其ノ15 海の黒いあんちくしょう
琳にうまく乗せられたように感じて、なにか釈然としない気分で海浜公園まで歩いてきた。
俺の自宅がある界隈からは歩いて三十分ほどの距離にあり、なかなか遠い場所に位置している。夏の海と言えば、白い砂浜と青い海、そして綺麗なお姉さんと一夏の思い出をつくる青春の場所のはずだが、今日は全く違う理由がある。まさか今年の夏初めての海が釣りのためだなんて、と悲観するとともになんとも言えない悔しさがこみ上げてくる。
今日は平日だというのにデートや散歩をする人が多く、数あるベンチもほとんど埋まっていてまるで休日のようだ。
「人多いなぁ……」
多くの人と夏の熱気で余計暑苦しく感じる。
「うわぁ……海なんて久しぶりですぅ~!!」
琳は敷地内に入ると、リードから離たれた犬のように俺の頭上を飛び越えて海のある方に飛んで行く。出かける際の約束では俺の後ろにつくことになっているが、小さい子供に約束事がなかなか守れない様に琳もまた破る時は破る。しかし最近の琳の行動を見る限りでは、俺の姿が見えないところまでは決して行かないで必ず目の届く範囲で飛び回っているので、たとえ約束を破っていても叱ることまではしないようにしている。
琳は歩道に連なっている安全柵をやすやすとすり抜けて、目の前の大海原に頭から勢いよく飛び込む。しかし相手は幽霊なので飛び込んだところで水しぶきひとつ起きない。周りで散歩している人たちや海を眺めている人たちは、よもや目の前に幽霊が飛び込んで泳いで(?)いるなんて想像しないだろう。
俺は柵のある海沿いまで近づくと、辺りを見回して釣り人がいないか探し始めた。この歩道の下は防波堤にもなっているらしくテトラポットが沢山沈んでいて、それが魚の良い住処になっているためか一日中釣り人が釣りをしているのだ。
海の傍まで寄っていくと、50メートルほどの長さの歩道の端に一人だけ釣りをしているおじさんがいるのを見つけた。おじさんのすぐ横は小さな川の河口になっていて汽水域になっているため、恐らくいい釣りのポイントなのだろう。
「今日は何か釣れてますか?」
俺はおじさんの方に歩いていき、今日の釣果を訪ねる。おじさんは麦藁帽をかぶり、首には白いタオルを巻いて海の方をじっと見つめていた。
「いやぁ、小物ばっかだよ」
おじさんは俺に気づくと竿を柵に立てかけて問いに答える。すぐ横の海水の入っているバケツを覗いても、数匹の小魚がちらほらと泳いでいるだけだ。
「にいちゃんも釣り?」
「そうなんです。ここいらだと何が釣れますか?」
「そうだねぇ、ハゼやタナゴなんかはよく釣れるな。あとはスズキの子供とか、夜はアジも来てるらしいね」
ハゼやアジは俺も釣ったこともあるので想像は付くが、タナゴは聞いたことがないな。スズキって言ったらかなり大きい魚じゃないか。魚屋の店頭にどんと鎮座しているのを見かけるあれだよな。
「ここって鯛とか釣れますか?」
何気なくおじさんに尋ねてみる。
「鯛ぃ!? 鯛なんかここにはいないよ! もっと沖に行かなきゃダメさ!」
おじさんは鯛と聞いて腹を抱えて笑い出した。自分でも馬鹿な質問をしたとは思ったが、ここまでコケにされるような笑われ方をされるとかえってムカついてくる。
「じゃ、じゃあ、どこかよさそうな場所知ってますか?」
「なに、鯛釣りたいの? それなら船乗って沖に出るしかないよ。ここいらじゃ大物は期待しない方がいいさ」
おじいさんは半ば馬鹿にしたように笑いながら答えると、海に投げてあった自分の仕掛けを回収し始める。仕掛けを巻き取り終わると足元にあるクーラーボックスとバケツを持って、
「今日はダメだぁ。にいちゃんもせいぜい鯛が釣れるように頑張んな」
と、皮肉たっぷりな言葉を残して反対の方に歩いて行ってしまった。残された俺はすごく馬鹿にされたようで、恥ずかしいやらムカついたやらで複雑な気分だった。
「殿ーっ! 見てください! サザエ見つけました~!」
俺のことなんて全く知らない琳が、海から顔を覗かせ大きく手を振る。その手には大きく育ったサザエが握られていて、魚屋に売り物にしてもよさそうなほど立派だ。しかし今の俺はそんなことはどうでもよかった。
「……琳」
「殿?」
「なにがなんでも鯛釣るぞ!! 馬鹿にされたままじゃ癪だからなっ!」
雅稀の眼には闘志のようなものが宿り、瞳の奥には炎が燃え滾っている。
琳はこんなに真剣でやる気の満ち溢れている雅稀を見たことがなかった。余りの気迫に背筋がゾクっと震え、手に持っていたサザエがすり落ちて海に帰る。
