其ノ2 予想外の訪問者(★)
……。
……。
……。
寝苦しい。
夜中になっても一向に冷めない熱気のせいもあるが、なにかこう、息苦しいというか居心地の悪いというか、よくわからない不快感が胸の内にわだかまっている。眠気はあるのに目を閉じてからしばらくしてもなかなか寝付けなく、意識ははっきりとしたままの覚醒状態が数時間続いていた。
「……んぅ」
身体はすごく疲れているのに、一向に寝れない不快さで気分が悪い。寝返りを何度もうちながら、ついには堪らず目を開けて周囲を見渡すが部屋は真っ暗で何も見えない。
暫く何も考えずそのまま横になってぼーっとしていると、夜空に浮かぶ雲の切れ間から覗く月の光が窓から射しこんで俺の部屋をぼんやりと明るく照らし始める。
「……んぁ?」
ふと部屋の空気に違和感を感じたのでおもむろに部屋の出入り口付近に目をやると、そこには小さくぼんやりとした白いもやが浮かんでいた。それは雲のような、霧のような、あやふやで捉えどころのないもので正体が解らない。寝ぼけてるのかと思い、目をこすって体勢を起こし再度確認するが、見間違えでもなくやっぱりそこには何かがいる。
「……なんだよ」
白いもやは俺の問いに答えることなくその場に漂うが、次第に大きく縦に伸びていきついにそれは"人"の形を取り始めていく。もやが上下に伸びたかと思うと、今度は中央より少し上から左右に細く伸びていき、段々とそれが人間の腕のように変わっていく。中央の棒の先端がくびれていき頭と首に変わると、次第に頭の上から髪の毛らしき白く細いものが生え始めた。
少しして、白いもやだったものは完全な人間の姿に変わってしまった。ぱっと見た感じは背の低い少女のようで、白い着物を身にまとっている。髪は背丈よりも長く床にまで垂れ下がっていて、前髪で顔は隠されているが口元は明らかに笑っているように見えて不気味さを演出している。所々見え隠れしている素肌は血の気を一切感じさせないほど真っ白で身体全体がぼやっと透けている。
そして視線を落とし足元を見ると――ない。普通はあるはずのものが。
今までずっと毛嫌いし続けてきたそれと、よくある特徴が一致する。いるはずがない、そう思っていた存在が。この瞬間。目の前に。この目に映っている。
眠気なんかとうの昔に吹き飛んでいて、大きく見開いた自身の目が未だに信じられない。急に部屋の空気が冷たく感じ、背筋に冷や汗が流れていく。生唾をゴクリと音を立てて飲み込むが、心臓の鼓動の音の方が大きく感じた。
が、しかし今一つ腑に落ちないところもある。先ず第一に、ここは俺自身の家であり自分の部屋でもある。普通、こういうのが出ると言われるのは墓場とか学校とかであって、こんな縁もゆかりもないところではないはずである。ましてこの家は墓場の上に建てられた訳でもあるまいし、入居時にいわくつきだとかっていう話もなかった。死人に恨みを買われるようなことにも身に覚えがないし、色々考えても出るための条件がそろっているとはとても考えられない。
白い幽霊の少女は、尚も不気味な笑みを浮かべながらその場にフワフワと漂っている。何かをし始める訳でもなく、ただドアの前に立って浮かんでいるだけで一切の挙動が無かった。
「……あの、どちらさま?」
俺が声を掛けた途端、急に辺りの気温がぐっと下がったように感じる。
『ヤット、ヤット……』
幽霊の少女は、低く響くようにつぶやきながら俺に向かってゆっくりと動き出した。ゆらゆらと、危なっかしそうな足取りで、ゆっくり、ゆっくりと確実に俺の方に近づいてくる。幽霊が一歩前に出るたびに俺の心臓はドクンと波打ち、呼吸が一段階速まっていく。しかし、金縛りにあったかのようにその幽霊から目を離すことが出来なく、俺はただただどうしていいか分からず固まってしまっていた。
そして、幽霊が目と鼻の先まで近づいてきたとき、気味の悪い笑みをした顔をゆっくりと上げて――、
『ミィツケタ』
「…………は?」
じわじわと近づいてきた幽霊が、急にピタッと止まる。恐らく、予期していた反応ではなかったことで不意打ちを食らったため、さっきまでの不気味な笑みは驚きの表情へと変わっていた。おどろおどろしく揺らめいてた髪がシュンと力なく垂れてしまい、幽霊としての威厳が大分減ったように見える。
声を聞いた途端、フッと体の力が抜けて四肢の自由が戻ってきたように感じた。何故かはわからなかったが、その声にはどこか怖さを感じない節があったのだ。だから、自分の中で腑に落ちていなかった気持ちが、つい身体が自由になったと同時に口から出てきてしまったのだ。
俺は一度目を閉じ深く深呼吸をしてから、ゆっくりと眼を開けて目の前の幽霊を見つめる。
「あんたが誰だか知らないけど、人違いじゃねぇのか? それに、人の寝込みを襲おうとするなんて随分と礼儀知らずだなァ? 頭湧いてんじゃねぇのか?」
