勉強開始
「……ふっかぁーっつ!」
町はずれのレマンヌス湖の湖岸、夜明けの太陽に死線からの生還を祝って雄叫びを上げる。
決して例の風呂場の騒ぎで社会的に死んでいた、という意味ではない。
いやホント、別にあれは大した騒ぎにはならなかった。
僕がどこか遠い別の世界から来た人間なのは皆知ってるので、インターラーケンの風呂のルールも知らないのはみんな分かってた。
で、実際あの後は、鉢合わせした妖精さんとかが、親切に風呂の入り方を教えてくれた。
脳が死んでた僕の手を引っ張って、笑顔で浴室へ引っ張ってくれたのだ。
まぁ、ショックのあまり記憶がハッキリしないけど、気が付いたら洗濯場から帰ってきた姉ちゃんと合流してた。
別にあのあと町の人の視線が冷たいとか、ゴミを見るような目をされたとか、石を投げられるとかもなかった。
どうやら、社会的に死んだりしなかった。
助かった、こんな自分の家も無い場所じゃ、引きこもりにもなれやしない。
で、それじゃ何が復活したのかというと、本当の意味で死線をさ迷っていたんだ。
街の案内をしてもらった次の日から、僕も姉ちゃんも揃って高熱を出し、死にかけていた。
三日三晩、高熱・咳・悪寒とかその他もろもろで、のたうちまわって苦しんだ。
そして四日目の朝、見事回復元気一杯!
生き延びたことをインターラーケンの山々から顔を出す朝日に感謝。
何の病気だったかは分からない。
いや、分かるはずがない。なにしろここは僕ら姉弟にとって異境異界なんだから。
多分だけど、いや間違いなく、この世界の病気にかかってしまってたんだ。
この世界の人なら風邪かはしか程度のものだったかもしれない。でも、僕らにとっては全く免疫のない未知の病原菌。
それが致命的なのは、高校生の僕にだって分かる。
もしインターラーケンの人達が必死に看病してくれてなかったら、確実に死んでいただろう。
「おっはー。
どうやらあんたも生き延びたようね」
後ろから姉の声がする。
見れば、この三日でゲッソリと痩せてしまった姉ちゃんが、それでも元気に歩いて来てた。
お互い、町はずれの湖畔まで歩いてこれるくらいに回復。
その後ろにはジークリンデさんもついてきてる。
病に伏せってる間、ジークリンデさん始めインターラーケンの人達は、本当に必死で僕らの看病をしてくれてた。
庁舎の一室、どうやら客間らしき部屋を僕らの病室としてくれて、一日中付きっきりで汗を拭いたり額のおしぼりを交換してくれたり。
デンホルムさんやルヴァンさん以外にも何人ものエルフさんが来て、色々と薬らしき物を飲ませてくれたりした。
あと、PCを開いてもらい医療ソフト『家庭の医学』を動かし、もうろうとした意識の中でも必死で地球の応急処置法をルヴァンさんへ説明した。
僕のリュックに入っていた救急医療セット、その中の薬(病院から処方されたけど使わずストックしてた、薬局では売ってない抗生物質もあった)も使いまくった。姉ちゃんが持ってきてた各種サプリメントの錠剤も。
飲もうとしたその薬を延々と調べたり、説明をしつこく求めてくるルヴァンさん始めエルフの人達にはマジで腹が立ったが。
ジークリンデさんがエルフ達を追い出してくれなかったら、本当に薬が間に合わず死んでたかも。
すっかり元気になり、うーんと背伸びする姉ちゃん。
その後ろにいるジークリンデさんが、目の前へフワリと飛んでくる。
僕の右頬に手を当て、心配そうに顔をのぞき込んできた。パッチリした黄色の瞳……近いよ照れるよ。
慌てて一歩下がり、深々と礼をする。
「メルシー、ジークリンデ」
精一杯の感謝。
ジークリンデさんは、僕らの命の恩人。
いつも粥やミルクを飲ませてくれたり、着替えさせてくれたりした。
恥ずかしいけど、まあ、シビンとかでオシッコも……病気だからしょうがないとはいえ、思い出すと恥ずかしい。
そしてジークリンデさんは、小さな体で本当に頑張って看病してくれた。イヤな顔一つしなかった。
夜、額の汗を拭こうと身を乗り出す彼女の姿。熱にうなされてたけど、窓からの月明かりに照らされた横顔は、今でも良く覚えてる。
体を直角に折り曲げて、心からの感謝を表す。
姉ちゃんも一緒になって頭を下げる。
ジークリンデさんは、そんな僕らを見て、ウェーブのかかった赤毛を揺らしながら慌ててしまう。
「Ie vous coucier pass.