「え、と、殿!? ど、どうされたのですかっ!?」
「どうもしない。これは俺が売られた喧嘩だ。何が何でもあの頭湧いてるオヤジにひと泡吹かせてやるッ!!」
そう言って、手に持っていた竿ケースから竿を取り出し恐ろしいほどの気迫で組み立てていく。その様子を遠くから見ている琳は海の中で、
「と、殿が本気になった……」
と、目を点にして小さくつぶやいた。
――……。
竿を伸ばし、リールをセットしてから糸を出していく。ここまでは体が覚えていて難なく進められる。ウキと針までセットし終わると、今度は針の先にさっき買ってきたおつまみ用の乾燥エビを刺す。最初は文字通り"エビで鯛を釣る"つもりはなくこれを撒いて魚を集める考えだったが、どうせならこれで釣っておじさんを驚かせてやろうと考えたのだ。
仕掛けが完成しすると、竿を手に持ち後ろに振りかぶった後思いっきり仕掛けを投げる。仕掛けはドボンと大きく音を立てて延長線上に落ちて沈んでいき、少しして寝ていたウキが立ち上がり安定すると竿を柵に立てかけて準備完了。
「これで良し。さあ、鯛来い!」
俺は歩道の反対側の端に行って、釣りを再開しているおじさんに対抗心を燃やしていく。
「これで本当に釣れるのですかぁ?」
琳は心配そうにしゃがんで竿の先を眺めている。俺が用意している間なぜか一言も話さずじっと見ていただけだったので、久しぶりに琳の声を聞いた気がした。
「やってみなきゃわからん。昔の人がそういう言葉を残したくらいなんだから釣れるだろ」
「そうですかぁ……」
しかし琳の心配は的中してしまい、数時間待っても魚のアタリ一つ来ることはなかった。時間を空けて仕掛けを回収しても、乾燥エビは無くなっていて餌だけが海に帰っていく始末。さらに魚を呼び寄せようとむやみにばらまいていたので、袋にはもう半分も残っていなかった。
「くっそぅ……」
俺は炎天下の中、一向に沈まないウキを眺めながら悔しさがこみ上げてつい口に出る。琳は最初こそウキを見る番を買って出ていたが、何も変化が起きないままなのでつまらなくなったのか一人で海に入り魚や貝と戯れている。
「殿~。まだですか~?」
海から顔を出して、口をとがらせ不満そうに俺に尋ねる。
「鯛じゃなくてもいいので釣ってくださいよ~」
「やかましいわっ。大体お前さっきから何もしてないだろ! 釣ってほしいなら魚の一匹くらい連れてこいっ!」
「そんなことできませんよ~」
琳はそう言い残して、人魚のように身をひるがえして海の中に潜っていってしまった。
俺は、暑苦しいのと魚が釣れない不満でイライラし始めてしまう。魚釣りってもっとコンスタントに釣れるものだと思っていたが、現実はそう甘くはなかった。釣り堀などの限られた区域で釣るのとは、難易度が桁違いだ。相手は地球の七割を占める大自然の海で、その端っこで釣り糸を垂らしてるだけじゃ話にならないってことなのかと、まるで哲学を教えられているような気持ちだ。
――……。
日が傾くまで粘っていたが、結局アタリは一度もやってくることはなく公園にいた沢山の人々も徐々に家路に帰りだしていた。琳も遊び疲れて後ろのベンチにもたれかかり、すーすーと小さい寝息を立てて昼寝をしている。俺はもう昼間のような対抗心はとっくに消え失せて、ただただ何でもいいから魚がかかってほしいという願望だけで手を動かしている。
残り僅かになったエビをハリにつけ海に落とすが、もうこれでかからなかったら退散しようと考えていた。そうしないと今日の夕飯をつくる時間が無くなってしまうからだ。
「はぁ……」
夕日に照らされたオレンジ色の海を眺めながら黄昏てしまう。サバイバルとは言ったものの結局手に入ったのは山菜と木の実程度で、実際は格安の食材を買いあさって何とか生活しているので本当にできていたとは思えない。このご時世自分で採らなくても案外どうにかなるもんだなぁと、改めて文明の発達と農家の方々へのありがたみを噛みしめる。
(また今夜も山菜の味噌汁と鬼頭のごはんかなぁ……)
……チョン……
(さて、そろそろ引き上げるかな)
……ピクッ……
「おーい、琳。そろそろ起きろー」
俺は竿を右手に持って、首だけ琳の方に向けて声をかける。
……チャポンッ……
「……ふぁ。あ、もうこんな時間に……」
「そろそろかたz――うおおおぁぁぁっっっ!!!???」
