第一話
・・・カラン
ヨーッロパのある国のある街中の路地裏に店を構えるある小さなバー。
男は彼女が店を立ち去ったその後もバーカウンターに肘をつき、席を立つ様子も見せなかった。
男の視線は一見カウンターの奥にある店内の薄暗い灯りをうけほのかに輝いている数々のグラスに注がれているかのようだが、その瞳には何も映ってはいなかった。
「お客さん、まだ何かお飲みになられますか?」
バーテンダーはどこか遠くを見つめながら、グラスを口へと運ぶ男に話しかけた。
「同じのを」
彼は上の空のまま、気の抜けた声でそう答えた。
「はい、承知いたしました」
バーテンダーはそんな男の態度を特に気にした様子もなく、後ろの棚から新しいグラスを取り出すと、器用に液体を注いだ。
「どうぞ」
そう言ってバーテンはカウンターの上に作りたてのバーボンを置き、融けかけた氷だけになったグラスを下げた。
男は何を思いたったのか、今まで何もみていなかった瞳を向け、まるで違う世界の出来事を眺めるかのようにそのバーテンダーの動作を追った。
しばらく、何か考えていたようだったが、ふと口を開いた。
「この世の理りでは俺もこのグラスも一緒なんだなぁ。味わう部分がなくなれば、もう用無しだ」
それはバーテンに話すというよりはまるで、一人、思い出を思い出す時のひっそりとした消えそうな独り言みたいだった。
「さっきの彼女さんのことですか?」
バーテンダーは下げたグラスを洗う自分の手をみつめながら言った。
「ああ」
男はほんの微かに頷く。そして、目を伏せ先程よりもさらに小さい声で続けた。
「長いようで・・・短い愛、だった」
そして、何かを振り払うように首を横に振った。
「そうですか」
バーテンは客に目も向けず、相槌をうつ。
「うっわ、さぶっ」
「ちょっとー、雪降ってるよぉ。最悪ぅ」
店を出ようとした若い二人組みが開いたドアの向こうを見、口々に文句を叫んだ。
「雪、ですか・・・」
バーテンダーがドアの長方形から覗く外の白い景色を見て呟いた。
「雪と言えば・・・こんな話がございまして・・・ほんのくだらない話ですが」
彼はいったん手元のグラスに視線を落とすと、顔を上げ、男の目をしっかり見据え淡々とした口調で語り始めた。
「ちょうどこんな感じのバーで、あなたと同じように恋人と別れたばかりの男がぼーっと考えこんでいましてね。名前は・・・ジャックといいました・・・』