Ie done fais pass attention」
そういうと、頭を上げて下さいという仕草をする。
意味はなんとなく、『そんなの構わないから、気にしないで』というようなのだと感じられる。
そうはいっても、この恩を返さないではこちらの気が済まない。
なんとかして、今は無理だけど、いつかこの恩を返そう。
いやその前に、この国の言葉でちゃんとお礼を言おう。
顔を上げたら、デンホルムさんも歩いてくるのが見える。
この人も、どーも面倒くさそうな態度とかあったけど、地球の薬を調べるのを優先してなかなか飲ませようとしてくれなかったこともあるが、ともかく治療してくれた。
偉そうな見下すような視線は気になるが、ともかく同じく礼を言って頭を下げる。
こちらは、さも当然と言いたげに澄まし顔で、小さく頷いただけ。
ま、まぁ、気にくわないけど、良いとしよう。
とにかく、街に戻って洗面するとしよう。
体はもう大丈夫、普通に動ける。
なら、これからが本番だ!
さーって、頑張るぞ。
そんなわけで、それから十日ほどはあっと言う間に過ぎた。
僕らには病室として使っていた庁舎の客間らしき部屋が、そのまま与えられた。一部屋だけだけど十分広かったし、ベッドは二つあったので、部屋をカーテンで区切って使うことにした。
窓側は姉ちゃん、ドア側は僕。南向きで二階の部屋、窓はガラスがはまってて、虫除けの網戸もある。
小さな執務机とか椅子とか棚もあり、悪くない。
天井と床は木の板が張られてる。ドアも木製。壁には暖炉があり、薪も置かれてる。夏だからいらないけど。
基本的に余計な装飾は無い。出来たばかりの街だし、予算的にも時間的にも余裕が無かったんだろう。
僕らの荷物も運び込んでもらった。チェックしたけど、何もなくなったり壊れたりしていなかった。
衣食住との交換条件は、彼らの研究に協力すること。それはこちらも願ったり叶ったり。
朝は日の出前に起き、身だしなみを整える。
そして庁舎で働く妖精達と一緒に、一階の厨房横で食事。
朝食はヨーグルトとかパンとか、昨日の夕飯の残りとか。
この国の人の食事はどんな物か、まだよく知らない。基本的に各種族が共通して食べてるものは、吐くほどマズイとかはなかった。
というか、薄味。塩をメインに香草とか辛子とかはある。でも化学調味料は使ってないし、調味料の種類も地球ほど多くない。
それでも十分美味い。素材が新鮮なせいか、物足りなく感じても飽きるとかはない。
グルメ情報はおいといて。
朝食が終わると、デンホルムさんの授業が始まる。
結構なスパルタ式で、指示棒というよりムチみたいな物を片手にビシバシ厳しく叩き込まれた。
私語もよそ見も許さず、ちょっと気を抜こうものなら即座に机や壁がビシッと叩かれる。
この人、本当に鬼教師。
おまけに偉そうで、間違えたらバカでも見るかのような目を向けてくる。
ぐぐぐ、ムカツク。
しかし色々教えてくれるのも事実。それに論理的かつ丁寧で分かりやすい。やたら説明が長いけど。
おかげで、色んなコトを知ることが出来た。
魔界の言葉はフランス語を基本とし、英語やドイツ語などを混ぜ合わせたようなものだ。
だから文法とアルファベットに英語との共通点が多い。おかげで理解自体は可能。
すぐに簡単な挨拶と基本的な会話くらいなら出来るようにもなった。
ちなみに題材として最初に習ったのは、子供向けのおとぎ話――
――はるか昔、世界を滅ぼそうとした悪の魔王がいました。
その力は大地を割り、炎の柱を生み、天を暗黒に閉ざすほどだったといいます。
生きとし生けるもの全てを奴隷とし、逆らう者は皆殺しにし、あらゆる金銀財宝を奪い尽くしたそうです。
でも、あらゆる種族が力を集わせ、知恵と魔力の全てを束ねました。あらゆる神へ祈りを捧げたのです。
神は祈りに応え、選ばれた戦士達に奇跡の力を、逃げ惑う人々には新天地へ向かう船を授けてくれました。
奇跡の力を得た戦士達は魔王に戦いを挑み、長き攻防の果てに、ついに勝利するこどができました。
天に太陽が戻り、割れた大地は平らになり、炎の柱は消えました。戦士達は魔王が奪った目もくらむほどの財宝を手に入れたのです。
こうして人々は神の戦士達に導かれ、船に乗って楽園へ辿り着き、手を取り合い力を合わせて長き平和を生み出したのでした。
めでたしめでたし――
――そんな感じで、最初の授業は基礎から始まった。