丁度寝苦しくてイライラしていたところだったので、そのうっぷんを幽霊の少女に向けて口調が荒くなっていく。身体の調子さえ戻ってくれば、もうこちらのものだ。信じちゃいない幽霊に寝込みを襲われるなんてまっぴらごめんだ。
「大体、俺は幽霊なんて信じちゃいないし見たところで格別驚きもしない。もし仮に、俺に何か恨みがあるってんなら日を改めて日中に堂々と来いよ。こっちはさっきから寝苦しくてイライラしてんだっ」
幽霊の少女は先ほどと打って変わっておびえてしまった様子で、近づいてくるどころか震えながら後ずさりし始めていた。身体はワナワナと震えていて、俺の強気な態度がよく効いているのが分かる。
「お前の出るところはここじゃないぞ。墓場か学校に帰って昼間に出直して来い!」
しっしっと払うように手を動かす。とどめの一言を強く言ったためか、幽霊はビクッと肩を震わせて表情を凍り付かせた。
『……ァ……アァ……』
全身が小刻みに震えだしたかと思うと、ドアの前まで後退していた幽霊はついにその場で一歩も動かなくなってしまった。しかし消え去った訳ではなく、何故かずっとそこに居座っている。
(まあ、何もしてこないなら特に警戒する必要もないだろう。どうせ朝になれば消え失せて終わりだ)
「まったく、嫌な夢だなぁ」
動かなくなったならもう用はない。さっさと寝よう。そう思って起こしていた体勢をもう一度横にして布団を被り、今度こそはいい夢が見られるようにと願って瞼を閉じた――――。
――……。
――……。
――……。
チュン、チュチュン。
元気のいい小鳥の鳴き声で目が覚める。外の太陽はすっかり天空に昇っていて気温もかなり上がってきており、外野のセミ達の愛の大合唱がけたたましくてうるさい。仕方なく布団をめくって上体を起こしてから、昨夜の悪夢はタチが悪かったなぁとぼやきながら眠たい目をこすり、ふぁぁ~っと気の抜けるような大きなあくびを一つ。
「あっ、おはようございますっ」
「んぁ~? あぁ、おはよう」
俺は聞こえてきた声に対し、何の違和感も持たず返事をした。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「いやぁあんまり。こう夜中も暑いとねぇ」
「それはそれは……さぞお辛いですよね」
寝起きに気を使ってくれるとは、よくできた子だな。朝から気分がいいぞ。うん。
「……うん?」
ちょっと待て。俺は今誰と話したんだ? この部屋には俺一人だけのはずだし、そもそも俺は一人暮らしだ。そしてこんなにかわいい声の主との縁なんて物もない。心優しい彼女もいなければ、かわいい幼馴染が起こしに来てくれるようなギャルゲー的なフラグを立てたこともない!
起き上がったまま壁から目線が動かせなく、寝起きの額に冷や汗が滲む。
俺はまだ寝ぼけて夢を見ているのか? そうだ、きっとそうに違いないっ! と、そう思いたかった。
「あのー……」
「はい。なんですか?」
声の主は、目の前の壁に向かって話す俺の問いに対し素直に答えてくる。間違いなく、誰かがこの部屋にいる。思い当る節はあった。そう、それは昨日の夜に見た悪夢だ。万が一、いや、億が一この部屋に俺以外の誰かが居るとすれば、それは……。
非常に不安と恐怖があったが、確認しないわけにもいかないので恐る恐る部屋を見渡し始める。最初は安全だと思われる正面の壁。次にその横の窓。さらに机。
(何も……いないな……)
そして問題のドアの方に首を回してみると――、
居た。そいつが。声の正体が。
部屋のドアの前にちょこんと正座をしていて、俺と目線が合ってしまい慌てて少し委縮してしまったが、上目づかいでそーっとこちらを見ている。
俺は驚きのあまり半開きになった口が塞がらず、体も石のように硬直してしまう。
「……あの、何か?」
「のあああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―
……――――そして現在に至る。
少女と俺は低い円形の机を挟み、向かい合わせで正座をして対面している。改めてその姿をよく見ると昨夜見た姿とは大分変っていて、あの恐ろしく長かったダークグレーの髪は腰の辺りまでの長さになっていたり、怪しく浮かんでいた白い着物は淡いピンク色で花の模様があしらわれ、綺麗な水色の帯を締めていた。薄気味悪かった顔は透き通るようなツヤのある肌で頬は紅く生気が満ちていて、瞳は大きく黄緑色でくりくりとしてまるで小動物のようだ。
あまりの変貌ぶりに別人かと疑ってしまいたくなるほどで、アニメのコスプレにしては上手くハマりすぎていて逆に怖い。
(これは夢なのか? 現実なのか? 何がどうなっているんだっっっ!!)
