其ノ29 本命さんいらっしゃ~い
鏡の中の"ソレ"は、ただ何もすることもなくそこに映っている。鏡なので"映る"ということは当然その実態が鏡の目の前になければいけないのだが、その場所には誰も居ないのである。俺達は、鏡の真正面ではなく机のある所のすぐ前で鏡に映る範囲からは外れているのだが、ソレは鏡の奥で俺達に向かい合うように立っているのだ。
白く長く垂れさがった服に、足元まで伸びきったぼさぼさの黒髪。そして表情の見えない顔には生気のカケラも見えない。その容姿はまさに噂通りの姿だった。
「り、琳……あれ……」
俺が恐々と指を指す方向に琳は不思議に思って顔を向け、それから言葉を失って驚愕する。
「あれ、が……」
「違う、と言いたいし言ってほしいな……」
俺の見ている物を誰かに否定してほしい、そんな気持ちになるような光景が鏡の中に映りこんでいる。つい一か月前の俺なら、見間違いや光の加減がどうのこうのと言い訳を付けて気にも留めなかっただろうが、こう何度も幽霊や式神なんかを見慣れているとこれがどういうものなのか、科学的に説明がつかないもののことくらい容易に判断できるようになっていた。
「……間違いないです。私たちが追っている幽霊です」
低く落ち着いたトーンで、琳が目の前の事象を肯定する。
「そりゃそうだよなぁ。ようやくお出ましたってわけか」
鏡の中に漂っている幽霊は動く気配こそないが目立ったスキもなく、いつでも出てきて俺たちを襲えるような余裕さえ垣間見えるくらいだ。
そもそも、鏡の中にいる幽霊をどうやって退治しろと言うのだろうか。一休さんを呼んで来て、後ろから叩いて出してもらいたい気分だ。
「あいつ、どうする?」
「どう、と言われましても……」
「お前が焚きつけたことなんだ、せめてあそこから引きずり出す方法くらい考えろよ」
「う~ん……」
琳に打開の方法を考えさせている間、俺の中でもいくつか案を練り始める。
まず第一に、なぜこのタイミングで出てきたのか。そんなことは、後で直接本人に聞ければ問題ない。次に、あそこからどうやって出すか。これは今のところ有効な手段はない。捕獲できなかったとして、その場合俺達が被るであろう敵からの反撃。考えただけで恐ろしいのでやめやめ。
「おい、そこのお前。何笑ってやがるんだ」
俺は現状を変えるべく、とりあえずまずは話しかけてみることにした。幽霊と言えど元をたどれば人間であるため、コミュニケーションをとって仲良くなれるはずだ。最も、相手に敵意が無く且つ友好的に話の通じる奴だったらの話だが。
「……」
「そんなに俺の顔がおかしいか? 産んでくれた俺の親に失礼だぞ」
「……」
「それとも横のちんちくりんか? それについては俺も同意する」
「殿、それはどういうことですか」
さりげないディスりに気が付いて、琳は顔だけこちらに向け半目で睨む。
「……」
俺と琳の掛け合いにも全くの無反応。まるで絵画と喋っているかのような虚しさを覚える。
「……ダメだこりゃ。コミュニケーションが取れない。言葉のキャッチボールは大事だって教わらなかったのか?」
鏡の中の幽霊は、尚も身動き一つ取らずにこちらをじっと向いている。言葉で無反応ならば次はどうするべきか。
「何か鏡に衝撃を与えてみるのはどうでしょうか?」
琳は、さっきから考えていた案を俺に提案する。
「え、やだよ。いきなり出てこられたらビックリするじゃん」
琳は、俺の子供じみた返答に少し呆れたような顔をして、
「その方がいいじゃないですか。少なくとも今よりかは」
「ま、まぁ、確かに今よりかはマシだけど」
とはいっても、手身近に軽く衝撃を与えられそうなものなんて……、
「あ、あった」
俺の右手には、さっき壁から引き抜いたばかりの自身の手帳がある。これなら投げつけても割れる心配は少ないし、何よりこれ以外手元に投げられそうなものも無い。
