今目の前で起こったことは幽霊の一般的な能力とはかけ離れているものだ。青い狸が持ってくる秘密道具や仮面ライダーの変身ベルトでもあるまいし、何がどうなっているのか俺の思考では理解しきれていない。
「これね~、偶然出来ることに気が付いたのよ」
沙夜姉は新しくなった自分の着物の袖を確認しながら、俺たちに話しかける。
「以前どこかの山で彷徨っていた時に帯の中に葉っぱが入っていたらしくてね、くしゃみをした拍子に今みたいに白い煙に包まれて、気が付いたら葉っぱ模様の着物になっていたの。それから、この帯の中に物を入れて力を籠めるとその柄の着物になるようになったってわけ。弱点は、水に濡れると柄が溶けちゃうのよね。それで、雨が降るたびに色が落ちちゃって、一々直すのも面倒だったから今までずっと無地のままだったのよ」
沙夜姉は自分の帯の中から、さっき入れた化粧品の箱の型紙を取り出した。すると、さっきまで色鮮やかだった型紙は真っ白の無地になっていて何も描かれていなかった。まるで、帯と着物に絵柄を全部吸い尽くされたような、そんなたとえがピッタリなくらい元の沙夜姉の着物の色と入れ替わっている。
「それで、柄を移すと、元の物はこうやって白い無地になっちゃうの」
「ほぉ~」
俺は腕を組んで、心からの関心の声を漏らした。
「じゃあ、髪の毛の変化はどう説明するんだ?」
俺は一つ気になったことを沙夜姉に尋ねた。今の説明が事実ならば、沙夜姉の"髪の毛"の変化は能力に含まれていない部分だろう。だとしたら、他に理由があるはずなのだが…。
「あぁ、これね。わたし、髪の毛は自由に伸ばしたり短くしたりできるのよ。言わなかったかしら?」
沙夜姉は自分の短くなった黒髪を手で梳きながら、しれっと聞いたことが無いことを口にした。
「聞いてねぇよ! そう言うのは最初に言ってくれ」
「あら、ごめんなさい」
ホホホ、と沙夜姉は口に手を当てて、上品そうに笑い返す。
「す……」
と、横で話を聞いていた琳が、顔を伏せ身体を譜わせて言葉をつぶやいた。
「ん? どうしたの?」
立っている沙夜姉が、不思議そうに尋ねる。
「すごいですっっっ! いとすごいですっっっ!!」
琳は顔を勢いよくバッと上げたかと思えば、眼を紅く染めて煌めかせとびきりの笑顔で叫んだ。
「り、琳?」
「それは一体どうやるのですかっ!? 私にもできますかっ!? 他にどんな柄が出来ますかっ!?」
琳は腕をぶんぶんと振り回して大はしゃぎをし、沙夜姉が困り顔になるほどまくし立てるように質問攻めをする。ヒーローもののアニメを見た子供が変身ごっこをしたがるように、琳にも沙夜姉の変身はとても魅力的に映ったみたいで、眼の輝きがいつもと段違いである。先ほどまで俺と一緒に机にへばっていた幽霊とは思えない力強さで、見栄えの変わった沙夜姉に迫っていく。
「あ、えっと、琳にはまだできないかなぁ~……」
流石の沙夜姉も、琳のこの食いつきようにはたじたじである。両手を胸の前て立てて、押し寄せてくる琳の勢いを必死に受け流そうそしているのが分かる。
「なら、いつになったらできますかっ!?」
「えーっと、それはぁ……」
チラチラと俺の方を見ながら、困った沙夜姉は言葉を濁す。どうやら俺に助けてほしいと、そう伝えたいのだろう。仕方ない、こんな琳を見るのは初めてだったのでもう少し観察していたかったのだが、いつまでも沙夜姉に食いつかせておくのは、あとのことを色々考えるとあまりいい方法ではない。
「琳。それくらいにしておけ。お前にはまだ早いってことだ」
俺はため息を一つついてから、琳の着物の襟首をひょいとつかんで沙夜姉から引き離した。
「あうっ。何時になったら出来るのですかっ!?」
琳は俺の方を向き、尚も興奮冷めやらぬ様子で尋ねる。鼻息がまだ荒く、眼も紅く染まっていて感情の高ぶりが手に取るように伝わってくる。
「琳は子供だからな。大人になったら出来るかもな。多分」
「――ッ!」
それを聞いた瞬間、琳の眼が大きく開かれ色が紅色から黄緑色に変化し、興奮していた態度が一気に冷めてシュンとしてしまった。俺の顔を見ながら、口を小さく開けて呆然としてしまっている。
「ど、どうした?」
いきなり元気のなくなったい琳が心配になり、琳の顔を覗きながら尋ねる。
「……へっ? あ、いや……」
琳は気が付いて答えたかと思えば、露骨に眼をそらしてしまう。
「あー……」
それを見ていた沙夜姉が、自分の頭を掻きながらやってしまったというように低いトーンの声を発した。
「お、俺、なんかまずいこと言ったか?」
俺は訳が分からないまま、沙夜姉に助け舟を求めた。この場で唯一、事情が呑み込めていそうだったからだ。
「あー、えっと……」
しかし、沙夜姉は俺の質問に対して言葉を濁し、自分の頬を指で掻きながら明後日の方向を向いてしまった。
「……殿」
ふいに、顔を逸らし目を伏せていた琳が俺を呼んだ。
「お、おう」
俺は、何かとても大事なことを言われるのではないかと緊張してしまう。
「……何でもないのです。心配させてごめんなさい。ちょっと、疲れたので寝床をお借りしますね」
そう、琳は明らかな作り笑いをして俺を見つめ、それからゆっくりと俺の手を離れて俺の部屋に向かって行ってしまった。
「……なんなんだよ……」
残された俺と沙夜姉は、琳が行ってしまった後の廊下をただただ見つめるしかできなかった。今の今まで琳を掴んでいた右手には、まだ少し琳の温もりが残っていた。