「エート……どちらさま、でしょうか……?」
俺は目の前の相手に、恐る恐る尋ねた。
「あっはいっ。私は"幽霊"です」
欲しかった答えと違いつつも、的を射ている答えに思わず体勢が崩れずっこけた。
「いや、あの、そーじゃなくて、えーっと、ほら、あなたのお名前とかさっ」
思考がこんがらがり言葉がしどろもどろになり、身振り手振りで俺の質問の意図を伝える。
「あ、私の名前ですか?」
幽霊の少女は、意外そうにきょとんとした顔で答える。
「私は生前、三ツ姫と呼ばれていました。ですが、死んだときにその名は捨てましたので今は名前がありません」
「そ、そうですか……」
やばい、焦る。今俺はその存在を否定していた幽霊と会話をしてしまっている。この事実を未だに受け入れられない。なぜ、どうしてと頭の中で疑問符が大量生産されている。
熱くも冷たい汗がじっとりと額に浮かんでくるが、今はそんなことを気にしているほど余裕がない。
「そ、それで、なぜ君はここに?」
「なぜって……昨日埋もれかけているところを助けてくれましたよね?」
た、助けた? いったい何を勘違いしてるんだこの幽霊は。
「昨日、俺なんかしたっけ?」
「もうっ、忘れちゃったのですか? 昨日、私が封印されていた祠のお手入れをして封印を解いてくれたじゃないですか!」
幽霊の少女は、眉間にしわを寄せ少し怒ったように答える。
祠って言われても、昨日俺がしたことなんて――、
「……あ」
今度は、少女の顔が急にパアっと明るくなる。
「思い出してくれましたかっ!?」
「あ、いや、確かに祠っぽいものは掃除したが、封印なんて知らないし解いてないぞ?」
「だって、お札剥がしましたよね?」
「お札? ……あ、まさかあのボロい紙切れか!?」
頭の中で散らばっている記憶の点と点が、少しずつ線になり始める。
それから、幽霊の少女は自分がここに来るまでの大まかな経緯を話し始めた。
この子は昔々、ある所にいた若いお殿様の正室候補だった。候補者は全部で三人。それも自分の家の姉妹同士での争いだったそうだ。一番年下に生まれたこの子は、幼くともその見た目と愛くるしさでお殿様に大層気に入られていた。この子自身もお殿様を心から愛していて、正室になるのは私しかいないと思い込んでいた。
しかし現実はそう甘くはなく、お殿様の家来たちとお父様の話し合いの結果彼女だけが正室に選ばれなかったのだ。理由は《正室になるには若すぎる》、ただそれだけ。
あまりのショックで心を病んでしまいついにあの崖から身を投げてしまったが、死んでもお殿様への気持ちが強く残ってしまったため幽霊、もとい怨霊となって蘇ってしまった。しかし、そのままでは殿に危険が及ぶと考えたお父様の家来の陰陽師達によってあの場所に封印され、今日までずっと祠の中に閉じ込められていた。その封印を理由はわからないけど俺があっさりと解いてしまい、自身の意識がこの世に戻ってきて現在に至る。
「――と言うわけです」
「な、なるほど……」
ようやく事態が呑み込めてきて、普段の落ち着きが戻ってくる。
「でもなんでここに?」
「それはあなたから殿と同じ"気"を感じたからです。あの封印は殿の家系の者でなければ触れることはおろか、見つけることすらできないと陰陽師が言っていました。それを解いたということは、あなたは紛れもなく殿のご子孫にあたるお方なのです!」
フフンと鼻を高くして、腰に手を当て得意げに話す。
「そして、殿と同じ気を持ったあなたをたどって飛んできたら、いつの間にかこのお屋敷に来ていました」
またもや驚愕の事実発覚。俺のご先祖様はお殿様だったのか。そんな話は両親からも聞いたことがない。すでに俺の脳は入ってくるデータ容量が大きすぎてパンク寸前だ。
さらに、「それに……」と彼女は続ける。急に顔が赤くなりもじもじと体を揺らし始めた。
「あなたが……その、殿とそっくりなもので、つい嬉しくなっちゃって……」
……。
……。
……。
ボンッ!
家城雅稀、脳内に重大なエラーが発生しました。思考停止。脳のプログラムはショートしました。再起不能。データを修復できません。
「えっあ、あのっ、と、殿っ! 殿ーーーっ!!」
ついに脳みそがオーバーヒートしてしまい、頭から煙を出して動かなくなった俺を幽霊の少女は泣きつきながら揺さぶって再起動を促すが、暫くの間ピクリとも動くことはなかった。