「よし、これでいこう」
本日大活躍な穴の開いた手帳を肩の上に掲げて、よく狙いを定めるように目を細める。
「そこの幽霊さん、今から投げるけど避けてね。できればそこから出てきてほしいんだけど、そこんところご協力のほどよろしく」
鏡の中の幽霊に変な気を使いつつ、手に持っている手帳を鏡に向かって放り投げた。ゆっくりと縦回転をしながら放物線を描いて飛んで行き、鏡の上部、丁度頭のある位置に衝突する。
「……どうだ?」
ゴンッ、という衝突音が聞こえた後、そのぶつかった面を確認するためよく目を凝らして鏡を見る。
「……いませんね」
「出て行ったのか?」
手帳が当たった後の鏡には部屋の景色が映っているだけで、ついさっきまでいた幽霊の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
「まだあそこにいるか?」
琳に消えた幽霊の有無を尋ねる。
「……もういませんね。出て行った後です」
琳は眼を閉じて少し意識を集中させた後、幽霊の存在が鏡の中から消えていることを知らせる。
「となると、この部屋のどこかにいるのか?」
「――ッ! 殿ッ! 後ろですッ!!」
琳が血相を変えて急に叫ぶと、背筋にまたあの凍り付くような寒気が走り身震いが起きる。すぐに振り返って距離をとりつつ何が起きたのか確かめると、さっきまで鏡の中にいた幽霊の姿が月明かりが差し込むガラス窓の中に、うすぼんやりと映っていた。さっきまで遠く離れた場所にいたため、その姿があまりはっきりとしていなかったのだが、こうして自身のすぐ後ろにあるガラス窓の中に居るのを見ると月明かりのおかげかその容姿がよくわかる。
気味の悪いくらい真っ白な左前の着物に、足元まで伸びきったぼさぼさの黒い髪の毛。直立不動のまま両腕を前にだらんと垂れさせていて生気、もといやる気の感じられない体勢をし、腕や脚先から見える地肌は青白くこの世の物とは思えない色味をしている。顔面はその長い髪の毛によって隠されていて、表情は全く読み取れない。身長は俺と同じか少し低いくらいだろうか、それでも女性の中では長身の部類に入るだろう。
琳も俺に合わせて幽霊と距離をとり、俺の後ろ手にぴったりと張り付いている。
「しゅ、瞬間移動したっ!?」
「なにがどうなっているのやら……」
しかし幽霊は居場所を移しただけで、向こうから何かをしようとする動きは見られない。
「これは一体どうすれば――」
「やっと見つけたわよっ!!」
俺の左後方、奥の方から甲高い声が部屋中に響き渡る。俺と琳は驚いてその声の聞こえた方に振り向くと、先ほど別れたばかりの陰陽師の末裔――日戸叶実が執務室の扉を開け放って、部屋のど真ん中で仁王立ちをしながらこちらを睨んでいた。
「お、お前どうしてっ」
「怨霊の気を感じたから急いで戻って来てみれば大当たり! 今度こそ間違いないわっ!」
叶実は今度こそ自分の勘が当たったとさも嬉しそうに、ガラス窓の中の幽霊に向かって人差し指を突き出し堂々と宣言する。
「やあやあ、また会ったねお二人さん」
叶実の右肩から子ぎつね式神の出雲が顔を覗かせて、あっけにとられている俺達に手を振る。こんな状況なのに再会(と言ってもほんの数分前のことだが)を暢気に喜んでいるなんて、随分神経が頑丈で太いらしい。
「それじゃ早速やらせてもらうわよっ! アンタたち、危ないから下がっていなさい!」
そう忠告をする叶実の手には、さっき俺の肩を負傷させたり琳を麻痺させたあの針のような武器が握られていた。それを視界に捉えた瞬間、あの時の痛みが全身を突き抜け治ったはずの右肩が鈍く疼いてくる。
「うぐっ……琳、いったん引くぞ」
「えっ? はわわっ!」
俺は横に浮いている琳の腰を抱きかかえて、一直線に執務机に向かって走り出しその影に身を隠した。