そして段々と内容は高度になり、題材はこの世界の歴史・文化・地理とかへと進んでいった。
ちなみにこのおとぎ話、各種族でも伝え聞かれるほど一番有名な物語だそうな。
今の魔王様が魔王と自称してるのは、この古いおとぎ話の魔王に匹敵する力を持ってるからだって。
そうは見えないけどなあ。
昼食と昼休みを挟んで、今度はジークリンデさんに生活上のことを教えてもらう。
炊事、洗濯、掃除、周辺の地理、街の決まり事、ゴミの出し方、この地に住む危険な動物達、役に立つ植物、etc。
で、妖精さん達の伝統料理も教えてもらったわけだが……。
ううむ、美味しい芋虫の食べ方とかはちょっと……。
妖精さんたちは森で暮らしてて、森の動植物を食べて暮らしてる。
草花とか果物とかはいいとして、なんと虫を主食っぽく食べてた。
いや、確かに体のサイズからいって牛や羊が飼えそうじゃないし、森で簡単に手には入るタンパク質となると、そりゃ虫だろうけど。
それを、親切にも僕らにも勧めてくれた。満面の笑顔で。
蜂の子の煮物とか、真っ黒い大きなアリの炒め物とか、タガメの揚げ物とか、もう何だか分からない気色悪い虫の鍋とか……。
目を力一杯閉じ、口の中に一気に放り込み、味を感じる前に必死で飲み込んだ。
うっかり蜂の子を噛んだら、中から生臭いタラコのような食感の物が、口いっぱいに広がって……。
姉ちゃんと並んで顔を真っ青にしながら食べてたら、さすがにジークリンデさんも気をつかって、すぐに皿を下げてくれた。
以後、虫料理は出さないでくれた。
イヤな思い出は忘れよう、と言いたいけど、これからも色んな種族の色んな食事を出されることはあるだろう。
この程度でへこたれてたら生きていけない。
姉ちゃんは泣きそう、というか、もう泣いてるけど、僕も涙がダラダラ流れてしまうんですが。
初めての食感が口に残る僕らは、青ざめた顔のまま、無言で頷きあった。
逃げちゃダメだと誓い合った。
逃げたいけど逃げれないから諦めて受け入れる、というのが本音だけどね。
そして日暮れからはルヴァンさんをはじめとした技術者や研究者の人達に地球の知識を教える。
携帯の使い方、PCの機能、リュックの素材、日本や地球のこと、etc。
まだ高度な内容は説明出来てないけど、それでも彼らにとっては新技術新素材の山。みんな目をランランと光らせて学ぼうとしてる。
僕らがこの世界に来た事情も、少しずつ説明し続けてる。この調子なら長くはかからないかも。
そんなこんなで、あっと言う間に日は過ぎた。
僕らもいい加減この街に慣れてきた。
汚れた服も洗ったし、風呂にも入れたし、食事の心配もないし。
インターラーケンと魔界の勉強も順調だ。
ジークリンデさんから最初に学んだのは、妖精達のこと。
妖精さん達は、インターラーケン山脈一帯に暮らす種族。
とてつもない大山脈で、翼が無い種族には立ち入ることすら難しく、おかげで妖精達の故郷となっていた。
でも大山脈過ぎて他の地域との商売も出来ず、冬も厳しく、ハッキリ言って貧乏。体も小さくて他種族に比べると弱い。
なので昔は山脈から出ず細々と暮らしていた。
でも今の魔王に城で働かないかと誘われ、魔王の保護があれば安心かな、と思って沢山の男の妖精達が山を降り出稼ぎに出た。
以来、妖精達は魔王一族のメイドや執事として出稼ぎ生活をしているんだって。
そして男の妖精が出稼ぎに出てるせいで、インターラーケンには女子供老人の妖精しか残ってない。
妖精達は魔法も使える。
例えば彼らの背中に生えてるのは、本物の蝶の羽じゃなくて、魔法で形作った擬似的なモノだ。
ちょっと触ってみようと手を伸ばしたら、慌てて逃げられてプンスカ怒られた。妖精の羽に触れるのは、かなり失礼なことらしい。
それは引っ込めることも出来た。ジークリンデさんが何かの呪文を唱えてお祈りすると、見る見るうちに小さくしぼんで背中に吸い込まれてしまった。
蝶の羽を仕舞った彼女は、本当に人間の女の子みたい。うーん、小顔というには頭が小さすぎるけど。
他にもいろんな種族がいる。
そして主立った魔族には魔王の子供達、王子王女が派遣され支配している。
例えば第一王子、ラーグン=パンノニア。
インターラーケン山脈東方のパンノニア地方を治め、 その地を中心に暮らすリザードマンと竜族を支配してる。
そこにアクインクムという巨大な都市を建設し、 小型で大人しい飛竜ワイバーンを利用した運送会社、ワイバーン航空便を経営している。
