其ノ20 怨霊と幽霊
外では、今まで我慢してきたものが決壊したかのように土砂降りの雨が降り始めていた。毎年夏におこる、極地的短期型のゲリラ豪雨というやつだろう。バケツを何個もひっくり返したような勢いはアパート全体を覆う屋根を打ち叩き、穴を開けてしまいかねないほどの刺さるような雨音がこの重苦しい部屋にはいくらか心地よく聞こえる。
「その陰陽師たちは本物なのか?」
少しの間を開けて、俺は一度自分の中で話を整理してから琳に問う。重く険しい表情をしていた琳は、自分の過去を打ち明けて少しすっきりしたのか幾分顔つきが緩やかに戻っていた。
「……多分違いと思います。陰陽師とて中身はただの人間。とっくの昔に寿命が来ているはずですから。ただ、式神の方は……」
「神サマは生死不詳、ってやつか」
琳は目を細め、また少し顔をこわばらせてゆっくりと頷く。
「式神には寿命という概念はありません。よって呼び出した術者が死んでも、また他の術者に呼び出されればこの世に戻ってきます。しかし、その方法が失われれば当然現れることもないので死と同じ意味合いになります」
「てことは、どこかの陰陽師崩れの誰かさんが調子乗って式神呼んじゃった訳か?」
「かもしれませんね」
琳のつぶやきは外の豪雨にかき消されそうになるも、耳の神経を研ぎ澄ませて聞き逃さないように注意する。
「じゃあ仮にその陰陽師たちがこの世に現れたとして、今朝のはどういうことなんだ?」
「今朝は……殿が連れていかれた後、追いかけようと扉に手を掛けた時に陰陽師の気を感じました。それもかなり強く。恐らく殿が来る以前にそこに来ていたのでしょう」
「陰陽師が会館になんの用事が……――あぁ、そういうことか」
頭の中で散らばっていたピースがピタリと当てはまったように、手のひらを立てた拳でポンと叩く。一人で話を理解してしまっているため、置いてけぼりになっている琳はポカンと口を開けて目をぱちくりさせる。
「さっき町会長の話の中で『さっき来た子も』って単語があったんだ。聞いた時は大したことないと思って聞き流していたけど、今までの話を総合するとそれが恐らく陰陽師だ。そして陰陽師の仕事は?」
「えっと、悪霊や妖怪の退治……あっ」
琳の中でもピンときたようで、目を大きく見開いて俺を見つめる。
「そういうことだ。どうやらあの町会長サンは俺ら以外にも依頼を出しているらしいな」
今までの話をまとめていくと、釣りの日の帰り道に元気がなかったのは琳が過去に因縁のある陰陽師らしき人物とその式神の気をキャッチしたから。それから暫くは何事もなく過ごしていて気を抜いていた矢先の今日に、思わぬところでその気に触れてしまい完全に意気消沈。俺を追いかけて会館に入ってこなかったのは、その前に陰陽師が入った形跡があり過去のことがフラッシュバックしたため。
しかも恐らくそいつらは俺らと同じように幽霊退治のために動いていて、俺らが来る一歩前に会館で何らかの情報を須三須さんから受けている。とんだ商売敵が出来ちまったもんだ。
琳がなぜこんなにも怯えているのかは、琳にとっての因縁の相手であり自分を封印した奴に出くわしてしまえばまた封印されるかもしれない、せっかく好いている殿さま(ではないけど)に会えたのにまた離れ離れになってしまうのではないかという恐怖からだろう。
俺はこれは忘れてはいけない重要なことだと今更ながら認識して、琳に一言断りを入れてから急いで自室に向かい手帳と筆記具を持って走ってリビングに戻る。
「……っと。悪いな。こんな重要なことはメモしておかないと量が多すぎて忘れそうだ」
「フフッ、そうですね。殿は忘れん坊さんですから」
琳が今日に珍しく小さな微笑を浮かべる。しかしそれは上辺だけの薄っぺらな微笑で心からのものじゃない。
「さて、お前が何で意気消沈しているのかは理解した。同時にお前の過去もちょっとな」