俺たちが攻撃範囲から離脱したのを見計らって、叶実は腕を振り上げ持っている針をガラス窓に向かって数本投げつける。パリン、パリンとガラスの砕け散る音が部屋に響く中、俺は机の端から顔だけを覗かせてどうなっているのか現場を傍観していると、俺のすぐそばに叶実と別れた出雲がフワフワと近づいてきた。
「あれでも腕は確かさ」
「あのブン投げてるものってなんなんだ? 普通こういう時はお札とかだろ」
「お札? キミ時代遅れなことを言うね!」
出雲はその小さな足を腹に当てて、空中で大きく笑い転げる。
「ぐっ……お、お前たちの方がよっぽど時代遅れだろうが!」
俺も負けじと、出雲に正論で言い返す。
「確かにそう言われればそうさ。でも、現にこうやって仕事として成り立っている以上、古いって決めつけるのは浅はかだと思うね」
出雲の、その見た目に似合わない物言いと思考の高さに少し意表を突かれ驚く。
「さて、キミの質問だけど、お札は陰陽師がまだ世間的に需要のあったころはよく使ってたし、重要な場面では今も使うよ。だけど昔ほどその必要性が無くなったから、今はあの"術針"を使うことが多いのさ」
「術針?」
聞いたことない単語に、いつの間にか横で耳を傾けていた琳が尋ねてくる。何故か琳の陰陽師に対する警戒心が薄くなっていることに内心驚きだったが、今はそれよりも目の前のことだ。
琳の問いに、出雲は待ってましたと言わんばかりに表情がニヤつき身体を正面に突き出す。
「"術針"は見た目はただの金属製の針だけど、その実態は表面に術式を編むことでどんな効果でもつけられる万能の器具なのさ!」
『へぇ~』
出雲のドヤ顔で説明されたことに、俺と琳の関心する声がハモる。
「術式が一回きりしか使えないのが難点なんだけどさ。術式は陰陽師にしか見えないから使い終わったらただの鉄の針に戻るし、他の誰かが悪用できないようになっているのさ」
「だからさっき使ったときは効果が無かったのか」
合点がいったと、琳の顔を見ながらさっきのことを思い出す。琳は何やら少し不服そうで、額に手を当て頬を膨らませながら不満の表情をしている。
「生身の身体には術の効果が効かないから、キミにも麻痺が効かなかったでしょ?」
「麻痺効果は無くても殺傷能力は十二分にあると思うが?」
そう皮肉交じりに言葉を吐くと、さっきまで大けがを負っていた自分の右肩を抑える。
「それはカナミに言ってほしいな。そうやって人間に対して扱わないように、持ち歩く際に色々制限があるんだよ」
出雲が困った顔で、この時代での使いにくさを嘆く。
「昔はもっと気安く使えたのに、今じゃたった一本だけでも色々決まりごとがあって苦しくてしょうがない!」
「そんな物騒な物、このご時世に気安く持ち歩かせられないだろうな。警察とかに見つかったら言い逃れできないし」
「だからこれが使えるのは夜だけって決まりがあるのさ」
へぇ、と出雲の話を横耳で聞きながら叶実の奮戦を見守る。
「だけど、あれはどうなんだ?」
「……これは、少々手強いかもね」
平然と答えながらも、部屋の中央を見つめている出雲につられて目をやると、叶実はよく動きよく放つため彼女の投げる術針によってガラス窓や照明器具がことごとく粉々に粉砕されていて、床や壁にも無数に刺さっていることからかなりの奮闘をしているように思える。しかし幽霊の方は一向に捕まる気配がなく、映り込めるものにどんどん移動していてその度に壊されるものが増える始末である。
「ハァっ、ハァッ、な、中々やるわね……」
叶実の方も流石に息切れを起こし始め、膝に手を置いて呼吸を整え始めている。
「おい、早くやっちまえよ」
「うっさい! 言われなくてもやってるわ!」
後ろからのヤジに、叶実は歯を向き目尻を釣り上げて怒鳴る。
