其ノ10 約束ってなんだっけ
夕焼けの空は、とても高い所にあるのに雲は手が届きそうなくらいの距離に思えて、高く手を伸ばしてみるが当然届く訳もない。指の間から漏れるオレンジ色の光が指の側面にある血管を透かし、人の手ではないような演出をする。
事務所に帰ってきてから起こった一連のことは嵐のように過ぎ去っていって、帰り路を歩く俺はまだ浮足立った気分だった。
(つい突っ込んでしまったとはいえ、マリエさん……いい匂いがしたな……)
仕事上の上司とはいえ、俺も伊達に男子を二十年近くやってないわけで、健全な育ち方をしているなら多少なりとも異性への興味はある。まして、こんなラッキースケベなことがあった日には、いろいろ自制が利かなくなってきてもおかしくない。夏場の薄着な女性は、彼女いない歴=歳の俺には刺激が強すぎる。
「……の……殿っ……」
「……ん……?」
「とーーーのーーーっっっ!!!」
「ぅあひぃっっっ!!!」
気づくと琳が耳元で大声で俺のことを呼んでいて、理性が戻った時には顔と眼を夕焼けより真っ赤にして叫んでいた。俺はずっと余韻に気を取られていたので、正気に戻った拍子と大音量の琳の声で飛び上がって変な声が出てしまった。
「お、おぅ……どうした……?」
「先ほどから何度も呼んでいるのに無視しないでください~!」
後ろを向くと琳は眉間にシワを作り頬をフグのように膨らませて、ムッとした表情でこちらを見ている。
「あぁ、スマン。それで、何の用だ?」
「殿、約束覚えてますよね?」
「約束? なんかしたっk――」
琳の怒った顔がズイっと俺に迫る。
「……えーと、あ、あれか? お前の前でパンを食べないってことか?」
「違います」
「じゃ、じゃあ、外で二人きりの時には構ってやるとか?」
「ぜんっぜん違いますっ!」
真紅に染まる瞳が俺を睨む。真っすぐな視線が痛くて目を合わせられない。
「じゃあ、えーと、えーっと……」
「覚えてないのですよね?」
「ハ……ハイ……」
俺が素直に非を認めると、腰に手を当てて呆れたようにため息をつき、眼と鼻の先まで迫っていた顔をゆっくりと離した。
「殿は忘れん坊さんですね」
「……まあ、否定はしない」
そのために手帳に色々書き込んでいるんだからな。こうなるなら、約束したときにメモっておくべきだった。
「もういいですっ」
諦めたようなトーンの声でいきますよ、と声をかけ今歩いてきた道を引き返すように俺の手を引いていく。
「お、おい、行くって……」
「約束したことはちゃんと守ってもらいますっ」
――……。
――……。
――……。
琳に手を引かれて連れてこられたのは、今日の昼間仕事で来たスーパーだった。普段俺もよく使うかなり大きめのスーパーで、この一帯に住む人々の家計を支える大事なお店である。しかしこの場所を教えた事はないし、あの道からここまで一緒に来たこともないのによく位置を覚えて来れたものだと一人感心する。
入り口が見える辺りまで来ると、道端で琳がふと足を止めた。
「ここにきてもまだ思い出しませんか?」
「うーん…………あ」
琳の表情がパッと晴れて、黄緑色をした期待の眼差しへと変わる。
「うちの食糧が底をつきそうだったから買い足そうと考えてたんだった!」
いやぁ、すっかり忘れてたとあっけらかんな顔をして笑っている俺を、この世の不幸を真に受けたような深い失望感をあらわにして冷ややかな目で琳が見つめる。
「いやぁ思い出せてよかった! 明日の朝飯が水だけになっちまうところだった。ありがt――」
「と……殿なんか、食べるものが無くなって餓死すればいいのですっっっ!!!」
力のこもった琳の叫び声が、鼓膜を突き抜けて脳天まで響く。その威力は、周りにあったゴミや塵を吹き飛ばし近くに生えている街路樹の枝を揺らして、琳の側を歩く人の衣服を強く煽る。一瞬何が起こったのかその場にいた人たちは理解できず、皆静まり返って風の来た方を向くがそこには"何もない"。その中心近くに俺がいて必然的に俺が注目の的になるが、耳を抑えて顔を伏せているいる俺も被害者なのだろうと悟った人たちから徐々に目線を元に戻していき、数分後には何事もなかったかのように元の活気が戻る。
俺はしばらく目を開けることも出来ず、顔を伏せたまま耳を塞ぎっぱなしだった。この幽霊、とんでもないことをしやがった。俺は何か地雷でも踏んだのか? ひょっとしたら怨霊に変わっちまって呪われるんじゃないだろうか? だとしたら俺、彼女も作れないまま死ぬのか……?