俺は手帳の今月のページを開き、空きスペースに片っ端から今日の話の内容を書き込んでいく。
「はい。今まで黙っていてごめんなさい……」
琳が座ったまま深々と頭を下げて心からの謝罪の意を俺に見せる。
「いや、誰にだって過去の黒歴史のひとつやふたつはあるさ。それも気安く他人に話していい内容じゃないし、お前にとっちゃそれだけ思い出したくもない事だろ?」
琳は顔を上げると黙って俺の言葉に耳を傾け、真剣な眼差しで俺の目を見つめる。
「お前が過去にどんなことをしてどんな奴と何をしてたのかはぶっちゃけ俺にはわからない。だけど、今、お前は怨霊でも妖怪でもない、ただの"幽霊"だろ? そりゃあ一般人からしたら幽霊が憑いてるなんてことだけでも十分恐ろしいことだけどさ、別に悪さや呪いとかかけて回ってるわけでもないし俺にとっての実害は……あるにはあるけど死ぬほどヤバいことじゃないし」
「……」
琳は唇を噤んで目を細める。
「陰陽師が怖いのはわかる。自分の敵だった奴がこの世に現れて、自分をどうにかしてしまうかもしれないっていう不安もわかる。けど、今のお前は、何にもしてないでただ俺の家でお茶飲んで飯食ってる居候だろ? だったら何をビクビクする必要があんだよ。第一、居候してるだけの無害な幽霊をわざわざ封印するなんて人徳に欠けるクズ野郎じゃないか。屋根裏の座敷童とかいい迷惑だろうな」
さりげなく見ず知らずの陰陽師をディスりながら、明るさの鈍い黄緑色の瞳を見て俺の今言えるだけのことを口に出す。
「今のお前は良くも悪くもなんも問題を起こしてない。だったらそれでいいじゃん。まだそいつらに直接会ったこともないんだし、会ったところでなにされるかも知ったこっちゃない。なら今は怖がってビクついているより、いつもみたいにケタケタ笑って過ごしてた方が楽だろ? お前にそんな暗い顔は似合わない」
琳は終始無言で見つめて俺の話すことを聞いていた。しかし俺が最後に言い放った言葉を聞いた時、眼をゆっくり見開いて驚きのあまり言葉を失ってしまい、口元がわずかに震えている。
言い終えてから、自分がさりげなく恥ずかしいことを言ってしまったことに気が付いて、急に我に返ると顔が火照ってきて琳を真っすぐに見られない。サッと視線を手帳に落としてごまかすようにペンを走らせていく。
「……と……とのぉ……」
途切れ途切れに呼ばれた俺は顔に恥ずかしさが残りつつも、手帳に向けていた視線を恐る恐る上げて琳の顔色をうかがう。
――そうして見えたのは、肩を震わせ眼に涙を浮かべるも必死にこぼすまいと我慢している、今にもはち切れそうな顔をした琳だった。
「わっ、私っ、グズっ、殿に、そんな風に、ンっ、思ってもらっているなんて、思ってなくって、えっぐ、独りでずっと、我慢しててっ、ひっく、でもっ、でもっ……」
そこから先の言葉が詰まってしまって出てこない。必死に我慢する琳の嗚咽が聞いていて俺まで心苦しくなってくる。琳はそれほどになるまで、たった独りでこの問題を抱えて自分だけで処理しようとしていた。
これは推測だが、今までの琳の数々の行動の裏側には、封印されている間に過去のことに対する自分の行いを悔いたからこその、殿様の子孫である俺に尽くすことで秘密裏に贖罪の意を込めていたのではないだろうか。だとしたら今までずっと黙っていたことや、頑なに話したがらなかった理由にも合点がいく。
宿敵の再現による過去の過ちへの制裁の恐怖と、それによってしたかった罪滅ぼしが出来なくなる不安、それが琳の中で今もずっとわだかまっている正体だろう。そこまで一途な子に慕われていた俺のご先祖様がほんの少し羨ましい。
けどいくら大昔に生まれたからって所詮は俺より年下の女の子だ。一人で抱えられるものなんてたかが知れている。けど俺に迷惑を掛けたくない一心でそれを押し殺し気丈に振る舞っていた琳は、俺の想像より遥かに我慢強くて一途な子だった。そんな子が、今こうして俺の目の前で過去のことと今の問題に押しつぶされないよう必死に我慢している。