実はこのジュネヴラの上を飛び回ってる竜騎兵や飛行船、全部ワイバーン航空便の船と従業員なんだってさ。
武装しているのは、魔界は決して安全な場所ではないから。
そんな感じで、王子王女が各種族を統治してる。
他にも第二王子、ルヴァン=ダルリアダさんはエルフの住む北の大陸ダルリアダを統治し、キュリア・レジスという名の都市を築いた、とか。
エルフを支配してるからエルフの部下が多かったワケか。
で、このインターラーケン山脈を統治してるのがトゥーンさん。だから名前がトゥーン=インターラーケンさん。妖精族を支配し、つい最近から首都ジュネヴラの建設に着手した、と。
習うべき事、分からないこと、知らないことは山ほどある。
特に気になるのは魔法のことだ。
彼らの使う魔法について学ばないことには、それを使って地球へ帰ることもできないわけであり、急いでそれを理解しないといけない。
なので姉ちゃんと相談し、授業が始まって一週間目の今朝、朝の一礼の後にお願いすることにした。
授業は僕らの泊まってる部屋にデンホルムさんが来てくれて、テーブルを部屋の真ん中に持ってきて行ってる。
必要に応じて地図とか資料も持ってきてくれる。
態度としては見下してるとかイヤそうとかはあるんだけど、少なくとも手を抜いてる様子はない。むしろ懇切丁寧に授業をしてくれてると思える。
ノックの後、部屋に入ってきたエルフの教師へ姉と一緒に一礼。
そして早速お願いする。
「えっと……ぷ、Professeur Denholm(デンホルム先生)、
ぶ、ヴォ、Vleallez tencheagner la magice tojourd'huy (今日は魔法を教えて下さい)」
「Magice? Maintenant?(魔法を? 今すぐに?)」
「ウィ」
今のは、この十日ほどで習ったこの国の言葉。
まだ非常にぎこちない。発音もなってない。
けど、デンホルムさんのスパルタ授業と、ジークリンデさんとのおしゃべりのおかげで、なんとか簡単な会話なら出来るようになった。
だから魔法の話も出来るだろう、とは思ったんだけど、デンホルム先生は相変わらず下らないと言いたげに肩をすくめて見下ろしてくる。
「You done devez pass devenir impatient(焦ってはいけません)
You seem Être debout à l'entrée of grand château maintenant.(あなた達は今、大きな城の入り口に立っているようなものなのです)
Eile mit Weile(急がば回れ)」
この国の言葉も、ある程度は分かるようになってきた。
彼らの言葉は姉ちゃんが言ってた通り、基本的にフランス語。それに英語とか他の言語がごちゃ混ぜになったようなものだ。
文法やアルファベット、単語も英語とかなりの共通点がある。
おかげで、受験勉強で得た英語の知識がかなり役に立った。特に姉ちゃんは大学受験勉強の英語知識と、大学ではフランス語選択だけあって、上達も早い。
こんな調子で彼らの言葉を一日中聞き続けてれば、日本語と同じように話せる日も遠くないかも。
でもデンホルムさんの答えは、ゆっくりと分かりやすい発音で、子供に言い聞かせるようにNon(否)。
あーもー、まどろっこしいったらありゃしない。
僕らは実際焦ってるんだよ、早く地球に帰りたいんだよ、そのために魔法の知識が欲しいんだってば。
でもデンホルムさんは僕らの希望を無視し、地図を広げて魔界支配地域と魔族の各種族の分布について授業を始めた。
はぁ……こんな調子で、一体いつになったらワームホールとか加速器とかを全部説明出来るのかなあ……彼らがやってた実験との関係も気になるってのに、全然そこまで話が行かない。
隣の姉ちゃんも肩をすくめて溜め息。
「全く……本当はこの人、自分が自慢したい知識をひけらかして喜んでるだけじゃないかしら?」
そんな姉ちゃんの愚痴には返答として、先生のムチがビシィッと打ち鳴らされるだけだった。
でも、僕らの希望は予想以上に早く叶えられた。
デンホルムさんが魔法について教えるのを後回しにした理由も、すぐに分かることになった。
僕らにとってもインターラーケンの人々にとっても悪夢のような事件によって。
次回、第五章第二話
『飛空挺』
2011年4月9日01:00投稿予定