数分間そんなくだらない妄想を繰り広げていたが、だんだんと周りに活気が戻ってきた事に気が付いて恐る恐る耳を塞いでいた手を放し、辺りを確認しながら顔を上げていく。
顔を上げると目の前には今にも泣き出しそうに瞼に涙を浮かべ、怒りを必死に我慢して震えている琳がいた。
「殿はいつもそうです。いつもどうでもいいことは覚えているのに、大事な約束は守ってくれなくて……」
「す、すまん……」
(ご先祖様も忘れっぽかったのか。こりゃ俺の物覚えの悪さも遺伝のせいだな)
「……あの時もそうでした……」
「えっ?」
今、右の瞼から零れ落ちる涙の雫と共に、何か小さくつぶやいたような……?
「なんか言ったか?」
「何でもありませんっ! 思い出せないのならもういいですっ。大したことじゃないのでっ」
そう言って、溜まっていた涙を袖でぐしぐしと一生懸命拭いてから、俺の後ろにぴったりと付く。
「お出かけするときの約束其の三、移動するときは常に殿の後ろで、です。お買い物しなければいけないのですよね? なら早く行きましょう」
赤くなった鼻と詰まった鼻声でノートに書いた俺との約束事を暗唱し、必死に平然を保とうとしている顔で俺が歩き出すのを待っている。
「お、おう……」
なんかすごく申し訳ない気分だ。約束したことを忘れているのは勿論俺が悪いが、琳がここまで感情を出して怒るのは初めて見たし、そもそも幽霊とはいえ女の子を泣かしてしまうのは男としてどうなんだろうと、心の中で罪悪感が押し寄せる。しかし思い出せないものは仕方ないので、どうにか機嫌を直して聞き出せばいいだろう。
俺は言われるがまま、されるがまま琳の言う通りにスーパーの中へ向かった。
――……。
店内に入ると、今日の特売品の情報や旬の食材、売れ残りやB級品の売り尽くしワゴンなどが最初に目についた。このスーパーは毎日何かしらのセールをやっていて、一週間ごとに同じ物が周ってくる仕組みだ。今日は嗜好品類が安くなる日のようで、いくつもの商品がかごの中のチラシに載っている。
「卵は……明後日だったか。まぁいっか」
俺は山積みされている買い物かごを手に取り、中に入っているチラシを眺めながらよさそうなものはないか探す。琳はさっきまでの暗い顔は無かったかのように、店内に張られているカラーのチラシを眺めてウットリしている。このまま機嫌が直ってくれればいいのだが。
「まずは、食パンっと」
パンの売り場に直行し、いつも食べている八つ切りタイプを手に取る。ここまでたくさんのパンがあると琳も簡単には近づけなくて、売り場の端っこに立ってジト目で睨みむくれている。まるでほしい物を買ってもらえない子供が駄々をこねてその場に居座ろうとしているようだった。
続いては卵。パンの棚から少し離れたところにある乳製品売り場の隣に積まれていた。値札を見て、いつも特売日に買っていた分高く感じてしまうが、これがないと食事が質素になってしまうのもまた事実。仕方なく十個入りのパックをかごに入れた。
さらにその付近にあるチーズやら牛乳などもかごに突っ込み、食肉、野菜売り場を回って必要なものを集めていく。買い物は週に一~二回ほどしか来ないので、こういう時にまとめ買いをしなくてはならない。
「大体こんなところか」
かごいっぱいになった商品たちをかき分けながら、見て買い忘れがないかどうか確認する。
「あ、冷茶忘れてる」
この夏場に冷たい水が流れないうちの水道のせいで、冷たいものは外部で買ってこなければならない。特に冷茶は俺の好物で、ジュースより濃い冷茶の方が消費が早い。
レジ横のドリンク売り場で、いつも買っている二リットルボトルの冷茶を探す。見つけると丁度セールの対象だったらしく、紙パックの安い方を選んでいたいつもより二割ほど安くなっていた。
「お、ラッキー! 安くなってるのは有難い」
"静岡県産抹茶入り冷茶"のラベルが巻かれているペットボトルを手に取ってかごに入れる時、ふと頭にもやっとしたものが浮かんできた。
(お茶……なんか、お茶でなんかあったような……)
そういや琳はこの冷茶を薄いって嫌ってたっけな。別に昔のものが不味いとは言わないけど、現代人の味覚にはこっちの方が合ってるんだ。それにこのクソ暑い夏場に、わざわざ熱いお茶なんて飲むわけ――――、
「……あ」
"後でおいしいお茶買ってくださいね?"