俺は持っていたペンをいつの間にか机に置いていて、目の前の光景から目が離すことができなかった。女性経験が少ないため、初めてのことで本来ならどうすればいいかわからず慌てふためいている所だろうが、今の俺は恐ろしいほど落ち着いて琳の顔を見ることができている。琳がこうなる前に早く気づければという後悔の念さえジワリと心にくすぶり始めてしまうくらい今、俺は目の前のことしか考えられなかった。
「……琳」
ふいに俺の口から言葉が漏れ出す。
「……グズッ、は、はいっ……」
自分でも少し肩が震えているのが分かる。唇はカラカラで外気が冷たく触れる。心臓の鼓動がはっきりと全身に伝わり、血液が高速で駆け巡りながら口の中に言葉のカケラを運んでいく。
そして――――、
「お前は怨霊の三ツ姫じゃない。バカでドジでアホで、天然でマヌケで大した能力もない、ただの幽霊の琳だ。それは見てきた俺が一番よく知ってる。だから、そんなお前を保護してる俺のことを、少しは信用しろ」
「――ッ!」
俺の言葉を聞いた琳の嗚咽がピタリと止まった。
「なんでお前が未だこの世にいて成仏しないのか、今ならなんとなくわかる。だからもう過去や今の問題を一人で引きずるな。陰陽師だの式神だの、そいつらを俺の家系とお前の間の問題に交じえるつもりは毛頭無いし、今のお前が、明日したいことを考えて、そんでもって今日を笑って過ごせるようにしっかり見ててやる。だから――――」
俺は元来から幽霊だのオカルトだのには興味がなかったし、関わる機会もなかった。それがこの一か月弱の間に俺の後ろには幽霊の女の子が居憑いちまって、笑って、怒って、いろんな場所に連れて行ってやった。いつも元気で、たまにバカやらかして怒られて、でも撫でるとふやけたような顔して笑ってきて。
本当に幽霊か、と何度も疑った。でも色々すり抜けるし空中飛んでるし、周りの奴からは見えないし結局は幽霊なんだって思って。幽霊なら成仏させてやらないとなって初めは考えてたけど、今こうして泣きそうな幽霊、いや"少女"を、怯えて怖がっているこの子を俺は本心ではどうしたいのか。自分の暗い過去を必死の思いで打ち明けられた俺がとらなきゃいけない対応は?
否、考えるまでもない。答えは最初から一つだけしかない。
琳は息をのむ。俺は一つ大きく呼吸をしてから、
「俺が、守ってやるよ」
「……ッ!!!」
琳の左目から、一筋の雫が淡い軌跡を描いて滑り落ちる。
「……うぅっ、うわあああああぁぁぁぁぁッッッ!」
途端にせき止めていた我慢のダムが決壊して、大粒の涙が紅い眼をした瞼から流れ落ちていく。今まで自分だけで抱えてきた問題を打ち明け受け止められて、不安でしょうがなかった気持ちを理解されて、尚且つ自身が想っても決して求めなかった言葉を一番言ってほしい人の口から聞けて、もう訳も分からずただただ泣きじゃくる一人のか弱い女の子がそこにいた。
感極まった琳は急に席を飛び立つと、机をすり抜けて俺の胸に飛び込んでくる。他の物体はいくらでも通り抜けられるのに、俺だけはどうやら全身で琳を感じることができてしまうため、受け止めた勢いで椅子が後ろにぐらつき勢い余って倒れかける。しかし幸いなことに背もたれが台所の壁に引っかかって斜に傾いた状態で動きが止まる。
初めてちゃんと抱いた琳の体は、幽霊だから軽いと思っていたのにしっかりと生身の人間の重さ、いや、それ以上の重さと確かな温もりがあり、その長い黒髪は林檎のような甘い香りをさせ俺の鼻腔をふわりとくすぐる。
「ううっ、えぐっ、ううぅぅぅ、グズッ、ああぁぁぁッ!」
尚も琳は胸に顔を押し付けて拳を握り泣き続け、俺の服は涙と鼻水で生暖かくぐしょぐしょになってしまうもただ黙って琳の頭を優しく撫でてやる。その度に琳の声は大きくなり、心の中のわだかまりを少しづつ溶かしていく。