「俺達じゃなんも出来ないんだから、お前が頼みの綱なんだ。これ以上器物損壊せずに、さっさととっ捕まえてくれ」
「ハァ? 何を言って――」
叶実はふと周りを見渡して、自分が粉々にしてった物たちを目にしてゾッと背筋を震わせた。
「ア、アンタのせいだからね! こんなに壊させたのアンタなんだからねっ!!」
叶実は顔を真っ赤にして、目の前のヒビ割れた鏡の中にいる幽霊に向かって叫ぶ。幽霊は、その表情は見れないもののまだ余裕があるように鏡の中にたたずんでいる。
「いや、お前のせいだろ。責任転嫁するな」
「カナミ~、あとでお説教だからね?」
「うぅっ、酷い有様です……あんなに綺麗なものだったのに……」
三者三様の罵倒を受けて、叶実の顔が更に赤く膨れ上がる。
「キーッッッ! こんな奴さっさと捕まえてやるわっ!!」
そう怒鳴り散らして腰のポシェットのようなものに手を突っ込んだ時、急にその風船みたいだった顔つきが冷めてしぼんでしまった。
「……どうした?」
ポシェットに手を突っ込んで動かなくなった叶実に尋ねる。
「術針……無くなっちゃった……」
ゆっくりこちらを向いたと思うと、その表情は今にも泣きそうな不安げな心情が浮かんでいた。
「無くなったって、そんなにバカスカ投げてたらそりゃなくなるだろうよ」
「う、うっさい!!」
両腕を前に突き下ろして必死に否定する。
「もしかして、アレ使うの下手なの?」
横に浮いている出雲に尋ねる。
「一本なら上手なんだけど、数本同時はまだまだ修行が足りないのさ。テンション上がってつい複数扱いたくなっちゃうのは悪い癖さ」
「なっ! バ、バラさないでよっ! いいじゃん別にっ!!」
また顔を赤くして、自分の弱点をあっさりとバラされた怒りを出雲にぶつける。
「修行なんて面倒なことしなくても、私には出来るんだからっ!」
「その結果がこれか?」
俺は部屋中に散らばった無数の針を指さして冷ややかに尋ねる。
「うぐっ……」
流石にこれには堪えたのか、お得意の反論が返ってこなかった。
「で、どうすんだよ。対抗手段無くなったんだろ?」
「術式は今すぐには編めないし、どうすることも出来ないね~」
出雲も足を左右に広げ、お手上げなことを伝える。
「と、いう訳らしい。お前も一旦こっちに来て作戦考えようぜ」
「なっ、何を暢気にっ!」
「どうしようもねぇんだから仕方ねぇだろ。さっさと来い」
「さ、指図しないでよねっ!」
プリプリと眉間にしわを寄せながらも周りに注意を配りつつ、叶実は俺たちのところに素早く戻ってきた。
「さて、これからどうするかだが――おい、琳、聞いてるのか?」
さっきから声がしないと思ってふと琳の居る方を向くとそこに姿はなく、どこへ行ったのか辺りをよく見渡すと鏡の直線上に立ち眼を細め注意深く幽霊を観察していた。
「おいっ、何やってるんだ。さっさとお前も来い!」
「少し待ってください」
琳は俺の呼び出しに応じず、黙って鏡の前にゆっくりと歩き出した。
「お、おい……」
「あの子、何やってるの?」
叶実が琳の居た場所に座り、俺と同じく膝立ちになってその様子を眺めながら尋ねる。
「さぁ、俺にもわからん」
「分からないって、アナタ保護者でしょ!?」
「分からんもんは分からん。だけどあいつの言うことなんだから何かしら考えはあるはずだ」
そう、琳の口調がいつもの年相応の物から急に大人びた時は何かしらの考えがあるためだということは、この一か月弱共に生活をしてきた俺だから分かることである。
琳はいつの間にか鏡の真ん前に、手を伸ばせば触れられるような距離まで近寄っていた。しかし幽霊は何もせず、ただじっと琳が近づいてくるのを待っているようだった。
鏡の正面で暫く考えていた琳がおもむろに口を開ける。
「貴方……もしや私の知っている方ではありませんか?」
雅稀メモ:叶実は術針を使うのが下手
琳メモ:もしやあなたは……