脳裏にかかっていたもやが一気に晴れ渡った。そうだ、俺は琳に、仕事中なにしたのか教えてくれる代わりに美味しいお茶買ってやるって言ったんだった!!
気づいてから、直ぐに辺りを見回して琳を探す。しかし俺の周りには見当たらず、影も存在感も感じ取れない。思えば、パンを選んでいるとき以来琳の姿を見ていなかった。重いかごを担いで急いでパン売り場に向かうが、どこにもそれらしき人は見当たらない。その他琳が行きそうな場所を周ってみるが、そもそも琳にとって物珍しいものばかりなこの世では、心当たりが多いため探す範囲が広すぎる。
「あのバカっ……どこいったんだ!」
しかし、探し回ろうにも手荷物が多すぎてロクに歩くことも出来ず人や商品にぶつかってばかり。このままでは色々邪魔になるし、一度会計済ませてから再度探したほうがいい。
仕方なく探すことを一旦諦めてレジへ向かう。が、ほかの買い物客もかなりいて、会計が終わるまでにかなりの時間がかかってしまった。
(やっと終わった……流石にもうここには居ないだろうな……)
出かける際の約束事を破っている琳だが、元はと言えば俺が忘れてたのがいけないんだから責められないと自分に言い聞かせ、大きく張ったレジ袋を手に下げて出口を出る。これからどう探していこうかとあたりを見ながら考えようとしていたら、
「あ……」
夕日に照らされた大きな街路樹の下で、まるで恋人を待っているかのように後ろに腕を組み背中から幹に寄りかかっている琳を見つけた。その表情はとても悲しげで寂しそうで、見ていて心が痛むような気持ちになる。
俺はゆっくり歩いていき木のそばまで近づくが、最初の一声が出せない。
「……あ、買い物は終わりましたか?」
俺の存在に気が付いた琳は、表情は崩さずに顔をこちらに向けて声をかける。
「あ、あぁ……」
「勝手に出て行ってしまってすみません。私だって約束守れてませんね。これじゃあ殿を怒ることも出来ません」
そう言って乾いた笑みをして自分を卑下する。
「いや、お前は悪くないよ。俺が悪かった。すまんっ!」
側を通る人目を気にせず頭を下げて謝る俺を見て、えっと驚いた顔をする琳に向けて続ける。
「冷茶買おうとして思い出した。午前中の仕事のこと教えてくれる代わりにした約束。美味いお茶買ってやるんだったよな?」
「……そうです。やっと思い出してくれましたか?」
「あぁ、すっとぼけてて悪かった。だから、今から一緒に買いに行かないか? もちろんお前の選ぶものでいい。多少値が張っててもいいやつを買おう!」
雅稀が初めて見せた真剣な表情と突然の誘いに、琳は最初戸惑っていたが少し考えるしぐさをしてから、
「……わかりました。いつまでも怒っていたら大人げないですものね」
「じゃ、じゃあ……」
顔を上げると琳の顔は夕日を受けてオレンジ色に染まっていて、晴れ晴れとした笑顔の左目から雫が一つ落ちた。
「とびっきりの物、お願いしますね?」
その笑顔は乾いたものでもなく悲しみが滲んだものでもない、心の底からの嬉しい気持ちを表現した輝くような笑顔。夕日も相まって余りの綺麗さに少しドキッとしてしまう。
「お、おう、任せとけっ!」
その屈託のない笑みが失せないうちにと、俺は急いで夜の迫る商店街へ足を向けた。
雅稀メモ:約束はちゃんとメモする
琳メモ:殿はいつまでたっても忘れっぽい