「……うぐっ、ひっく、ズズッ、んっ、はぁ……」
恐ろしく長いことそうしていたような気分だ。琳はもうだいぶ泣き止んでいていつもの落ち着きを取り戻しつつある。俺の膝の上で顔を上げて忙しく眼をぐしぐしこすって涙を拭きとっている。
「もう大丈夫か?」
撫でてやっていた手を優しく琳の前髪に沿わせて隠れている部分をどかすと、琳のくりくりとした紅い瞳が潤んでいてそれはさながらビー玉のような綺麗な珠の形をしている。
「んっ、はい……もう平気です……」
「そうか。なら……」
そう前置きをしてから、俺は自分の腹の上を指さして、
「そろそろ、どいてくれねぇか? もう、色々、限っ界……」
琳がきょとんとして指を指した方を見ると、俺の腹筋と全体重を支えている椅子の二本の足がプルプル震えていて、今自分たちが置かれている危機的状況を理解する。
「……っはっ!! ごっ、ごめんなさいっっ!!」
青ざめ始めている俺に気づいてすぐ膝の上から飛び立つと、急いで俺の下の椅子に手を添えて崩れないように必死に支える。膝と腹にかかっていた重荷が離れて解放された俺は、傾いている椅子からゆっくりと下りて、それから琳と一緒に立て直す。
「ふぃぃ~、危なかったぁ」
俺はその場で脚を組み片膝を立てて、その上に自分の腕を置いてヘタッと座り込んでしまう。
「と、殿、その……」
琳がばつの悪そうに顔を伏せてもじもじしながら、何かを言いたげに椅子を挟んで向かい側に立つ。
「いや、お互い何事もなかったんだから気にするな」
それより、と俺は付け加えて琳を見上げ、
「お前はもういいのか?」
「は、はい……もう、たくさん泣いたので」
「そうか。ならいいか」
外はいつの間にか雨はやみ、雲の切れ間から黄色、白、オレンジの太陽光が差し込んでいる。あれほどうるさかった部屋はしんと静まり返り無音の空気が流れる。
俺と琳はたまらずフフッと笑いがこみ上げてきて、それから我慢できず二人して訳も分からず笑ってしまう。琳とこんな風に笑いあったのはいつぶりだろうか。もしかしたら今まで一度もそんなことはなかったかもしれない、そんなふうに思わせるような屈託のない、本当に純粋な笑顔がそこにはあった。
「殿、一つお願いがあります」
急に琳が安心した顔をして、改まって俺の目を見つめて言う。
「おう、俺にできることならお金を使わない範囲で前向きに検討してやる」
久方ぶりな俺の冗談に、目を細めて微笑みを返してから、
「お金は必要ありません。殿の――――あなたのお名前を教えてください」
「あれ? 俺本名名乗ってなかったっけ!?」
今更過ぎるくらいの初歩的なことに、俺は目をぱちくりさせて自分の耳と琳の言葉を疑う。
「はい。聞いていませんっ」
琳は毅然とした笑顔で答える。
「マジかぁ……てっきり名乗ってあるものだと。てか、店長とかが言ってるの気づかなかった?」
「多分聞いてますけど合っているか自信ないですし、何より殿の口から直接お聞きしたいですっ」
自分の犯した初歩的なミスがこんなタイミングに発覚するとは。まあでも隠していてもしょうがないし、隠す必要もない。なにより、自分のことを打ち明けてくれた相手に隠し事をするのは失礼ってものだ。
俺は崩していた体制を整えて、しっかりと琳と向き合う形をとる。お互いの視線が真っすぐ直線上で繋がるようにしっかり目を見て、
「ならば改めて、俺の名前は――――家城雅稀だ」
「やしろ、まさき……」
琳は俺のフルネームをつぶやき、それから口角を上げて、
「これからも、よろしくお願いしますね、殿っ!」
「名前教えても呼び方は変えないのな」
地平線に近づきつつある太陽の光が、優しく柔らかに二人の笑顔と湯呑を照らしていた――……。
雅稀メモ:自分の名前を名乗っていなかった
琳メモ:殿の名前がやっと分かった