琳の方を向いていて竿から意識が途切れた瞬間、右腕にドンっと大きな衝撃と重みが伝わってくる。とっさに意識を再接続するも、意識伝達のタイムラグが体を硬直させ体ごと柵まで引き寄せられる。あと少しで竿ごと持っていかれそうになるが、左腕が間に合ってギリギリのところで踏ん張りが効き持ちこたえる。
「と、殿!? どうされたのですかっ!?」
「り、琳、話しかけるなッ……!」
琳になんてかまってる場合じゃない。竿先は直角に折りまがって海の中を指す。リールから糸がどんどんと出て行ってしまい、かかった獲物が必死に逃げまどっていることがビンビンと伝わってくる。
「くっ……こいつはデカいッ!」
竿の柄をへそにあてがい、両腕をピンと張って竿を持ち上げようとするがびくともしない。腕っぷしには多少の自信はあったが、まるで巨大な岩を引っ張っているような感覚だ。
かかった獲物は、尚も海の中で縦横無尽に走り回っている。
「殿っ! 頑張ってくださいっ!」
琳も俺の上に飛び出すと、空中で竿先をその小さな両手で支え俺を助けようと奮闘し始める。
「くっそっ! おとなしく、しやがれッッッ!!」
――……。
かなり長いこと獲物と格闘していたように感じる。段々とだが獲物の動きが弱くなっているような気がし始めた。時々魚の抵抗が弱まって竿が軽くなる時があり、そのスキを逃さぬように素早くリールを巻いていく。恐らくうまい人ならばもっと短時間で効率よく釣れるのだろうが、俺はそんな利口なことはできないのでひたすら力任せに巻き上げる。
「もうちょっとですっ!」
琳も反動で投げ飛ばされぬようしっかり竿にしがみつく。
徐々に獲物の魚影が水面に浮かんでくるも、夕日に照らされ体面がキラキラと反射していて何がかかっているかまではわからない。
しかしここまで上げられたなら何としても釣り上げてやる。
刹那、急に竿が軽くなった。今しかないと思った俺は、強引に竿を振り上げ海から引っこ抜いく。
「うぉぉぉりゃぁぁぁっっっ!!!」
「ぅわっ、はわぁ~~~っ!!!」
振り上げた拍子に仕掛けの糸がパチンッと千切れ、琳と獲物は遥か後方に投げ飛ばされてしまう。俺は、得も言われぬ達成感が体を突き抜けすがすがしい気分だった。が、すぐに気を取り直して竿を投げ出すと、琳が飛んで行った先に向かう。
「おい、大丈夫か?」
琳は木の下の茂みでひっくり返って目を回していた。しかしその手には千切れた仕掛けの糸が握られており、その糸の先を目でたどっていくと……
「……や、やったぞ! 琳っ! やったぞ!!」
そこには、黒く大きな魚がぴちぴちと草むらの上で元気よく飛び跳ねていた。
俺はあまりの嬉しさにひっくり返っている琳を起こし、思わず頭を抱えて抱き着いてしまう。
「ふぇっ? は、はわわわわ……っ!!」
琳は自分のが何で抱きしめられているのかわからず、顔を真っ赤にして動揺している。
「と、殿……苦しいですぅ……」
腕の中から必死に息を吸って声を出す。はっと我に返り抱きしめていた腕を解いて離れると、琳は正座で縮こまり、ゆでだこのように顔を赤くして頭から湯気が出ている。
「あ、す、すまんっ! つい……」
「わ、私は大丈夫です。そ、それよりお魚は!?」
そうだったと我に返り釣り上げた魚のもとに駆け寄る。
魚体はとても立派な鯛の形をしていて、釣り上げた後の今でもまだヒレやエラが動いている。大きさは大体40センチってところだろうか。しかし、俺の知っている鯛とはある一部が違っている。
「……これ、鯛、なのか?」
琳も直ぐに飛んできて魚体を眺める。
「……黒い、ですね……」
そう、黒いのだ。鯛は本来赤かったりピンクがかっていたりするのだが、俺が釣ったやつは全身が墨のように黒くウロコは銀色に反射している。
「おう、にいちゃん。なんか釣れたか~?」
俺の声を聞きつけたのか、昼間のおじさんが様子を伺いに向かってきた。俺のもとまで来て目の前の魚を見ると、
「おおっ! こいつはデカい"チヌ"だな!」
と言って目を大きく見開いて感心しながら観察している。
「チ、チヌって何ですか?」
「チヌって"黒鯛"のことだよ。この辺でもたま~に上がるらしいけどここまで大きなものは中々釣れないな」
「黒"鯛"……てことは、食べられるんですか?」
「一応食べられることには食べられるけど、真鯛よりは味良くないぞ?」
「そ、そうですか……」
よかった。取りあえず、見た目は多少違ってもエビで鯛が釣れた。しかもちゃんと食べられるらしいし、これで今夜のメインディッシュは決まった。
俺は安心したと同時に、急に力が抜けてその場で大の字になって倒れこんでしまった……




